森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

幸せの定員 (創作小説)  ***+7*** これまでの掲載分もまとめています。本年もどうぞよろしくお願いします(^_^)

 
f:id:keystoneforest:20170801214436p:plain

   

 

あけましておめでとうございます。

コロナ禍でのお正月、どうお過ごしでしょうか。

年末の寒波到来で、神戸にも雪が積もりました。

新年の陽光がその雪を溶かしていくように、2021年が明るい年になりますように。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

2021年 元旦 山猫🐾

 

 

 

 

「幸せの定員」という創作小説を11月の終わりから、連載しています。

でも、ぼちぼち更新のために年を越えてしまいました。

連載はようやく後半に差しかかり、あと数回で終わります。

今日からラストまで毎日更新しますので、よろしくお願いします。

本作を初めて読んでくださる方、前に読んだけど内容を忘れてしまったという方は、初回からまとめて掲載していますので、このままスクロールして「***-3***」からお読みいただければと思います。

前回の続きを読んでくださる方は、クリックしていただけると「***+7***」に飛びますので、こちらをクリックしてください ☞ 「***+7***」

 

 

 

 

 

幸せの定員(創作小説)

  

 

***-3***


 バスの揺れに合わせて乗客が揺れる。車窓に映る景色も同じように揺れる。上に下に、左に右に。大きく、小さく。
 シャーシが軋む音と整備の悪い道の具合からすれば、そのバスはおそらくかなりのオンボロで、たいていは田舎道を走っているのだ。
 乗客たちは皆、前を凝視している。遥か前方に淡い光が見える。バスはその光に向かってゆっくりとゆっくりと走っていく。
 バスはいつも満員。それで足らずに、屋根にもドアの外にも何人も何十人もがしがみついて乗っている。もはやそれ以上は猫一匹だって乗れそうにない。それなのに、停留所にはおびただしい数の人たちが待っていて、バスが着くたびに、その大勢の人たちが先を争って乗り込もうとしてくる。
 乗客たちは、いつ来るか分からないこのバスをずっとずっと前から待っていた。停留所があるんだからきっといつかやってくる。そう信じて待つしかなかった。なにしろ、この停留所の時刻表には何も書いてない。この便を逃したら、次来るのはいつになるか分からない。分からないけれど、みんな知っている。次のバスが来るのは数年後か数十年後か。ひょっとしたら、これが最終便かもしれない。そうも思っていた。だから、なんとしてもそのバスに乗らないといけないのだ。
 しばらくしてバスはまた走り出す。誰が乗ったか乗れなかったか、バスにはあまり関係ない。ただ淡々と走る。
 時折大きな石か何かを踏んで、バスは車体がバラバラになりそうなくらいに激しく揺れる。はずみでバスから放り出されてしまう客もいるし、せっかく席を確保していたのに、振動で気分を悪くして降りてしまう客もいる。そしてまた、その空いたばかりの席にタイミング良く座れる人もいる。
 乗り遅れて大きく手を振る人影がある。置いていかないで、と叫んでいる。でも、一度走り出したバスはもう止まらない。その人影はみるみる視界の彼方に遠ざかっていく。
 ひょっとしてあれは自分じゃなかったか、そんな人影に気づくたび、不安のイバラが瀬山和幸の心臓をそっと撫でる。ばかな、、、オレはここに座っている。ちゃんとバスに乗っている。
 でももう一つ、以前から気になって仕方がなかったことに和幸は思い当たる。
 僕の隣に座っているのは誰なんだ?
 確かめたくてどうしようもないのに、どうしてもそちらに首を振ることができない。何かに堅く縛められたように首が動かない。気にすればするほど身体全体が強ばっていく。
 そうして、びっしょりと寝汗をかいて、和幸は目を覚ます。

  

f:id:keystoneforest:20201123173122j:plain

   

 

***-2***


「ねえねえ和くん」

 食事の手を止め、妻の佳恵が声をかけてきた。佳恵は結婚して半年が過ぎた今でも、大学で知り合った頃の言い方のままで和幸を呼ぶ。
 ダイニングにはテレビを置いていない。食事しながらテレビは観ない、二人の会話を大切にしよう、そう話し合った。
 佳恵のおしゃべりに勝るものはない、と和幸は思っている。いつかテレビを観ながら食事するときが来るとすれば、それは二人の関係性が変わってきたことを表しているのだろう。
「小学校の遠足の時って、バスの中で何してた?」
 佳恵は続けて訊いてきた。
「何してたって、、、バスの中の過ごし方に、寝る以外の選択肢がある?」
 和幸はご飯を頬張ったばかり。それを一気に飲みこんで答えた。
「まあ、、、寝てたの? ずうっと? いつもみたいに大きな口を開けて? まさか、口元に涎……。なんていうことはなかったでしょうね。よくいるよね、ぽかんとだらしなく口を開けたり、薄目が開いたままだったりして居眠りしてる人。ほんとに不気味な顔……」
 佳恵はひとしきり笑い転げる。
「……で、バスの中って何が面白かった?」
「だから、ずっと寝てたから分からないって。僕の話聞いてた?」
「やっぱりカラオケだった? バスレク」
「ねえねえ聞いてる? だから寝てたって。で、ばすれくって何?」
「バスレクリエーションのこと。キャンプの行事の中で自分たちのクラスだけで盛り上がれるってバスに乗ってるときくらいしかないんだから。ここでクラスをまとめられるかどうかが決まるんじゃない。意外に簡単に盛り上がるのがイントロ当てクイズなんだけど、用意するのが面倒だし、すぐ終わっちゃうし」
「バスの中なんだからバスガイドさんに任せてゆっくりしてればいいんじゃないの? 小学校のときだって中学校のときだって、バスに乗ったあとは、生徒なんて放っておいて、先生たちずっと居眠りしてた気がするんだけど」
「先生が眠って、みんなも眠って、バスガイドさんも寝てしまいました……」
 佳恵は両手の拳を目に当てて、眠い眠いという仕草をする。
「……いいなぁ、それって。私ものんびりとバスに揺られて行きたいなぁ。でも、あの子たちはダメ。絶対にダメ。そんな『のんびりバスタイム』が許されるのは美代子先生みたいな超ベテランの先生だけ。子供たちってガイドさんの話なんて全然聞かないんだから。ずっとおしゃべりばっかで。『ガイドさんの説明を聞きなさい!』っていちいち子供たちを叱ったりしてキャンプ地に着く前にトラブったら、せっかくの気分も盛り下がっちゃうし、もう台なしよ」
 佳恵の口調はどんどんヒートアップしていく。
「やるね、さすが熱血佳恵先生、、、でも、大丈夫?」
 和幸が真顔で訊くと、
「やだ、冗談に決まってるでしょう」
 佳恵は右手の親指を立てて笑顔を返した。
「でも、バスの旅って好きだな」
 和幸は話題を変えた。
「観光バスの旅? ビールとおつまみを山ほど買い込んで? 何だか、おっさん臭い。和くん似合いすぎる……」
「誰がおっさんだって? 違うったら。そんなこと言ってないから。僕が言いたいのは、町を走ってるバスのこと。旅行先で、目的地も決めずに、ごくごく普通の路線バスを乗り継いでいく。そんな旅がしたいって思うんだ」
「それって旅なの? お仕事かお買い物に行くみたいじゃない?」
「バスの車内って、小さな一つの世界だって思うんだ。そんな小さな世界に同乗しているお客さんたちと一緒に同じ景色を見て、一緒に右に左に揺られていると、みんなが運命共同体みたいに思えてくる。そんな気しない? 飛行機より新幹線、新幹線より電車、電車よりバス、断然バス、絶対バス! ゆっくりと町並みを眺めながら、揺られて気分良くなると居眠りして。時々目が覚めて、別の町並みを見る。これ以上に味のある旅ってないと思うんだけどな、、、」

