幸せの定員(創作小説)
和幸と佳恵は大学の同期生だった。学部は違ったが、同じテニスのサークルに入会して知り合った。新入生歓迎コンパの席順を決めるくじ引きで二人は偶然隣り合わせになった。佳恵は要領よく鍋料理の世話をし、和幸や先輩たちにビールを注いで回った。にこにこ笑いながら先輩たちのきわどい質問をかわし、とびっきりの面白い話で場を沸かせた。まるで自分よりいくつも年上のようだと和幸は感じていた。佳恵のような明るい女性に出会ったのは初めてだった。こんな女性とずっと一緒に過ごすことができれば幸せだろうな、それが和幸の第一印象だった。ところが、一方の佳恵は和幸と初めて話した時のことをあまり覚えていない。和幸は自分から進んでみんなの会話に参加するのは苦手な方だった。おそらく名前を紹介しあうことくらいしか、二人の間で言葉は交わされなかったのではないだろうか。
一回生の夏季合宿で、運よく和幸は佳恵と同じ練習グループになることができた。佳恵が和幸の存在を意識し始めたのはその頃からだという。中学校の部活動でテニスを始めた和幸はテニスの上達とともに身長もぐんぐんと伸び続け、高校の時には県の強化選手に選ばれるほどになっていた。小学校のころ小柄でいじめられっ子だった和幸を知る者は彼の周りは一人もいなかったし、当然のことに、もはや誰も和幸をそんな目で見ることもなかった。
佳恵は大学に入るまではほとんどラケットを握ったこともなかったようだ。和幸はそんな佳恵をサークルの活動日以外にもテニスコートを借りて練習に誘った。普段は口数が少なく、存在が薄い印象がある和幸だったが、サーブトスの上げ方やリズムの取り方、ラケットを振りぬく腕の使い方などテニスの動きを佳恵に教える時はまるで別の人になったように熱意に満ち溢れていた。和幸の想いは言葉にしなくても充分に伝わったはずだ。和幸が足を怪我した今は二人でテニスをすることもなくなってしまったが、その頃の二人にはテニスコートに通うことがデートすることと同じだった。やがて三回生に上がったころには、サークル内で彼らの交際を知らない者はいなくなった。正反対の性格の者同士が魅かれ合うことがある。二人はきっとそういう関係だった。
教育学部生だった佳恵は、四回生の春、県内にある母校の小学校に教育実習にいくことになった。そこで佳恵の指導を担当したのが松本だった。彼は佳恵たち実習生に一番親身にアドバイスしてくれたり、夜遅くまで一緒に学校に残って指導案作りを手伝ってくれたりした。彼が独身だという情報を子供から聞きだしてからは、実習生の女子の中には憧れ以上の気持ちを抱く者もいたようだ。
子供たちと接する時の松本は厳しい指導の中にも必ず優しい瞳の輝きを絶やさない、実習生たちの目に彼はそう映っていた。佳恵も同じように松本の存在を頼もしく感じていた。子供たちもみんなが「松本先生」を慕っていた。あんな先生になりたい。佳恵より十歳ほど歳上だったが、そんな松本に佳恵も憧れを抱くようになったようだ。最初は教師として、そしてやがて一人の男性として。
「佳恵先生って呼んでくれるのよ、私のこと。佳恵先生、佳恵先生って子供たちがまとわりついてきて、私のジャージをつかんで離してくれないんだ。休み時間のたびにたくさんの子供に囲まれて、好きなアイドルの話とかゲームの話とかお父さんお母さんの話とか口々にしてくるの。もう誰が何を言ってるのか全然聞き取れないくらい。かと思うといきなり背中にどーんって負ぶさってきて、先生ずっとこの学校にいてねって涙目で言われちゃったりして……」
どれだけ子供たちが可愛かったか、教師という職業がどんなに魅力的なものだったか、佳恵は身振り手振りで子供たちの仕草を真似ながら和幸に話して聞かせた。話の端々で、子供たちが素直に心を開くのは普段からの「松本先生」の指導のおかげなんだと、何度も強調していた。和幸は心の底がじりじりと焦げ付くような気分を味わっていた。教師にでもなろうかな、漠然とそう言っていた佳恵がそれからは人が変わったように教員採用試験に向けての勉強を始めた。
