※今回の創作は原稿用紙にすると40枚弱、文字数だけを数えると1万2千字ほどになります。これまで1記事につき数千字くらいまでの分量を目安にしてきましたので、どういう形でアップすればいいのか、少し悩みました。いえ、大げさに言いました。少し考えたくらいでした。で、話の区切りがよさそうなところで分けて、5回分でアップすることを考えました。起・承・承・転・結、みたいな構成です。回ごとに文字数が異なり、分割することで、拙い作品がさらに読みづらくなることがあるかと思いますが、お気づきのことがあればアドバイスください。よろしくお願いします。
空知らぬ風
男たちがまだ頭に髷を乗せていた頃の、ある年の初秋のことだった。
畑仕事の後、夕餉の支度に、裏庭の井戸まで水を汲みに出た妻の咲が、なかなか戻ってこない。
正吉が探しに出てみると、咲は井戸の陰で釣瓶を抱いたまましゃがみこんでいた。
口を押さえ、ひどく咳をして喘いでいる。
正吉はその身体を抱え上げようとして咲の手をとった。
ぬるりとした感触があった。
それが赤く見えたのは、夕日のせいばかりではなかった。
じきに稲刈りがはじまった。
刈り入れから稲こき、籾摺りとつづく年中で最も忙しい時期を、すっかり綿が薄くなった布団の中で、いや、その布団に隠れるようにして咲は過ごした。
以来ずっと寝付いたままだった。
夜中もかまわずひどい咳が襲ったが、正吉や姑を起こさぬよう、歯を食いしばり頭まで布団を被って、咲はそれをこらえた。
働き者だった咲が寝込んだことに、最初のうち、姑である正吉の母親のフジも、無理を頼んで手伝ってもらっていた親戚もみな寛大だった。
けれど病が長引くにつれ、嫁である咲を見る目は次第に厳しくなっていった。
なかでもフジは、「この歳になると、少し寝たくらいでは、なかなか疲れが抜けなくてねぇ」などと、わざとらしく声に出してみては、意味ありげなため息をついたものだ。
正吉は、フジにそれ以上嫌味を言わせたくなかった。
咲の分も働き、またその合間を縫って、咲の看病にも懸命につとめた。
秋の終わり、正吉はつてを頼って、評判の医者に町から来てもらった。
礼に渡せるものなど何もなかった。
冬の間、三月ほど力仕事をして、それに代えるつもりだった。
駕籠に揺られてやってきたその医者は咲をろくに診てくれもせず、小半時もしないうちに帰り支度をはじめた。
せっかく煎れた茶に口もつけていない。
「春まで保つまい」
医者は玄関口で立ち止まり、思い出したようにぼそりと告げた。
見立ては、やはり肺病だった。
しかもかなりひどいらしい。
まさか、そのせいで早々に逃げ出そうとしたのではないか、そんなことを思わせるほど、医者の態度は素っ気なかった。
「何か薬はございませんか」
戸口を出て行く医者の背中に、深々と頭を下げた後、正吉はようやく一言、そう声をかけた。
「お前様は、小判というものをご覧になったことがおありか」
答える代わりに、医者は振り向きもせず言った。
正吉はそれ以上もう何も訊く気になれなかった。
畑仕事から戻ったフジは、その夜、咲に聞こえるのもかまわず、吐き捨てるように言った。
「帰しておしまい。お前にまでうつったらどうするつもりだい。それに、これ以上あんな嫁に食わしてやる米など、家にはないよ」
正吉はとっさにフジを突き飛ばしてしまいそうな衝動に駆られた。
そんな思いが沸き立ったのは初めてのことだ。
けれど、正吉はなんとかその思いを抑えつけた。
固く握りしめた拳の震えが止まらなかった。
正吉は暗い目でフジをじっと睨みつけた。
「だけど、仕方ないじゃないか」
そう言ってフジはぷいと外へ出て行った。
戻ってきたのは夜がすっかり更けてからだった。
月明かりに見えたフジは腫れぼったい目をしていた。
次の日から、自分をいじめるように、さらに正吉は働いた。
フジはもう何も言わなかった。
けれど、それ以降決して咲の傍には寄りつこうとしなくなった。