   

f:id:keystoneforest:20201123172810j:plain

 

  

***-1***


 バスは民家の軒先をかすめるようにして器用に狭い道を走り抜けていく。
 農協下、役場前、中央通東口、中央通西口……。ほんの数百メートルおきにある停留所に、バスは生真面目に停まって走る。
 停留所のベンチに老婆が座っている。気持ち良さげに目を閉じ、居眠りをしている。バスは軽くクラクションを鳴らして老婆を起こす。はっと目を覚ました老婆は運転手を拝むような仕草をしてバスに乗り込んできた。あいにく車内は満員だ。老婆が増えた分、降車扉のすぐ傍に立っていた、腹にたっぷりと贅肉を蓄えた初老の男が代わりにバスから押し出される。
 通路に立っていた中年の女性が老婆に優しげな声をかける。二人の女性が話す声が和幸の耳に届いてくるが、訛りが強くて何を言っているのかよく分からない。ひそひそ話が席を譲ろうとしない自分を非難しているように聞こえてくる。耳に障ってたまらない。和幸は深く座席に腰を沈めたまま、知らぬ風を装って相変わらず外を眺めている。
 やがてバスはM小学校前に停車する。珍しく乗車待ちのお客さんはいない。
 遠くの方から、ランドセルを背負った少年の和幸が、発車間際のバスに向かって必死で走ってくる。少年の和幸は苦しそうに顔をひどく歪め、今にも泣きだしそうな表情だ。顎を上げ、口を大きく開けて喘いでいる。足がもつれそう。
 バスが発車準備を始める。
 車中の和幸は思わず立ち上がる。息ができない。車中の和幸もびっしょりと汗をかいている。
 まだまだ日は高い。

   

f:id:keystoneforest:20201123172258j:plain

 

    

***+1***


 M小学校は和幸が六年生の秋に転校した先の小学校だった。転校の理由は父親の瀬山幸司が長年の夢だったペンション経営を始めるためにM村に引っ越したからだった。
 幸司は二十年間勤めた大手家電メーカーを辞め、県中央部の山間の地、M村でその夢を実行にうつすことにした。茅葺き屋根の旧家をペンションに改装し、食器や寝具類を用意し、車も送迎用のワゴンに買い換えた。近くに温泉が湧き、冬にはスキー客も数多く訪れる地方だった。
 若い頃から幸司は暇さえあれば旅に出ていた。休みのたびに行き先も決めず、リュックを背負ってぶらりと一人で出かけていた。
 社会人になってからはその機会も少なくなり、いつしか幸司の楽しみは、旅をすることからそれを語り合うことへと変わっていった。旅を語り合う最良の方法は、旅人をもてなす側になればいい。そうすればいつでも飛び切りの刺激に満ちた話を聞くことができる。幸司の方も客たちの好奇心を満足させるのに充分な冒険譚をいくつも持っていた。毎晩遅くまで宿泊客たちと旅の思い出を語り合う。楽しい話が聞けるなら、家族が食べていけるだけの稼ぎで充分じゃないか。幸司は旅先の街で道を尋ね、それがきっかけで後に結婚した妻の有美子と、そんな夢を語り合ってきた。
 その妻、有美子はもうとうに亡い。夢が現実になった時、幸司を助けることになったのは、再婚したばかりの二人目の妻、真砂美だった。料理を振る舞うのが大好きな彼女が調理担当を快く引き受けてくれたおかげで、幸司はペンション経営に踏み切ることができたのだった。

 