和幸は同じ県の公務員試験を受けることにした。そうすれば自分も地元で就職することができる。お互いの就職が決まって新しい生活に慣れたら結婚を切り出そう、和幸はそう思っていた。ところが試験が一段落した矢先、和幸は交通事故に遭い、秋から春にかけての半年近くも入院生活を送らなければならなくなってしまった。一足先に教員採用試験の合格を決めた佳恵は、毎日のように和幸を見舞ってくれた。病室のベッドの傍で、あれこれと将来の夢に思いを巡らせる彼女のおしゃべりだけが和幸の退屈な入院生活を紛らわせてくれた。
そして4月。佳恵は松本とは別の小学校に赴任した。けれど、仕事で悩み事があるといつも松本に相談していたようだ。和幸も県職員に採用されることになったが、勤務地が佳恵の小学校と離れてしまったこともあって、卒業後の二人は電話でのデートが中心になっていった。もちろん、そうなってもやはり佳恵がしゃべることの方が多かったが。
和幸は電話ではなおさら口数が少なくなる。うまく自分の気持ちを言葉にできない。でも、仕事の様子を一言二言佳恵に尋ねると、和幸が時折相づちを打つだけで、いろんな話を佳恵は返してくれた。子供たちの反応や学校行事のこと、教材研究が大変だということ、同僚の先生たちのこと……。受話器の向こうには和幸の知らない佳恵がいた。
けれど次第に佳恵からかかってくる電話の回数や、佳恵が電話で話す時間が少しずつ減っていく。佳恵が喋らない電話は無言ばかりが続いてしまう。何か伝えなければと焦れば焦るほど、和幸は何を話せばいいのか思いつかなくなる。ひょっとして佳恵の心が少しずつ自分から遠ざかっているんじゃないか。そう思うこともあった。けれど、その原因が仕事が忙しいせいなのか、自分に対する気持ちが冷めたせいなのか、それとも他に好きな男性ができたからなのか、和幸は確かめられずにいた。
ある日、和幸は街で佳恵が男性と歩いているところを偶然見かけた。その相手の男が松本だった。学期末に行われる親子面談の準備で大変なんだ、夏休みに入るまで会うのはしばらく控えましょう、和幸の誘いをそう言って断った日曜日のことだった。和幸は自分が感じていた違和感の正体がやっと分かった。佳恵がどこかへ行ってしまおうとしている。自分と一緒に乗るはずだった幸せ行きのバスに佳恵は他の男と一緒に乗り込もうとしている。佳恵の隣に座るのは、この僕だったんじゃなかったのか? 和幸の心の中でそんな暗然とした思いがみるみる大きくなっていく。
でもまだ望みがないわけではなかった。佳恵からは決定的なことは何も聞かされていない。きっと佳恵も迷っているんじゃないか。そんな思いだけが和幸を支えていた。
ところがそれからしばらくして、その松本が死んでしまう。半年前の秋のことだ。佳恵は幾晩も眠れない夜を過ごしたに違いない。和幸は仕事もそこそこに、車を走らせて毎晩のように佳恵のマンションを訪ねた。佳恵を慰めることができるのは自分しかいない。和幸は必死の思いだった。
初めのうち佳恵は、心配かけてごめん、もう大丈夫だよ。と他人行儀にそう言うだけで、そのくせ和幸とは目をあわそうとはしなかった。今さら和幸の元には戻れない、そんなことが許されるはずがない、佳恵はそう思い込んでいたのかも知れない。もしそうなら、僕はそんなこと少しも気にしてない。ドア越しに、インターフォンで、電話口で、手紙を届けて、佳恵の部屋の窓の外で大声で、僕には佳恵が必要なんだ、と普段の無口な和幸から想像できないほどの言葉を尽くして佳恵に語りかけた。
そして少しずつ佳恵の心が開いていった。
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