森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

100万回生きたねこと、愛するということ。

 
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死はいつも悲しいものです。

とりわけ幼い子の死となると、自分と直接の繋がりがなくても胸が痛みます。

このところ、親から酷いやり方で虐待される子供、あげくに命まで奪われた子供の報道にたびたび接します。

もはや胸が痛むどころではありません。

強い怒りとともにざわざわとした不快なものが胃の奥からこみ上げてくるのを感じます。

結愛ちゃん、心愛ちゃんたちのことです。

二人とも愛という名前を付けてもらっていました。

可愛らしいとっても良い名前です。

事件を知って以来、怒りと不快とが入り混ざった気分の悪さがずっと心の底によどんでいます。

この気分の悪さを少しでも晴らしたくて、親子の愛と生命の意味について思うことを書いてみます。

 

 

愛って何だろうと思ったとき頭に浮かんだのは2冊の本でした。

『100万回いきたねこ』と『愛するということ』です。

 

『100万回生きたねこ』は1977年に出版された絵本。

作・絵ともに佐野洋子です。

100万回しんで、100万回生きたとらねこが愛を知る物語です。

目にしたこと、読んだことがおありの方、絵本を持っておられる方、、、きっとたくさんいらっしゃると思います。

 

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 (『100万回生きたねこ」より)

 

お話はこう始まります。

 

100万年も しなない ねこが いました。

100万回も しんで、100万回も 生きたのです。

りっぱなとらねこでした。

100万人の 人が、そのねこを かわいがり、100万人の人が、そのねこが しんだとき なきました。

ねこは、1回も なきませんでした。

(佐野洋子『100万回生きたねこ』より) 

  

ねこは100万回生きますが、このお話のどこにもねこのお母さんお父さんはでてきません。

ねこは、ねこのお母さんとお父さんからは愛されたのでしょうか?

どうして一緒に暮らさなかったのでしょうか?

代わりに出てくるのは、ねこを自分の傍に置いて肌身離さず連れ回す飼い主たちです。

何万回生きても、いつもねこは突然誰かの飼い猫になっています。

 

飼い主たちはねこを箱に入れたり抱いたりして、かわいがります。

かわいがるのは愛するということと同じでしょうか?

愛するということはどういうことでしょう?

ねこは甘えて鳴くことも飼い主の手や顔をなめることもしません。

だって、いつも飼い主のことがだいきらいでしたから。

ねこは自分がだいすきだったのです

やがてねこは白いねこと出会います。

白いねこがうんでくれたたくさんの子ねこたちのことが自分よりもすきになるのです。

 

 ねこは、白いねこと いっしょに、いつまでも 生きていたいと 思いました。 

 

死ぬことなんか平気だったねこはおじいさんになり、おばあさんになった白いねこにこんな感情を抱くようになります。

 

そして、お話はこう終わります。

と、ここで物語の終わりに言及するのはネタバレというのかも知れません。

この絵本はネタがバレたあとの余韻を楽しむお話だと思うのですが、気にされる方はこの先は読まないでください。

ということで、

 

お話はこう終わります。

 

ある日、白いねこは、ねこの となりで、しずかに うごかなく なっていました。

ねこは、はじめて なきました。夜になって、朝になって、

また 夜になって、朝になって、ねこは 100万回も

なきました。

朝になって、夜になって、ある日の お昼に、ねこは

なきやみました。

ねこは、白いねこの となりで、しずかに うごかなくなりました。

ねこは もう、けっして 生きかえりませんでした。 

 

愛するということは、そのひとに笑って欲しいと思うこと。

そのひとを幸せにしたいと思うこと。

自分よりも誰よりも大事にしたいと思うこと。

生きかえらなかったとらねこは白いねことずっとずっと一緒にいることを選んだのでしょうか。

 

 

 

1956年に出版された『愛するということ』はドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者であるエーリッヒ・フロムの著作です。

フロムは「愛」をこう定義しています。

 

 愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。

(中略)

一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。

 (『愛するということ』エーリッヒ・フロム著(鈴木晶訳)紀伊國屋書店刊より、以下、引用は全て同著から) 

 

つまり、愛するということは、その人を通して感じることができる世界の全てを愛するということだ、とフロムは言っています。

白いねこを愛したとらねこは、白いねこの生命をも愛した。

だから、自分だけ生きかえる必要はない、そう考えたのかもしれません。

フロムはさらに、愛の種類を5つ挙げています。

まず、あらゆるタイプの愛の根底にあるもっとも基本的な愛として兄弟愛を。

そして、母性愛(父性愛)、異性愛、自己愛、神への愛を挙げています。

 