 新しいクラス担任は満面の笑みをたたえて、転入生の和幸をクラスの子供たちに紹介した。
「今日から、六年二組の仲間になる瀬山和幸君です。先月事故で亡くなった高橋沙耶香さんの代わりだと思って、みんな仲良くしてあげてください」
 黒板の低い位置に和幸の名前が書かれている。自分で書かされたので右下がりの癖のあるその文字は小さく弱々しく見えた。
 担任の教師はその年の春に大学を卒業し、M小学校に赴任したばかりだった。ようやく教師生活に慣れてきたと思えた二学期に初めての教え子を交通事故で亡くしてしまい、それから一カ月の間は落ち着きを失っている子供たちにどのように接すればいいのか途方に暮れたまま過ぎていた。教職教養の参考書にも学習指導要領にも、どこにもそんなときの対応の仕方など記されていなかった。
 その教師は「タカッチャン」という愛称で子供たちから呼ばれていた。誰にでも優しく声をかけ、心配事を相談されると子供たちと一緒になってあれこれ悩んでくれたが……、その声を気持ちの悪い猫なで声だと陰口をたたく子供も一部にはいた。それは、子供たちと同じ視線で物事を観ることができる教師だと好意的に評価することもできるし、裏を返せば、教師としての立場で子供を指導できない気弱な性格だともとることができる。子供たちはタカッチャンがヒステリックに怒り始めると、「言うこと聞いてあげないと、タカッチャンが泣いちゃうからな」と恩着せがましく呟くのだった。
 小柄な上に、頭髪を丸刈りにしていた和幸は、間違って上級生の教室に迷い込んでしまったのではないかと思えるほど幼く見えた。長いまつげに隠れた瞳がじっと教室の床を見つめている。真新しいシャツとズボン、おろしたての靴、彼が身につけているものすべてがサイズが大き過ぎ、緊張感を一層強いものにさせていた。
 和幸は小声で自己紹介をすませた。その声が震えているのがクラスの誰にもはっきりと伝わった。
 六年二組の子供たちはタカッチャンの口が「高橋沙耶香」と動いた瞬間、一様に怪訝な表情を見せた。だが、タカッチャンにはその表情の変化を読み取れない。もちろん、自分が余計なことを言ってしまったことになど少しも気づいてはいなかった。
 高橋沙耶香はすらりと背が高く、少し大人びた端正な顔立ちをした少女だった。クセのない長い髪をいつも几帳面なほど丁寧な三つ編みにしていた。正義感が強く何事にも物怖じしないところがクラスの委員長に適任だった。修学旅行中に、クラスの男子のグループが少々太り気味なバスガイドの説明をまったく無視して騒ぎ続け、とうとう泣かせてしまったのをうまく落ち着かせたのが彼女だったし、六年生になった当初、新しいクラスになかなか馴染めず、学校を休みがちだった女子に毎日のように連絡物を届けてくれたのも彼女だった。クラスの子供たちは沙耶香が嫌な表情をつくるのを見たことがなかった。タカッチャンの頼み事を誰もきいてくれない時に最後に手を挙げて引き受けるのもいつも彼女だった。そんな時いかにも優等生を気取ったように真っ先に手を挙げたりしないところが沙耶香の行き届いた配慮を表していた。
 クラスでは担任のタカッチャンよりも沙耶香の存在感の方が遥かに大きかった。二組の男子はもちろん、他クラスや下級生の中にも彼女に恋心を抱いていた男子は多かっただろう。男子に人気がある女子はかえって同性からは好かれないものだが、沙耶香に限ってはそうではなかった。女子たちからも篤い信頼を集めていた。一カ月前に起こった交通事故で不意にその命を終えてしまう日まで、高橋沙耶香は委員長としてクラスをまとめる不可欠な存在だったし、クラスメートの誰もが彼女と同じクラスになれたことを自慢に思っていた。
 交通量があまり多くないM村の真ん中を貫く国道を猛スピードで走ってきた車は、塾帰りの沙耶香をはね、そのまま走り去った。少年たちが憧れた彼女の笑顔はガードレールに叩きつけられ粉々に砕けてしまった。夜陰の中、何人もの子供がそれを目撃していた。ショックのあまり、それ以来夜の外出を怖がる子供もいたほどだったから、彼らの目撃証言はあまりにも錯綜してしまって、かえって真実を見えなくさせてしまっていた。

 

f:id:keystoneforest:20201123122404j:plain

 

    

***+2***

 

 警察の懸命の捜査にも関わらず、犯人の手がかりが一つも得られないまま、一カ月が過ぎていた。
 そして、事故の日以来、鬱々と沈み込んでいたそのクラスに転校してきたのが和幸だった。六年生は二クラスしかなく、一組に比べて人数が少なかったという理由だけで和幸は二組に自動的に割り振られたのだ。そのことは沙耶香が事故に遭う前からすでに決められていたことだったから、それは当然、沙耶香の空席を埋めることを意識したものではなかった。
 先のタカッチャンの不用意な一言は、ひょっとすれば、沙耶香さえいてくれれば元の平和なクラスに戻れるのに、という思いが無意識に現れただけだといえるかも知れない。ただ、その言葉はあまりにも考えがなさすぎた。
 お気に入りのクマのぬいぐるみをなくしてしょげている幼児に別の新しいウサギのぬいぐるみを与えて慰めようとしているようなものだった。タカッチャンの発言は結局、和幸についての妙な先入観をクラスの子供たちに与えてしまうことになった。それが和幸に対するいじめの最初のきっかけである。
 高橋沙耶香を失った子供たちの動揺はあまりにも大きかった。和幸が沙耶香の代わりだと言われると、かえってその存在は疎ましく目障りなものにしか映らなかった。沙耶香を亡くしてもやもやしていた子供たちの思いをぶちまける対象として、ひ弱そうな和幸は絶好の的だったといえるかも知れない。
「和幸、お前みたいなチビが沙耶香の代わりだって? お前なんかと比べられたら沙耶香が可哀想だ。お前が何千人いたって沙耶香にはかないっこなよ。いらないよ。お前なんかいらない、前の学校へ帰っちまえ」
 登下校の途中で和幸は何人もの子供たちに雑言を浴びせられた。最後はみんなで手を叩きながら「帰れ、帰れ」の大合唱になっていった。まだ同級生の顔と名前が一致していない和幸にとってはM小学校の子供たち全員が自分の敵になってしまったように感じられた。誰もが悪意をべっとりと塗りたくったお面をかぶって和幸をとり囲んでいる。幾重にも輪を作って一斉に彼を指差している。
 お前は何をしにこの学校に来た。ここはお前の来るところなんかじゃない。元の学校へ帰ってしまえ。お前なんかいらない。
 和幸は耳をふさいでその場に座り込む。その背中に誰かが石ころを投げつける……。
 高橋沙耶香をはねた車の助手席に和幸が乗っていたという噂がM小学校中に広まったのは、彼の転校から十日ほどたってからだった。轢き逃げ犯の行方は依然不明のままだ。子供たちの悪意が次第にはっきりとした形になって現れてくる。
 六年二組は高橋沙耶香の存在によってようやく一つにまとまっていた。その二組の結束は彼女が欠けたことで日ごとに脆くなり、子供たちの心は荒んでいった。初恋の対象を突然奪われた少年たちのぶつけようのない苛立ちは、当初は手当たり次第に周囲に投げつけられているだけだったが、やがてそれらは一点に集中していった。その的にされたのが和幸だった。鬱々とした思いを抱えた六年二組の子供たちにとって和幸の転校はあまりにもタイミングが良すぎたし、和幸にとっては自分の転校はあまりにタイミングが悪かった。
 和幸が自己紹介をした日から一カ月ほど経った。彼の教室の机はゴミ箱代わりに使われていた。和幸が登校して机の中を見ると、汚れた雑巾や鼻をかんだ後のティッシュ、その他教室中のあらゆるゴミが突っ込まれている。クシャクシャに丸められた紙を開いてみると、「死ね、死ね、死ね」と真っ赤なマジックで書きなぐってあった。休み時間、席を外すたびに、椅子は黒板消しで汚されていた。チョークの白い粉が積もっている。筆箱のシャープペンシルの芯は使い物にならないほど短く折られ、消しゴムにも無数の芯が突き刺さっていた。和幸の背中に落書きをした紙が貼りつけられるのはしょっちゅうだったし、給食はたいてい彼の分は当たらなかった。たとえあったとしても変な味がした。和幸の机の周囲にはいつもゴミがちらばり、誰もその机に触れようとはしない。和幸はばい菌扱いされ、徹底的に嫌われていた。組織的ないじめは暴力を必要としない。けれど暴力以上の効果を発揮する。
 母親であるということをほとんど意識していない真砂美と、新しい仕事を始めたばかりの幸司に和幸は何も相談できないでいた。担任のタカッチャンは和幸に対するいじめに少しも気づいていないようだった。それとも薄々気づきながら、知らないふりを決め込んでいたのかも知れない。タカッチャンにとっても、子供たちの悪意が自分ではなく他の者に向けられている間は、心の平穏を保つことができるのだから。そしてまた、たとえいじめに気づいて指導したとしても、子供たちはタカッチャンの言うことなど少しも聞かなかっただろう。新米の教師としては他に気を配らなければならない仕事は山ほどある。何も相談に来ない和幸を気遣うほどの余裕はなかった。
 和幸はただじっと我慢するばかりだった。いじめはおとなしい者には容赦ない。さらにそれはエスカレートしていった。

