森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

空知らぬ風 (創作短編小説) 1/5(起)

 
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※今回の創作は原稿用紙にすると40枚弱、文字数だけを数えると1万2千字ほどになります。これまで1記事につき数千字くらいまでの分量を目安にしてきましたので、どういう形でアップすればいいのか、少し悩みました。いえ、大げさに言いました。少し考えたくらいでした。で、話の区切りがよさそうなところで分けて、5回分でアップすることを考えました。起・承・承・転・結、みたいな構成です。回ごとに文字数が異なり、分割することで、拙い作品がさらに読みづらくなることがあるかと思いますが、お気づきのことがあればアドバイスください。よろしくお願いします。

 

 

 

 

空知らぬ風

 

 

男たちがまだ頭に髷を乗せていた頃の、ある年の初秋のことだった。

畑仕事の後、夕餉の支度に、裏庭の井戸まで水を汲みに出た妻の咲が、なかなか戻ってこない。

正吉が探しに出てみると、咲は井戸の陰で釣瓶を抱いたまましゃがみこんでいた。

口を押さえ、ひどく咳をして喘いでいる。

正吉はその身体を抱え上げようとして咲の手をとった。

ぬるりとした感触があった。

それが赤く見えたのは、夕日のせいばかりではなかった。

 

じきに稲刈りがはじまった。

刈り入れから稲こき、籾摺りとつづく年中で最も忙しい時期を、すっかり綿が薄くなった布団の中で、いや、その布団に隠れるようにして咲は過ごした。

以来ずっと寝付いたままだった。

夜中もかまわずひどい咳が襲ったが、正吉や姑を起こさぬよう、歯を食いしばり頭まで布団を被って、咲はそれをこらえた。

 

働き者だった咲が寝込んだことに、最初のうち、姑である正吉の母親のフジも、無理を頼んで手伝ってもらっていた親戚もみな寛大だった。

けれど病が長引くにつれ、嫁である咲を見る目は次第に厳しくなっていった。

なかでもフジは、「この歳になると、少し寝たくらいでは、なかなか疲れが抜けなくてねぇ」などと、わざとらしく声に出してみては、意味ありげなため息をついたものだ。

 

正吉は、フジにそれ以上嫌味を言わせたくなかった。

咲の分も働き、またその合間を縫って、咲の看病にも懸命につとめた。

 

秋の終わり、正吉はつてを頼って、評判の医者に町から来てもらった。

礼に渡せるものなど何もなかった。

冬の間、三月ほど力仕事をして、それに代えるつもりだった。

駕籠に揺られてやってきたその医者は咲をろくに診てくれもせず、小半時もしないうちに帰り支度をはじめた。

せっかく煎れた茶に口もつけていない。

「春まで保つまい」

医者は玄関口で立ち止まり、思い出したようにぼそりと告げた。

見立ては、やはり肺病だった。

しかもかなりひどいらしい。

まさか、そのせいで早々に逃げ出そうとしたのではないか、そんなことを思わせるほど、医者の態度は素っ気なかった。

「何か薬はございませんか」

戸口を出て行く医者の背中に、深々と頭を下げた後、正吉はようやく一言、そう声をかけた。

「お前様は、小判というものをご覧になったことがおありか」

答える代わりに、医者は振り向きもせず言った。

正吉はそれ以上もう何も訊く気になれなかった。

 

畑仕事から戻ったフジは、その夜、咲に聞こえるのもかまわず、吐き捨てるように言った。

「帰しておしまい。お前にまでうつったらどうするつもりだい。それに、これ以上あんな嫁に食わしてやる米など、家にはないよ」

正吉はとっさにフジを突き飛ばしてしまいそうな衝動に駆られた。

そんな思いが沸き立ったのは初めてのことだ。

けれど、正吉はなんとかその思いを抑えつけた。

固く握りしめた拳の震えが止まらなかった。

正吉は暗い目でフジをじっと睨みつけた。

「だけど、仕方ないじゃないか」

そう言ってフジはぷいと外へ出て行った。

戻ってきたのは夜がすっかり更けてからだった。

月明かりに見えたフジは腫れぼったい目をしていた。

 

次の日から、自分をいじめるように、さらに正吉は働いた。

フジはもう何も言わなかった。

けれど、それ以降決して咲の傍には寄りつこうとしなくなった。

 

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