フロムは母性愛と父性愛について「親子の愛」として別の節で書いていますので、その内容を簡単に紹介します。

まず、母性愛について

 

 母親の愛は本質からして無条件である。母親が赤ん坊を愛するのは、それが彼女の子どもだからであって、その子が何か特定の条件をみたしているとか、ある特定の期待にこたえているからではない 

 

100万回生きたねこをかわいがった飼い主たちの思いに共通するものをここに感じます。

ねこは、ただねこであると言うだけで無条件の愛を注いでもらったのです。

そして、父性愛について

 

 父親の愛は条件つきの愛である。「私がおまえを愛するのは、おまえが私の期待にこたえ、自分の義務を果たし、私に似ているからだ」というのが父親の愛の原則である。

(中略)

父親の愛の性質からすると、服従こそが最大の美徳である。不服従は最大の罪であり、その罰は父親の愛の喪失である。 

 

父親の愛は母親の愛とは大きく違います。

父親の愛は自分への服従を求めるものだ、と言うフロムの言葉に愕然としますが、自分自身を振り返ってみて、子供たちに対してきた自分の言動の底にそれと同じ感覚があったことに今更ながらに気づきます。

 

親子の愛についてフロムが言いたかったことを誤解のないように伝えたいので、以下、引用が長くなりますが、ご容赦ください。

母親の愛と父親の愛との違いを説明した後、フロムはこの二つの愛が理想的に機能することによって子どもを正しく成長させることができると言っています。

 

 理想的なケースでは、母親の愛は、子どもの成長を妨げたり、子どもの無力さを助長したりはしない。母親は生命力を信じなければならない。心配しすぎて、その心配を子どもに感染させるようなことがあってはならない。子どもが独立し、やがては自分から離れていくことを願わなくてはいけない。

父親の愛は原理と期待によって導かれるべきであり、脅したり権威を押しつけたりすることなく、忍耐づよく、寛大でなければならない。成長する子どもに、すこしずつ自分の能力に気づかせ、やがては子どもがその子自身の権威となり、父親の権威を必要としなくなるように仕向けなくてはならない。 

 

こうして両親の愛に育まれて子供は成長し、大人になっていきます。

ここでの愛は、子供が成長し、親である自分たちから独立していくために注がれるのです。

 

 やがて子どもは成熟し、自分自身が自分の母親であり父親であるような状態に達する。成熟した人間は、いわば母親的良心と父親的良心を併せ持っている。 

 

この二つの良心、二つの愛は一見矛盾しているように思えます。

それを併せ持つとはどういうことでしょうか。

 

 母親的良心と父親的良心はたがいに矛盾するように見えるが、成熟した人間はその両方によって人を愛する。父親的良心だけを保持しようとしたら、残酷で非人間的な人物になってしまうだろう。母親的良心だけを保持しようとしたら、判断力を失い、自分の発達も他人の発達も妨げることになるだろう。

母親への愛着から父親への愛着へと変わり、最後には双方が統合されるというこの発達こそ、精神の健康の基礎であり、成熟の達成である。 

 

フロムの言いたかったことはここにあると思います。

 

最後に、成熟と言うことについて

 

 幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。未成熟の愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。 

 

 

『愛するということ』の原題は『THE ART OF LOVING』です。

このARTは技術と訳されます。

愛は技術であり、生まれつき備わっている能力ではない。

知力と努力が必要だ。

だから、成熟しないと愛することができない。

これがフロムの思いです。

 

100万回しんだねこは100万回生きたことでやっと成熟することができたのかもしれません。

幼稚な愛、未熟な愛しか持ち得ないまま親になった悲劇を改めて思います、、、

ん?

わたしは?

 

 

 

あ、100万回と言えば、わたしはこんな作品を書きました。 

www.keystoneforest.net

 

 

 

100万回生きたねこ (講談社の創作絵本)

100万回生きたねこ (講談社の創作絵本)

 
愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

  

 

 

 

 

とらねこは草原の真ん中で白いねこを抱いたまま静かに動かなくなります。

動かなくなったとらねこと白いねこの上に雨が降り陽が差し、風が吹き渡ります。

二ひきのねこはいつしか土に還ります。

草原には今日も野草が芽吹いています。

死ぬと言うことと生きると言うことは、とらねこが死んだ後も何百万回も何千万回も繰り返されているです。

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(『100万回生きたねこ』より)

 

結愛ちゃん、心愛ちゃんたちのご冥福を心よりお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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山猫🐾@森の奥へ

似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。