   

f:id:keystoneforest:20201122230121j:plain

 

    

***+3***

 

 「ついこの前、新しいクラスがスタートしたばかりだっていうのに、緊張感はもう全然感じられないの。これは決してみんなが打ち解けてきたっていう意味じゃないのよ。わたしが何を言っても、あの子たちはみんな目を伏せてしまうっていう雰囲気で。そのくせ勝手なおしゃべりだけは一人前。ちょっとみんな、先生の言うこと聞いてくれてる? って大声出してしまいそうになるわ」
 夕食の間中、佳恵は普段より口数が少なく、和幸の話にも生返事を返すだけだったが、食後のコーヒータイムに和幸が誘うと、ようやく重い口を開いた。
「ほんと白けてる。女子の一番のリーダー格の生徒がちょっと陰険な子でね、たぶんその子の顔色をみんなうかがってるんだと思うの。それに、どうやらいじめも始まったみたいなんだよね……」
 コーヒーに落としたミルクをかき混ぜながら佳恵は続ける。要領よく新しいグループになじめない子供がいじめの標的にされてしまう。こうなるとクラスを一つにまとめるのはなかなか容易なことではない。
 そんな話を佳恵と交わしながら、和幸は小学生の頃の自分を思い出していた。二人が暮らすマンションの十畳ほどのダイニングに調えられた家具はどれも真新しいものばかりである。まだ一つも染みのついてない天井に向かってカップからの湯気がゆらゆらとたち昇っていく。和幸と佳恵はこの春に結婚したばかりだった。
 佳恵は小学校に勤めている。四月から受け持った五年生のクラスに、とても口数の少ない女子がいて、その子がいじめられているらしいということだった。話し掛けられても俯いているだけでほとんど反応を示さず、いつも教室の自分の席に座ったまま一人で昼休みを過ごしている少女だそうだ。佳恵が今一番頭を悩ませていることは、来月に迫った二泊三日の自然教室の班編成がそのことで全然決まらないということだった。もちろん、その少女と同じ班に誰もなろうとしないからだ。
 きっとその少女はガリガリに痩せているか、それとも太りすぎているか、極端に背が低いんじゃないか……、そんな推測を和幸はもう少しで言葉にしてしまいそうになった。人を外見で判断するような考えはきっと佳恵の機嫌を損ねるだけだろう。でも、自分がいじめられたのはそのことも一つのきっかけだった、と和幸は思う。
「チビ」
 この言葉のせいでどれだけ深く傷つけられたことだろう。
「班が決まらなくちゃ、バスの座席も決まらないし、キャンプファイアーのスタンツも決められない……。真理子先生のクラスはもう全部決まっちゃったって、放課後になれば真っ先に帰っちゃうのよ」
「班なんて先生が勝手に決めてしまえばいいんじゃないの?」
 和幸は意外そうに言った。
「そんなことしてみなさいよ、去年は自由に決めさせてくれたとか、誰々と一緒じゃなきゃ嫌だとか、あいつとは一緒になりたくないとか、教室中大騒ぎになっちゃうんだから。挙句の果てに、前のクラスに戻りたいって言い出すのに決まってるわ」
「そんなものかな……。でもさ、僕もサークルの夏季合宿で偶然、佳恵と同じグループになってなかったら人生変わってただろうって思うな」
「あら、あれって偶然だったのかしら。私と同じグループになるために、マネージャーの徳留さんにずいぶん頼みこんだって聞いたんだけどな……。和くん、もう時効だから白状しなさいよ」
 一度始まった佳恵のおしゃべりは当分止みそうにない。口をはさむタイミングを与えないほどに話し続ける。食事中に言いたかったことを我慢し過ぎたせいかも知れない。おしゃべりな性格は学生時代と少しも変わらない。だが、和幸が魅かれたのは佳恵のそういうところだった。元来無口な和幸は明るくて賑やかなタイプの女性に憧れていた。おしゃべりは佳恵の元気の証しだと思っている。
 結婚してからもうすぐ二カ月になる。最近ようやく、佳恵の表情から翳が消えた。あの男のことがふっきれてきたのだろう。忙しくして気を紛らせるのが一番だ。そうしていれば、あの男、松本孝雄のことを思い出す暇もなくなるだろう。和幸は二杯目のコーヒーを催促した。
 松本孝雄の死から半年が過ぎた。松本は酒に酔って帰宅する途中、地下鉄の駅のホームから転落して電車に轢かれたのだ。彼は佳恵が当時つきあっていた男だった。

 

f:id:keystoneforest:20201122231936j:plain

 

    

***+4***

 

