幸せの定員(創作小説)
――あの時も本当に必死だった。
いじめから逃れようともがいていた小学六年生の和幸が今の自分とダブって見えた。担任の先生は頼りにならなかったし、腹を立てたり、泣いたりしてみたところで、誰も和幸の苦しみを理解してくれるはずはなかった。和幸は誰にも助けを求めず、自分の殻に閉じこもっていった。堅い殻を身にまとって、耳をふさぎ、目を覆った。すべてを無視することで、何も感じないと思い込むことで苦しさを忘れようとした。それでもいじめは止みはしなかったが、周りの奴らの相手になるよりはよほどましだった。和幸は教室では一言もしゃべらない子供になった。この世界から逃れるためにはどうすればいいのか、何が自分を救ってくれるのか、和幸は考え続けた。いじめに怯え、逃げ回るっていうことは奴らと同じ次元に立ってしまうことになる。奴らよりももっと高い次元に立つことができれば、いじめなんかちっともつらくないはずだ。ずっとずっと上方から、弱い者いじめしかできない奴らの間抜け面を見下ろしてやればいいんだ。
そして和幸はがむしゃらに勉強を始めた。奴らと同じ中学校にあがるなんて馬鹿げている。奴らが絶対に進学できない難関の私立中学校に合格する。そして胸を張ってM小学校を卒業してやるんだ。和幸の導き出した結論はこうだった。
幸司は和幸の勉強ぶりを見て、環境が変わったおかげでようやくやる気になったのだと納得して満足していたし、新しい母親の真砂美は未だに彼を「和幸さん」とよそよそしく呼ぶだけで、それ以上彼の心に近づこうとはしなかった。
学校にいる時と家に帰ってからとでは、まるで時間の進む速さが違った。学校ではまったく勉強にならない。奴らと一緒に教室で過ごす時間は途方もなく長く感じられた。けれど、家で机に向かっている時間は一瞬のうちに過ぎてしまう。毎日深夜まで勉強し、休みの日も問題集を買う時くらいしか外出しなかった。両親はペンションの仕事に精一杯で、和幸にかまう時間などとてもつくれない。和幸は家の中でも一言も口をきかずに過ごしていた。
そして二月、某難関私立中学校合格発表の日、和幸は速達で届けられた通知を自分自身の手で郵便配達員から受け取った。しばらく目を閉じたまま何度か深呼吸を繰り返し、ゆっくりとそれを開いた。
そこには「補欠合格」とあった。
呻き声が無意識に和幸の口から発せられた。それは合格でもないし、不合格でもない。なんて中途半端なんだ。最後の最後まで痛めつけられるのが自分の運命なのかも知れない。そう思った。けれど、とりあえずはまだ可能性は残されている。
「和幸、まだ入学できないって決まったわけじゃないぞ。誰かが入学するのを辞めればお前に順番が回ってくるんだから。補欠っていうのはそういうことだ。父さんだって高校の野球部で補欠だったけど、代打でホームラン打ったこともあるしさ。……きっと他の私学とかけ持ちで受けた子もいるだろうし。知り合いに聞いたら、繰上げ合格が認められた例が何度かあったって話だ。ま、駄目だったらその時はその時、それで世の中が終わりになるわけじゃないしな」
駄目だったらそれこそ終わりなんだ……
安請け合いをする幸司の言葉に和幸はそう言い返したい気持ちをじっと我慢した。学校でのいじめを和幸は誰にも一切話さずにきた。いじめに耐え切ることができれば自分の合格が認められる、こんなに努力している人間が報われないはずはない、そう思っていた。自分はもっともっと高いところに上っていける人間だ。そう信じていた。
でも、、、 まだ辛抱が足りないのだろうか、努力が充分じゃないのだろうか、自分には幸せ行きのバスに乗る資格がないのだろうか……
誰か一人でも途中下車してくれれば、代わりに自分が幸せ行きのバスに乗れるはずなのに。
和幸はじりじりした思いで「繰り上げ合格」の連絡を待った。必ずバスに間に合う。和幸は信じていた。もし駄目だったら、こんな世の中、こっちから縁を切ってやる。和幸はそう覚悟を決めていた。
そして、三月の末、もう数日で月が改まるという日に、ようやく待望の知らせが届いた。
四月、晴れて和幸は念願の制服を着て、某私立中学校の校門をくぐる。六年生の秋から次の春にかけて和幸の身体はずいぶんと成長した。少年っぽい面影はすっかり薄らいでしまっている。和幸は入学式に臨んでいる新入生たちの顔を一人一人ゆっくりと見渡しながら満ち足りた思いに浸っている。これでようやく間に合った。幸せ行きのバスにやっと乗れた。
入学が決まっていた少年の一人が春休みの間に事故死したらしい──
こんな話題が新学期が始まったばかりの新入生たちの間でもちきりになった。釣りをしている最中に海に落ちて死んだという。それは死んだ少年と同じ小学校から入学してきた生徒が伝えた情報だった。和幸の繰り上げ合格はその欠員を埋めたものだったのかも知れない。滑り込みでギリギリ間に合ったビリの合格者が誰なのかを詮索していろんな噂が飛び交ったが、それはただ、しばらくの間だけだった。日が経つうちに、誰もそのことを口にしなくなった。生徒たちにはそれを知る術はなかったし、学校関係者以外は、繰り上げられたその当人が言い出さない限り誰にも分からない。もちろん和幸は、それが自分のことだなんて絶対に誰にも話さなかった。海に落ちた少年は、幸せ行きのバスにたまたま乗り合わせたけれど、それは何かの間違いだったようだ。だから、その少年はバスから弾き落されるしかなかったのだ。
和幸の中学校生活は穏やかな時間とともに過ぎていった。