幸せの定員(創作小説)
警察の懸命の捜査にも関わらず、犯人の手がかりが一つも得られないまま、一カ月が過ぎていた。
そして、事故の日以来、鬱々と沈み込んでいたそのクラスに転校してきたのが和幸だった。六年生は二クラスしかなく、一組に比べて人数が少なかったという理由だけで和幸は二組に自動的に割り振られたのだ。そのことは沙耶香が事故に遭う前からすでに決められていたことだったから、それは当然、沙耶香の空席を埋めることを意識したものではなかった。
先のタカッチャンの不用意な一言は、ひょっとすれば、沙耶香さえいてくれれば元の平和なクラスに戻れるのに、という思いが無意識に現れただけだといえるかも知れない。ただ、その言葉はあまりにも考えがなさすぎた。
お気に入りのクマのぬいぐるみをなくしてしょげている幼児に別の新しいウサギのぬいぐるみを与えて慰めようとしているようなものだった。タカッチャンの発言は結局、和幸についての妙な先入観をクラスの子供たちに与えてしまうことになった。それが和幸に対するいじめの最初のきっかけである。
高橋沙耶香を失った子供たちの動揺はあまりにも大きかった。和幸が沙耶香の代わりだと言われると、かえってその存在は疎ましく目障りなものにしか映らなかった。沙耶香を亡くしてもやもやしていた子供たちの思いをぶちまける対象として、ひ弱そうな和幸は絶好の的だったといえるかも知れない。
「和幸、お前みたいなチビが沙耶香の代わりだって? お前なんかと比べられたら沙耶香が可哀想だ。お前が何千人いたって沙耶香にはかないっこなよ。いらないよ。お前なんかいらない、前の学校へ帰っちまえ」
登下校の途中で和幸は何人もの子供たちに雑言を浴びせられた。最後はみんなで手を叩きながら「帰れ、帰れ」の大合唱になっていった。まだ同級生の顔と名前が一致していない和幸にとってはM小学校の子供たち全員が自分の敵になってしまったように感じられた。誰もが悪意をべっとりと塗りたくったお面をかぶって和幸をとり囲んでいる。幾重にも輪を作って一斉に彼を指差している。
お前は何をしにこの学校に来た。ここはお前の来るところなんかじゃない。元の学校へ帰ってしまえ。お前なんかいらない。
和幸は耳をふさいでその場に座り込む。その背中に誰かが石ころを投げつける……。
高橋沙耶香をはねた車の助手席に和幸が乗っていたという噂がM小学校中に広まったのは、彼の転校から十日ほどたってからだった。轢き逃げ犯の行方は依然不明のままだ。子供たちの悪意が次第にはっきりとした形になって現れてくる。
六年二組は高橋沙耶香の存在によってようやく一つにまとまっていた。その二組の結束は彼女が欠けたことで日ごとに脆くなり、子供たちの心は荒んでいった。初恋の対象を突然奪われた少年たちのぶつけようのない苛立ちは、当初は手当たり次第に周囲に投げつけられているだけだったが、やがてそれらは一点に集中していった。その的にされたのが和幸だった。鬱々とした思いを抱えた六年二組の子供たちにとって和幸の転校はあまりにもタイミングが良すぎたし、和幸にとっては自分の転校はあまりにタイミングが悪かった。
和幸が自己紹介をした日から一カ月ほど経った。彼の教室の机はゴミ箱代わりに使われていた。和幸が登校して机の中を見ると、汚れた雑巾や鼻をかんだ後のティッシュ、その他教室中のあらゆるゴミが突っ込まれている。クシャクシャに丸められた紙を開いてみると、「死ね、死ね、死ね」と真っ赤なマジックで書きなぐってあった。休み時間、席を外すたびに、椅子は黒板消しで汚されていた。チョークの白い粉が積もっている。筆箱のシャープペンシルの芯は使い物にならないほど短く折られ、消しゴムにも無数の芯が突き刺さっていた。和幸の背中に落書きをした紙が貼りつけられるのはしょっちゅうだったし、給食はたいてい彼の分は当たらなかった。たとえあったとしても変な味がした。和幸の机の周囲にはいつもゴミがちらばり、誰もその机に触れようとはしない。和幸はばい菌扱いされ、徹底的に嫌われていた。組織的ないじめは暴力を必要としない。けれど暴力以上の効果を発揮する。
母親であるということをほとんど意識していない真砂美と、新しい仕事を始めたばかりの幸司に和幸は何も相談できないでいた。担任のタカッチャンは和幸に対するいじめに少しも気づいていないようだった。それとも薄々気づきながら、知らないふりを決め込んでいたのかも知れない。タカッチャンにとっても、子供たちの悪意が自分ではなく他の者に向けられている間は、心の平穏を保つことができるのだから。そしてまた、たとえいじめに気づいて指導したとしても、子供たちはタカッチャンの言うことなど少しも聞かなかっただろう。新米の教師としては他に気を配らなければならない仕事は山ほどある。何も相談に来ない和幸を気遣うほどの余裕はなかった。
和幸はただじっと我慢するばかりだった。いじめはおとなしい者には容赦ない。さらにそれはエスカレートしていった。
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