 和幸と佳恵は大学の同期生だった。学部は違ったが、同じテニスのサークルに入会して知り合った。新入生歓迎コンパの席順を決めるくじ引きで二人は偶然隣り合わせになった。佳恵は要領よく鍋料理の世話をし、和幸や先輩たちにビールを注いで回った。にこにこ笑いながら先輩たちのきわどい質問をかわし、とびっきりの面白い話で場を沸かせた。まるで自分よりいくつも年上のようだと和幸は感じていた。佳恵のような明るい女性に出会ったのは初めてだった。こんな女性とずっと一緒に過ごすことができれば幸せだろうな、それが和幸の第一印象だった。ところが、一方の佳恵は和幸と初めて話した時のことをあまり覚えていない。和幸は自分から進んでみんなの会話に参加するのは苦手な方だった。おそらく名前を紹介しあうことくらいしか、二人の間で言葉は交わされなかったのではないだろうか。
 一回生の夏季合宿で、運よく和幸は佳恵と同じ練習グループになることができた。佳恵が和幸の存在を意識し始めたのはその頃からだという。中学校の部活動でテニスを始めた和幸はテニスの上達とともに身長もぐんぐんと伸び続け、高校の時には県の強化選手に選ばれるほどになっていた。小学校のころ小柄でいじめられっ子だった和幸を知る者は彼の周りは一人もいなかったし、当然のことに、もはや誰も和幸をそんな目で見ることもなかった。
 佳恵は大学に入るまではほとんどラケットを握ったこともなかったようだ。和幸はそんな佳恵をサークルの活動日以外にもテニスコートを借りて練習に誘った。普段は口数が少なく、存在が薄い印象がある和幸だったが、サーブトスの上げ方やリズムの取り方、ラケットを振りぬく腕の使い方などテニスの動きを佳恵に教える時はまるで別の人になったように熱意に満ち溢れていた
。和幸の想いは言葉にしなくても充分に伝わったはずだ。和幸が足を怪我した今は二人でテニスをすることもなくなってしまったが、その頃の二人にはテニスコートに通うことがデートすることと同じだった。やがて三回生に上がったころには、サークル内で彼らの交際を知らない者はいなくなった。正反対の性格の者同士が魅かれ合うことがある。二人はきっとそういう関係だった。
 教育学部生だった佳恵は、四回生の春、県内にある母校の小学校に教育実習にいくことになった。そこで佳恵の指導を担当したのが松本だった。彼は佳恵たち実習生に一番親身にアドバイスしてくれたり、夜遅くまで一緒に学校に残って指導案作りを手伝ってくれたりした。彼が独身だという情報を子供から聞きだしてからは、実習生の女子の中には憧れ以上の気持ちを抱く者もいたようだ。
 子供たちと接する時の松本は厳しい指導の中にも必ず優しい瞳の輝きを絶やさない、実習生たちの目に彼はそう映っていた。佳恵も同じように松本の存在を頼もしく感じていた。子供たちもみんなが「松本先生」を慕っていた。あんな先生になりたい。佳恵より十歳ほど歳上だったが、そんな松本に佳恵も憧れを抱くようになったようだ。最初は教師として、そしてやがて一人の男性として。
「佳恵先生って呼んでくれるのよ、私のこと。佳恵先生、佳恵先生って子供たちがまとわりついてきて、私のジャージをつかんで離してくれないんだ。休み時間のたびにたくさんの子供に囲まれて、好きなアイドルの話とかゲームの話とかお父さんお母さんの話とか口々にしてくるの。もう誰が何を言ってるのか全然聞き取れないくらい。かと思うといきなり背中にどーんって負ぶさってきて、先生ずっとこの学校にいてねって涙目で言われちゃったりして……」
 どれだけ子供たちが可愛かったか、教師という職業がどんなに魅力的なものだったか、佳恵は身振り手振りで子供たちの仕草を真似ながら和幸に話して聞かせた。話の端々で、子供たちが素直に心を開くのは普段からの「松本先生」の指導のおかげなんだと、何度も強調していた。和幸は心の底がじりじりと焦げ付くような気分を味わっていた。教師にでもなろうかな、漠然とそう言っていた佳恵がそれからは人が変わったように教員採用試験に向けての勉強を始めた。
 和幸は同じ県の公務員試験を受けることにした。そうすれば自分も地元で就職することができる。お互いの就職が決まって新しい生活に慣れたら結婚を切り出そう、和幸はそう思っていた。ところが試験が一段落した矢先、和幸は交通事故に遭い、秋から春にかけての半年近くも入院生活を送らなければならなくなってしまった。一足先に教員採用試験の合格を決めた佳恵は、毎日のように和幸を見舞ってくれた。病室のベッドの傍で、あれこれと将来の夢に思いを巡らせる彼女のおしゃべりだけが和幸の退屈な入院生活を紛らわせてくれた。
 そして4月。佳恵は松本とは別の小学校に赴任した。けれど、仕事で悩み事があるといつも松本に相談していたようだ。和幸も県職員に採用されることになったが、勤務地が佳恵の小学校と離れてしまったこともあって、卒業後の二人は電話でのデートが中心になっていった。もちろん、そうなってもやはり佳恵がしゃべることの方が多かったが。
 和幸は電話ではなおさら口数が少なくなる。うまく自分の気持ちを言葉にできない。でも、仕事の様子を一言二言佳恵に尋ねると、和幸が時折相づちを打つだけで、いろんな話を佳恵は返してくれた。子供たちの反応や学校行事のこと、教材研究が大変だということ、同僚の先生たちのこと……。受話器の向こうには和幸の知らない佳恵がいた。
 けれど次第に佳恵からかかってくる電話の回数や、佳恵が電話で話す時間が少しずつ減っていく。佳恵が喋らない電話は無言ばかりが続いてしまう。何か伝えなければと焦れば焦るほど、和幸は何を話せばいいのか思いつかなくなる。ひょっとして佳恵の心が少しずつ自分から遠ざかっているんじゃないか。そう思うこともあった。けれど、その原因が仕事が忙しいせいなのか、自分に対する気持ちが冷めたせいなのか、それとも他に好きな男性ができたからなのか、和幸は確かめられずにいた。
 ある日、和幸は街で佳恵が男性と歩いているところを偶然見かけた。その相手の男が松本だった。学期末に行われる親子面談の準備で大変なんだ、夏休みに入るまで会うのはしばらく控えましょう、和幸の誘いをそう言って断った日曜日のことだった。和幸は自分が感じていた違和感の正体がやっと分かった。佳恵がどこかへ行ってしまおうとしている。自分と一緒に乗るはずだった幸せ行きのバスに佳恵は他の男と一緒に乗り込もうとしている。佳恵の隣に座るのは、この僕だったんじゃなかったのか? 和幸の心の中でそんな暗然とした思いがみるみる大きくなっていく。
 でもまだ望みがないわけではなかった。佳恵からは決定的なことは何も聞かされていない。きっと佳恵も迷っているんじゃないか。そんな思いだけが和幸を支えていた。
 ところがそれからしばらくして、その松本が死んでしまう。半年前の秋のことだ。佳恵は幾晩も眠れない夜を過ごしたに違いない。和幸は仕事もそこそこに、車を走らせて毎晩のように佳恵のマンションを訪ねた。佳恵を慰めることができるのは自分しかいない。和幸は必死の思いだった。
 初めのうち佳恵は、心配かけてごめん、もう大丈夫だよ。と他人行儀にそう言うだけで、そのくせ和幸とは目をあわそうとはしなかった。今さら和幸の元には戻れない、そんなことが許されるはずがない、佳恵はそう思い込んでいたのかも知れない。もしそうなら、僕はそんなこと少しも気にしてない。ドア越しに、インターフォンで、電話口で、手紙を届けて、佳恵の部屋の窓の外で大声で、僕には佳恵が必要なんだ、と普段の無口な和幸から想像できないほどの言葉を尽くして佳恵に語りかけた。

