森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

幸せの定員 (創作小説)  ***+6***

 
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幸せの定員(創作小説)

 

    

***+6***

 
「キャンプは来週だけど、その間くらい自分で食事作れるよね、和くん?」
 話題が変わった。佳恵は心に溜まっていたものをすべて和幸に吐き出して、すっきりしたようだ。
「食事作るなんて全然大丈夫。心配しないでいいよ。僕の方こそ、その間キャンプ生活をエンジョイするんだ
から。今まで秘密にしてたけど、僕が作る直火焼きのキャンプ飯、最高に美味いんだよ」
「そうよね。レトルトのカレーでも外で食べると途端に美味しくなっちゃうものね」
「馬鹿にしたなーー。直火焼きの薪は斧で薪を割るところからちゃんと準備するんだから」
「帰ってきたらお家が丸焦げだった、なんていうことだけはないようにしてね」
 言いながら、ころころと笑い声をあげている。佳恵の機嫌はすっかり直ってしまったようだ。佳恵の笑顔はいつだって和幸の心をじんわりと温めてくれた。
 佳恵は鼻歌を歌いながら食事の後片付けにとりかかる。粗く束ねた髪が背中の上で元気よく跳ねている。和幸は煙草に火を点けようとして手を止めた。煙草はベランダで。佳恵からきつく言われていることだった。
「できれば止めて欲しいけど……。お互い健康で長生きしたいからね」
 佳恵の言葉を思い出した。
 ──いつまでも二人で一緒に時間を過ごして、たくさんのことを体験して、いろんな思い出を作ろうね。
 洗い物を終えた佳恵が両手を左右一杯に広げて欠伸をしている。とっても、無防備に。
 この際禁煙でもしてみようか、和幸はまだ数本残っている煙草を箱ごとぐしゃりと握りつぶし、ゴミ箱に放り込んだ。

  

「補欠合格」の通知を和幸は大学四回生の時にもう一度受け取った。県職員の採用試験の結果がそうだった。もう一方の希望だった出版関係の企業の入社試験はどこにも引っ掛からなかった。ついでに受けた流通関係の会社からは一つ二つ内定をもらってはいたが、あまり気乗りしないところばかりだった。おまけに、どの会社も就職することになれば、東京に引っ越す必要がある。そうすれば佳恵と離れなければならなかった。その頃の和幸には遠く離れて住んでも、佳恵の心を繋ぎとめておける自信はなかった。佳恵は本気で教師になるつもりでいる。地元を離れる気持ちはまったくないようだった。
 和幸と同期の法学部生でゼミも一緒だった佐々木裕輔という学生がいた。二人は話がよくあい、下宿先も近所だったから、試験前にはよく一緒に勉強をした。二人のノートを合せれば試験に必要なほとんどの内容を漏れなく拾うことができた。出版社に勤めたいという将来の希望も共通していたし、母親を早くに亡くしたという境遇も似ていた。
 和幸は母親、有美子の顔を写真でしか知らない。和幸が産まれた日が有美子の命日だった。和幸に命を与える代わりに、有美子は息を引き取ったのだ。だから写真と言っても、親子二人が一緒に写ったものはない。大きなお腹を両手で優しく包み込むんでいる臨月近い有美子を撮った写真だけが残っていた。
「このお腹の中に和幸がいたんだ。君がここから生まれてくる時は本当にすごい難産だった。お前の命は……、お母さんがくれたものなんだよ」
 その写真を幼い和幸に見せながら、父親の幸司がしみじみとそう語ったことがあった。
 幸司が脱サラして始めたペンションは、変な噂が囁かれるようになり、客足が遠のいていった。そして、和幸が大学一回生の時に、幸司は妻の真砂美と和幸とを残して突然いなくなってしまった。理由は全く分からない。真砂美もその後間もなく姿を消した。それからの和幸は一人っきりで生きてきた。他に係累はなかった。
 佐々木裕輔の母親は彼が小学校の頃に亡くなったそうだ。父親の方は健在だったが、彼らが大学三回生の年に病気で倒れたと聞いていた。息子の裕輔は地元で就職することを望んでいる父親を安心させようと、公務員試験も受けることにしていた。佳恵の傍を離れたくない和幸もまた公務員試験を受けることにした。二人はそろって願書を出し、同じ会場で試験を受けたが、合格通知をもらったのは裕輔の方だけだった。佐々木は出版社にも採用の内定を決めていた。
 和幸が受け取った公務員試験の通知には「補欠」と書いてあった。その文字を食い入るように見つめながら、和幸の心には中学受験の時の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
 今度もまた、自分はバスに乗り遅れようとしている。バスは自分が停留所に着くまで発車を待ってくれるだろうか、どこかに空席は残っているだろうか。鬱々と過ごす日が続いた。裕輔が出版社を選べば自分にもまだ可能性が残っている。そうなれば、今回もまた「繰り上げ合格」の可能性がある。けれど裕輔には出版社を選ぶつもりはまったくないようだった。なんだか佐々木が自分の人生を邪魔しているような思いに和幸はとらわれていく。
 夏休みの終わりが近づいていた。卒業後の進路をそろそろ具体的に考えなければならない。和幸はカメラ好きの佐々木をドライヴに誘った。ゼミの学生たちと遊びに行ったことは何度かあったが、二人で出かけたのはそれが初めてだった。
 山間のドライヴウェイを二人の乗った車がかなりのスピードを出して走って行く。急カーブでハンドルを切り損ねた車は切り通しの崖に激突し、大破した。運転していた裕輔はハンドルで胸を強打し出血多量で死亡した。和幸は潰れた車体に腰から下を挟まれた。なんとか一命は取り留めたものの長期の入院を余儀なくされてしまう。原因は裕輔のハンドル操作ミスということに落ち着いたが、それを証明するのは和幸の言葉だけでしかなかった。
 裕輔の死によって生じた県職員の採用枠の欠員には、瀬山和幸の名前が書き込まれた。採用の通知を和幸は病院のベッドで受け取る。和幸の怪我は特に右足がひどく、後遺症が残ってしまった。が、その時もバスは和幸を待ってくれた。

  

 そして今、和幸の隣の座席には佳恵がいる。柔らかな日差しが車窓から差し込んでくる。和幸はゆったりとした気分で座席に身体を沈め、佳恵の横顔を見つめている。

 

 

(続く)
 

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似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。