幸せの定員(創作小説)
「ねえねえ和くん」
食事の手を止め、妻の佳恵が声をかけてきた。佳恵は結婚して半年が過ぎた今でも、大学で知り合った頃の言い方のままで和幸を呼ぶ。
ダイニングにはテレビを置いていない。食事しながらテレビは観ない、二人の会話を大切にしよう、そう話し合った。
佳恵のおしゃべりに勝るものはない、と和幸は思っている。いつかテレビを観ながら食事するときが来るとすれば、それは二人の関係性が変わってきたことを表しているのだろう。
「小学校の遠足の時って、バスの中で何してた?」
佳恵は続けて訊いてきた。
「何してたって、、、バスの中の過ごし方に、寝る以外の選択肢がある?」
和幸はご飯を頬張ったばかり。それを一気に飲みこんで答えた。
「まあ、、、寝てたの? ずうっと? いつもみたいに大きな口を開けて? まさか、口元に涎……。なんていうことはなかったでしょうね。よくいるよね、ぽかんとだらしなく口を開けたり、薄目が開いたままだったりして居眠りしてる人。ほんとに不気味な顔……」
佳恵はひとしきり笑い転げる。
「……で、バスの中って何が面白かった?」
「だから、ずっと寝てたから分からないって。僕の話聞いてた?」
「やっぱりカラオケだった? バスレク」
「ねえねえ聞いてる? だから寝てたって。で、ばすれくって何?」
「バスレクリエーションのこと。キャンプの行事の中で自分たちのクラスだけで盛り上がれるってバスに乗ってるときくらいしかないんだから。ここでクラスをまとめられるかどうかが決まるんじゃない。意外に簡単に盛り上がるのがイントロ当てクイズなんだけど、用意するのが面倒だし、すぐ終わっちゃうし」
「バスの中なんだからバスガイドさんに任せてゆっくりしてればいいんじゃないの? 小学校のときだって中学校のときだって、バスに乗ったあとは、生徒なんて放っておいて、先生たちずっと居眠りしてた気がするんだけど」
「先生が眠って、みんなも眠って、バスガイドさんも寝てしまいました……」
佳恵は両手の拳を目に当てて、眠い眠いという仕草をする。
「……いいなぁ、それって。私ものんびりとバスに揺られて行きたいなぁ。でも、あの子たちはダメ。絶対にダメ。そんな『のんびりバスタイム』が許されるのは美代子先生みたいな超ベテランの先生だけ。子供たちってガイドさんの話なんて全然聞かないんだから。ずっとおしゃべりばっかで。『ガイドさんの説明を聞きなさい!』っていちいち子供たちを叱ったりしてキャンプ地に着く前にトラブったら、せっかくの気分も盛り下がっちゃうし、もう台なしよ」
佳恵の口調はどんどんヒートアップしていく。
「やるね、さすが熱血佳恵先生、、、でも、大丈夫?」
和幸が真顔で訊くと、
「やだ、冗談に決まってるでしょう」
佳恵は右手の親指を立てて笑顔を返した。
「でも、バスの旅って好きだな」
和幸は話題を変えた。
「観光バスの旅? ビールとおつまみを山ほど買い込んで? 何だか、おっさん臭い。和くん似合いすぎる……」
「誰がおっさんだって? 違うったら。そんなこと言ってないから。僕が言いたいのは、町を走ってるバスのこと。旅行先で、目的地も決めずに、ごくごく普通の路線バスを乗り継いでいく。そんな旅がしたいって思うんだ」
「それって旅なの? お仕事かお買い物に行くみたいじゃない?」
「バスの車内って、小さな一つの世界だって思うんだ。そんな小さな世界に同乗しているお客さんたちと一緒に同じ景色を見て、一緒に右に左に揺られていると、みんなが運命共同体みたいに思えてくる。そんな気しない? 飛行機より新幹線、新幹線より電車、電車よりバス、断然バス、絶対バス! ゆっくりと町並みを眺めながら、揺られて気分良くなると居眠りして。時々目が覚めて、別の町並みを見る。これ以上に味のある旅ってないと思うんだけどな、、、」