 そして少しずつ佳恵の心が開いていった。

 

f:id:keystoneforest:20201122232820j:plain

 

    

***+5***

 

 ――あの時も本当に必死だった。
 いじめから逃れようともがいていた小学六年生の和幸が今の自分とダブって見えた。担任の先生は頼りにならなかったし、腹を立てたり、泣いたりしてみたところで、誰も和幸の苦しみを理解してくれるはずはなかった。和幸は誰にも助けを求めず、自分の殻に閉じこもっていった。堅い殻を身にまとって、耳をふさぎ、目を覆った。すべてを無視することで、何も感じないと思い込むことで苦しさを忘れようとした。それでもいじめは止みはしなかったが、周りの奴らの相手になるよりはよほどましだった。和幸は教室では一言もしゃべらない子供になった。この世界から逃れるためにはどうすればいいのか、何が自分を救ってくれるのか、和幸は考え続けた。いじめに怯え、逃げ回るっていうことは奴らと同じ次元に立ってしまうことになる。奴らよりももっと高い次元に立つことができれば、いじめなんかちっともつらくないはずだ。ずっとずっと上方から、弱い者いじめしかできない奴らの間抜け面を見下ろしてやればいいんだ。
 そして和幸はがむしゃらに勉強を始めた。奴らと同じ中学校にあがるなんて馬鹿げている。奴らが絶対に進学できない難関の私立中学校に合格する。そして胸を張ってM小学校を卒業してやるんだ。和幸の導き出した結論はこうだった。
 幸司は和幸の勉強ぶりを見て、環境が変わったおかげでようやくやる気になったのだと納得して満足していたし、新しい母親の真砂美は未だに彼を「和幸さん」とよそよそしく呼ぶだけで、それ以上彼の心に近づこうとはしなかった。
 学校にいる時と家に帰ってからとでは、まるで時間の進む速さが違った。学校ではまったく勉強にならない。奴らと一緒に教室で過ごす時間は途方もなく長く感じられた。けれど、家で机に向かっている時間は一瞬のうちに過ぎてしまう。毎日深夜まで勉強し、休みの日も問題集を買う時くらいしか外出しなかった。両親はペンションの仕事に精一杯で、和幸にかまう時間などとてもつくれない。和幸は家の中でも一言も口をきかずに過ごしていた。
 そして二月、某難関私立中学校合格発表の日、和幸は速達で届けられた通知を自分自身の手で郵便配達員から受け取った。しばらく目を閉じたまま何度か深呼吸を繰り返し、ゆっくりとそれを開いた。
 そこには「補欠合格」とあった。
 呻き声が無意識に和幸の口から発せられた。それは合格でもないし、不合格でもない。なんて中途半端なんだ。最後の最後まで痛めつけられるのが自分の運命なのかも知れない。そう思った。けれど、とりあえずはまだ可能性は残されている。
「和幸、まだ入学できないって決まったわけじゃないぞ。誰かが入学するのを辞めればお前に順番が回ってくるんだから。補欠っていうのはそういうことだ。父さんだって高校の野球部で補欠だったけど、代打でホームラン打ったこともあるしさ。……きっと他の私学とかけ持ちで受けた子もいるだろうし。知り合いに聞いたら、繰上げ合格が認められた例が何度かあったって話だ。ま、駄目だったらその時はその時、それで世の中が終わりになるわけじゃないしな」
 駄目だったらそれこそ終わりなんだ……
 安請け合いをする幸司の言葉に和幸はそう言い返したい気持ちをじっと我慢した。学校でのいじめを和幸は誰にも一切話さずにきた。いじめに耐え切ることができれば自分の合格が認められる、こんなに努力している人間が報われないはずはない、そう思っていた。自分はもっともっと高いところに上っていける人間だ。そう信じていた。
 でも、、、 まだ辛抱が足りないのだろうか、努力が充分じゃないのだろうか、自分には幸せ行きのバスに乗る資格がないのだろうか……
 誰か一人でも途中下車してくれれば、代わりに自分が幸せ行きのバスに乗れるはずなのに。
 和幸はじりじりした思いで「繰り上げ合格」の連絡を待った。必ずバスに間に合う。和幸は信じていた。もし駄目だったら、こんな世の中、こっちから縁を切ってやる。和幸はそう覚悟を決めていた。
 そして、三月の末、もう数日で月が改まるという日に、ようやく待望の知らせが届いた。

  

 四月、晴れて和幸は念願の制服を着て、某私立中学校の校門をくぐる。六年生の秋から次の春にかけて和幸の身体はずいぶんと成長した。少年っぽい面影はすっかり薄らいでしまっている。和幸は入学式に臨んでいる新入生たちの顔を一人一人ゆっくりと見渡しながら満ち足りた思いに浸っている。これでようやく間に合った。幸せ行きのバスにやっと乗れた。

 

