森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

幸せの定員 (創作小説)  ***+3***

 
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幸せの定員(創作小説)

 

    

***+3***

 

 「ついこの前、新しいクラスがスタートしたばかりだっていうのに、緊張感はもう全然感じられないの。これは決してみんなが打ち解けてきたっていう意味じゃないのよ。わたしが何を言っても、あの子たちはみんな目を伏せてしまうっていう雰囲気で。そのくせ勝手なおしゃべりだけは一人前。ちょっとみんな、先生の言うこと聞いてくれてる? って大声出してしまいそうになるわ」
 夕食の間中、佳恵は普段より口数が少なく、和幸の話にも生返事を返すだけだったが、食後のコーヒータイムに和幸が誘うと、ようやく重い口を開いた。
「ほんと白けてる。女子の一番のリーダー格の生徒がちょっと陰険な子でね、たぶんその子の顔色をみんなうかがってるんだと思うの。それに、どうやらいじめも始まったみたいなんだよね……」
 コーヒーに落としたミルクをかき混ぜながら佳恵は続ける。要領よく新しいグループになじめない子供がいじめの標的にされてしまう。こうなるとクラスを一つにまとめるのはなかなか容易なことではない。
 そんな話を佳恵と交わしながら、和幸は小学生の頃の自分を思い出していた。二人が暮らすマンションの十畳ほどのダイニングに調えられた家具はどれも真新しいものばかりである。まだ一つも染みのついてない天井に向かってカップからの湯気がゆらゆらとたち昇っていく。和幸と佳恵はこの春に結婚したばかりだった。
 佳恵は小学校に勤めている。四月から受け持った五年生のクラスに、とても口数の少ない女子がいて、その子がいじめられているらしいということだった。話し掛けられても俯いているだけでほとんど反応を示さず、いつも教室の自分の席に座ったまま一人で昼休みを過ごしている少女だそうだ。佳恵が今一番頭を悩ませていることは、来月に迫った二泊三日の自然教室の班編成がそのことで全然決まらないということだった。もちろん、その少女と同じ班に誰もなろうとしないからだ。
 きっとその少女はガリガリに痩せているか、それとも太りすぎているか、極端に背が低いんじゃないか……、そんな推測を和幸はもう少しで言葉にしてしまいそうになった。人を外見で判断するような考えはきっと佳恵の機嫌を損ねるだけだろう。でも、自分がいじめられたのはそのことも一つのきっかけだった、と和幸は思う。
「チビ」
 この言葉のせいでどれだけ深く傷つけられたことだろう。
「班が決まらなくちゃ、バスの座席も決まらないし、キャンプファイアーのスタンツも決められない……。真理子先生のクラスはもう全部決まっちゃったって、放課後になれば真っ先に帰っちゃうのよ」
「班なんて先生が勝手に決めてしまえばいいんじゃないの?」
 和幸は意外そうに言った。
「そんなことしてみなさいよ、去年は自由に決めさせてくれたとか、誰々と一緒じゃなきゃ嫌だとか、あいつとは一緒になりたくないとか、教室中大騒ぎになっちゃうんだから。挙句の果てに、前のクラスに戻りたいって言い出すのに決まってるわ」
「そんなものかな……。でもさ、僕もサークルの夏季合宿で偶然、佳恵と同じグループになってなかったら人生変わってただろうって思うな」
「あら、あれって偶然だったのかしら。私と同じグループになるために、マネージャーの徳留さんにずいぶん頼みこんだって聞いたんだけどな……。和くん、もう時効だから白状しなさいよ」
 一度始まった佳恵のおしゃべりは当分止みそうにない。口をはさむタイミングを与えないほどに話し続ける。食事中に言いたかったことを我慢し過ぎたせいかも知れない。おしゃべりな性格は学生時代と少しも変わらない。だが、和幸が魅かれたのは佳恵のそういうところだった。元来無口な和幸は明るくて賑やかなタイプの女性に憧れていた。おしゃべりは佳恵の元気の証しだと思っている。
 結婚してからもうすぐ二カ月になる。最近ようやく、佳恵の表情から翳が消えた。あの男のことがふっきれてきたのだろう。忙しくして気を紛らせるのが一番だ。そうしていれば、あの男、松本孝雄のことを思い出す暇もなくなるだろう。和幸は二杯目のコーヒーを催促した。
 松本孝雄の死から半年が過ぎた。松本は酒に酔って帰宅する途中、地下鉄の駅のホームから転落して電車に轢かれたのだ。彼は佳恵が当時つきあっていた男だった。

  

  

(続く)
 

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山猫🐾@森の奥へ

似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。