 入学が決まっていた少年の一人が春休みの間に事故死したらしい──

 こんな話題が新学期が始まったばかりの新入生たちの間でもちきりになった。釣りをしている最中に海に落ちて死んだという。それは死んだ少年と同じ小学校から入学してきた生徒が伝えた情報だった。和幸の繰り上げ合格はその欠員を埋めたものだったのかも知れない。滑り込みでギリギリ間に合ったビリの合格者が誰なのかを詮索していろんな噂が飛び交ったが、それはただ、しばらくの間だけだった。日が経つうちに、誰もそのことを口にしなくなった。生徒たちにはそれを知る術はなかったし、学校関係者以外は、繰り上げられたその当人が言い出さない限り誰にも分からない。もちろん和幸は、それが自分のことだなんて絶対に誰にも話さなかった。海に落ちた少年は、幸せ行きのバスにたまたま乗り合わせたけれど、それは何かの間違いだったようだ。だから、その少年はバスから弾き落されるしかなかったのだ。

 

 和幸の中学校生活は穏やかな時間とともに過ぎていった。


f:id:keystoneforest:20201122232904j:plain

 

    

***+6***

 
「キャンプは来週だけど、その間くらい自分で食事作れるよね、和くん?」
 話題が変わった。佳恵は心に溜まっていたものをすべて和幸に吐き出して、すっきりしたようだ。
「食事作るなんて全然大丈夫。心配しないでいいよ。僕の方こそ、その間キャンプ生活をエンジョイするんだ
から。今まで秘密にしてたけど、僕が作る直火焼きのキャンプ飯、最高に美味いんだよ」
「そうよね。レトルトのカレーでも外で食べると途端に美味しくなっちゃうものね」
「馬鹿にしたなーー。直火焼きの薪は斧で薪を割るところからちゃんと準備するんだから」
「帰ってきたらお家が丸焦げだった、なんていうことだけはないようにしてね」
 言いながら、ころころと笑い声をあげている。佳恵の機嫌はすっかり直ってしまったようだ。佳恵の笑顔はいつだって和幸の心をじんわりと温めてくれた。
 佳恵は鼻歌を歌いながら食事の後片付けにとりかかる。粗く束ねた髪が背中の上で元気よく跳ねている。和幸は煙草に火を点けようとして手を止めた。煙草はベランダで。佳恵からきつく言われていることだった。
「できれば止めて欲しいけど……。お互い健康で長生きしたいからね」
 佳恵の言葉を思い出した。
 ──いつまでも二人で一緒に時間を過ごして、たくさんのことを体験して、いろんな思い出を作ろうね。
 洗い物を終えた佳恵が両手を左右一杯に広げて欠伸をしている。とっても、無防備に。
 この際禁煙でもしてみようか、和幸はまだ数本残っている煙草を箱ごとぐしゃりと握りつぶし、ゴミ箱に放り込んだ。

  

「補欠合格」の通知を和幸は大学四回生の時にもう一度受け取った。県職員の採用試験の結果がそうだった。もう一方の希望だった出版関係の企業の入社試験はどこにも引っ掛からなかった。ついでに受けた流通関係の会社からは一つ二つ内定をもらってはいたが、あまり気乗りしないところばかりだった。おまけに、どの会社も就職することになれば、東京に引っ越す必要がある。そうすれば佳恵と離れなければならなかった。その頃の和幸には遠く離れて住んでも、佳恵の心を繋ぎとめておける自信はなかった。佳恵は本気で教師になるつもりでいる。地元を離れる気持ちはまったくないようだった。
 和幸と同期の法学部生でゼミも一緒だった佐々木裕輔という学生がいた。二人は話がよくあい、下宿先も近所だったから、試験前にはよく一緒に勉強をした。二人のノートを合せれば試験に必要なほとんどの内容を漏れなく拾うことができた。出版社に勤めたいという将来の希望も共通していたし、母親を早くに亡くしたという境遇も似ていた。
 和幸は母親、有美子の顔を写真でしか知らない。和幸が産まれた日が有美子の命日だった。和幸に命を与える代わりに、有美子は息を引き取ったのだ。だから写真と言っても、親子二人が一緒に写ったものはない。大きなお腹を両手で優しく包み込むんでいる臨月近い有美子を撮った写真だけが残っていた。
「このお腹の中に和幸がいたんだ。君がここから生まれてくる時は本当にすごい難産だった。お前の命は……、お母さんがくれたものなんだよ」
 その写真を幼い和幸に見せながら、父親の幸司がしみじみとそう語ったことがあった。
 幸司が脱サラして始めたペンションは、変な噂が囁かれるようになり、客足が遠のいていった。そして、和幸が大学一回生の時に、幸司は妻の真砂美と和幸とを残して突然いなくなってしまった。理由は全く分からない。真砂美もその後間もなく姿を消した。それからの和幸は一人っきりで生きてきた。他に係累はなかった。
 佐々木裕輔の母親は彼が小学校の頃に亡くなったそうだ。父親の方は健在だったが、彼らが大学三回生の年に病気で倒れたと聞いていた。息子の裕輔は地元で就職することを望んでいる父親を安心させようと、公務員試験も受けることにしていた。佳恵の傍を離れたくない和幸もまた公務員試験を受けることにした。二人はそろって願書を出し、同じ会場で試験を受けたが、合格通知をもらったのは裕輔の方だけだった。佐々木は出版社にも採用の内定を決めていた。
 和幸が受け取った公務員試験の通知には「補欠」と書いてあった。その文字を食い入るように見つめながら、和幸の心には中学受験の時の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
 今度もまた、自分はバスに乗り遅れようとしている。バスは自分が停留所に着くまで発車を待ってくれるだろうか、どこかに空席は残っているだろうか。鬱々と過ごす日が続いた。裕輔が出版社を選べば自分にもまだ可能性が残っている。そうなれば、今回もまた「繰り上げ合格」の可能性がある。けれど裕輔には出版社を選ぶつもりはまったくないようだった。なんだか佐々木が自分の人生を邪魔しているような思いに和幸はとらわれていく。
 夏休みの終わりが近づいていた。卒業後の進路をそろそろ具体的に考えなければならない。和幸はカメラ好きの佐々木をドライヴに誘った。ゼミの学生たちと遊びに行ったことは何度かあったが、二人で出かけたのはそれが初めてだった。
 山間のドライヴウェイを二人の乗った車がかなりのスピードを出して走って行く。急カーブでハンドルを切り損ねた車は切り通しの崖に激突し、大破した。運転していた裕輔はハンドルで胸を強打し出血多量で死亡した。和幸は潰れた車体に腰から下を挟まれた。なんとか一命は取り留めたものの長期の入院を余儀なくされてしまう。原因は裕輔のハンドル操作ミスということに落ち着いたが、それを証明するのは和幸の言葉だけでしかなかった。
 裕輔の死によって生じた県職員の採用枠の欠員には、瀬山和幸の名前が書き込まれた。採用の通知を和幸は病院のベッドで受け取る。和幸の怪我は特に右足がひどく、後遺症が残ってしまった。が、その時もバスは和幸を待ってくれた。

  

 そして今、和幸の隣の座席には佳恵がいる。柔らかな日差しが車窓から差し込んでくる。和幸はゆったりとした気分で座席に身体を沈め、佳恵の横顔を見つめている。

 

f:id:keystoneforest:20201122232944j:plain   

 

      ***+7***


 佳恵がキャンプに出かけた日の夕刻、帰宅する和幸をマンション横の路地に潜むように立っていた二人の男が出迎えた。男のうちの一人が和幸に気づいて吸いかけの煙草を携帯灰皿で消すと、ゆっくりと
和幸に近づいてきた。夕日が逆光で、和幸からは男の表情がよく見えない。
「瀬山和幸さんですね」
 男は上着の内ポケットから手帳を取り出しながら、和幸に話しかけた。穏やかな物腰で、四角い顔の上に七三に整えた薄い髪をのせている。五十がらみの男だ。
「東署の者ですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして、ご面倒ですが署までご同行願えませんか」
 丁寧すぎる物言いだが、有無を言わせぬ響きがある。部下らしきもう一人の若い男がいつの間にか和幸の後ろに立っていた。

 

  年嵩の方の男が、刑事部の藤村です、と名乗った。若い方は無言のままだ。視線は和幸から瞬時も離れない。
 東署の取調室に和幸は連れてこられている。机を挟んで和幸と藤村が向かい合って座り、若い方は藤村の斜め後ろに控えている。
「わざわざご足労いただきまして、ありがとうございます。お伺いしたいことと申しますのは、松本孝雄さんのことなのですが……。ご存じでしょうか」
 藤村の問いかけに、和幸は、ええ、と小さく返しながら頷いた。その表情には少しの変化も見られない。
「どういうご関係だったのか、よろしければお話し願えませんか」
 過去形を強調して言った後、藤村は手元にあった灰皿を和幸の前に移す。そして和幸から目をそらし、内ポケットから煙草を取り出して口にくわえた。
「松本さんは私の家内が仕事でお世話になっていた先輩の方と言えばいいのでしょうか。残念な事故で亡くなられて、もう半年ほども前になるかと思いますが……」
 「残念な事故」のところで、うんうんと軽くうなずきながら、淡々と和幸は答えた。藤村は煙草に火を点け、ポケットから取り出した手帳に目を落とした。
「松本孝雄さんは昨年十月五日夜、勤務先の小学校の同僚数名と食事をして、帰宅する途中、地下鉄山手南口駅のホームから転落し、その直後に駅に入ってきた電車に轢かれて亡くなられました。午後十一時二十三分、即死でした」
 抑揚のない声で藤村がそれを読み上げる。
「松本孝雄さんの遺体からはかなりの量のアルコールが検出され、また直前までご一緒されていた同僚の方のお話でも、その夜の松本さんはかなり酔っておられたとの証言がありますので、おそらく酔ったせいで足元がふらつき、ホームから転落したものとみられる、と報告されています。終電までにはまだ余裕のある時間帯でしたから、あいにくその時ホームにはほんの数人しか乗車待ちの客はいなかったようです。そのせいもあり、転落した時の松本さんを目撃したという証言は得られていません。電車は通過車両でしたのでかなりの速度が出ていました。運転士は、松本さんの転落した場所がホームの一番手前だったこともあり、地下鉄線路のトンネルの向こうに駅の明かりが見えた直後、目の前に男の身体が飛び込んできた、と証言しています。急ブレーキはもちろん間に合いませんでした」
 藤村は手帳をしまうと、まだ半分ほど残っている煙草を灰皿につっこんだ。和幸は藤村が吐き出す煙の行方をぼんやりと眺めている。
「以上が、松本孝雄さんの亡くなった時の状況です。自殺の線も薄く、当時、松本さんの死は事故として処理されました」
「そのことに私が何か関係しているんでしょうか。それとも、家内が何か? あの頃の家内は松本さんの存在をかなり強く意識していたようです。松本さんのことなら、私より家内に聞いてもらった方がよく分かるとは思いますが……。ただ、ようやくあの事故のことを忘れかけてきたところなので、できればそっとしておいて欲しいんですが」
 和幸は言葉を選ぶように慎重な物言いをする。
「奥さんが松本さんの存在をかなり強く意識されていた……とすれば、瀬山さん、あなたのお気持ちはあまり穏やかなものじゃなかったでしょうね」
 藤村は軽く笑みを浮かべながら、けれどそこだけは笑っていない目で和幸をじっと見つめた。和幸は藤村の視線を避けるように左右を見回す。
「さあ……、私の気持ちが穏やかじゃないって、どういう意味でしょうか……。刑事さん、煙草を一本いただけませんか。ちょうど切らしてしまっていて」
 藤村は四、五本煙草を抜き取ると、残りを箱ごと和幸の前に置いた。
「それで松本さんのことなんですが、実はちょっと捨て置けない話を耳にしましてね」
 藤村は若い方の刑事を振り返ると、お前の番だというように目配せした。若い刑事は椅子を机に近づけて切り出した。厳しい目付きで和幸を睨んでいる。
「山手南口駅構内で先日起こった乱闘事件の聞き込み捜査中に入手した情報なんだが……。駅で寝ていたホームレス風の男に話を聞くと、乱闘事件のことなんかよく知らないが、前に面白いものを見たことがあるって言うんだ。なんだいそれって訊いたら、ニヤニヤするだけでなかなか口を開こうとしないんで、仕方がないから煙草を箱ごと渡してやったら、ようやく喋り始めたわけだ」
「おい、そんなことどうでもいいからその先を説明しろ」
 藤村が口をはさむ。若い刑事は少し喋りすぎるのが欠点のようだ。
「酔っぱらいがホームから落ちて電車に轢かれて死んだあの事故の夜、同じプラット
ホームに居合わせたって言うんだな、そのホームレスのおっさんが……」
 藤村は和幸の目の動きをじっと追っている。和幸は煙草に火を点け、視線を宙に泳がせている。表情の変化は少しもない。

 

   

(続く)
 

f:id:keystoneforest:20201123174317j:plain

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よければtwitterものぞいてみてくださいね。山猫 (@keystoneforest) | Twitter
 

f:id:keystoneforest:20180211232422j:plain

山猫🐾@森の奥へ

似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。