※初めてご訪問くださった方がいらっしゃいましたら、今回の記事は連載途中です。1回目はこちらです。 よろしくお願いします。
今回は3回目、承その2、です(^^;
空知らぬ風
咲が死んでから、正吉はまるで意気地がない。
万年床から朝遅くに起きてきて、フジが作って置いていった飯を口に入れ、汁で流し込む。
それから空模様を窺い、晴れの日なら、田へ出て遮二無二土を耕して、日が暮れると家に帰ってすぐに寝た。
雨の日なら、一日囲炉裏の傍に腰を下ろし、藁を綯い草鞋を編んで、出来が気に入らないと炉で燃やし、飽きずに炎を見つづける。
そして、眠くなれば何も食わずに床についた。
誰とも話す気になれず、一言も口をきかずに過ごす日が大半だった。
腹など少しも減らなかった。
ただ、作ってあるものを捨てることができずに、仕方なく腹に入れているだけだった。
耳元でいつも咲の話し声が聞こえていた。
それがよりはっきりと聞こえるほど、正吉の気は紛れた。
……溢れるほどのお花、ありがとうございました……
……咲にはもうそれだけで充分です……
降り積もる雪を二人で眺めたあの日、咲が話してくれた言葉、それを何度も何度も繰り返し正吉は辿った。
咲の顔をありありと思い浮かべることができたとき、知らず一人笑いをすることがあるらしい。
そんな時、フジはあからさまに気味悪がった。
……正吉さんの笑顔が見られなくなってしまうことだけが、悔しくて……。ですから……
あの後、咲は何とつづけようとしていたのだろう。
今となれば知りようのない答えを求めて、正吉は暗闇の中を手探りで歩を進める。
いや、進んでいるかどうかさえよく分からない。
ひょっとして、袋小路に行き着くのかも知れない。
足下に深い穴が穿ってあるかも知れない。
けれど、かまいやしなかった。
正吉にはこの先、どうやって日々を過ごしていけばよいのか、まるで分からなかった。
――いつか、その手が何かに触れることがあるだろう。
「咲か? 咲、会いたい。顔を見せておくれ」
正吉が声をかける。
すると、暗闇の中に小さく明かりが灯り、女らしき人影がぼんやりと浮かび上がる。
正吉はゆっくりとそちらに近づいていく。
明かりの中に女の顔が判然と現れる。
その顔には絵に描いたように美しく化粧が施されている。
紛れもない、咲の死顔だった。
一瞬ひるんだ隙にその姿は歪んで、暗闇に沈んでしまう。
咲を失った時、正吉は一緒についていこうとして、できなかった。
衰弱の果てに死んだ咲の亡骸は人形のように軽く、死に化粧された顔に、まるで見覚えはなかった。
そして、白粉の強い匂いが死臭を一層きわだたせていた。
正吉は自分の身体もそうなると思うと怖くてたまらなくなった。
「でも、一人はもう嫌だ。連れていっておくれ」
正吉は叫びながら、暗闇に消えた咲の後を死に物狂いで追いかける――
そんな夢を見ることもあった。
やがて正吉は思い当たった。
……卯の花、菜の花、仏の座。山吹、蒲公英、桜草……
咲は指折り数えながら、唄うように並べ上げた。
だからその唄が耳に残って、正吉ははっきりとその花の名を覚えていた。
布団の中で、正吉も小さく口ずさんでみる。
隣の部屋で寝ていたフジは、深夜、唐突に聞こえてきた唄声が、紛れもなく正吉の声であると分かって、ついに来るべきものが来たかと、覚悟を決めた。
「卯の花、菜の花、仏の座。山吹、蒲公英、桜草……」
正吉は何度も繰り返し唄う。
卯月に咲くから卯の花という。
空木(うつぎ)の異名だ。
空木は、茎の髄が空洞になっている虚ろ木からきている。
花の中で、一番に卯の花を挙げたのは、今の腑抜けのようになった私を知っていたからだろうか。
「正吉さん、しっかりしてくださいな」
正吉は、その時こそ、耳元ではっきりと咲の声が聞こえたような気がした。
正吉はそっと自分の頭を叩いてみる。
大丈夫、中はまだしっかり詰まっている。
ひょっとして、咲が夢に見た通り、花祭りの日、咲は私に会いに来てくれるのではないか。
私は両手に抱えきれないほどの野の花で咲を迎える。
野の花にうずめられた咲は、うれしそうに歓声をあげる。
私はそれを黙ったまま意地悪く見つめてやる。
きっと咲はその日、私の傍に戻ってきてくれる。
正吉は確信した。
そうなると、正吉の時間は堰を切ったように勢いよく流れはじめる。
祭りの日まであと数日あったが、この時期、村では田植えの準備に忙しい。
正吉は仕事を終えてから野山に入り、暗くて見えなくなるまで花の咲いている場所を探してまわった。
卯の花は草右衛門の家の生け垣に、菜の花は大川の河原に、仏の座は裏の畑のあぜ道に咲いていた。
残りの花も、村中で一番勢いよく咲いている場所を正吉は夢中になって探しだした。
そして、卯月八日の朝がきた。
雨戸の隙間から明かりが差し込んでくる。
万年床に寝ている正吉の耳に、小鳥の囀りが聞こえてきた。
しばらく自堕落な生活を送っていた正吉には、このところ毎朝、その囀りが目覚まし代わりになっていた。
小鳥は庭のすぐ正面に見える桜の枝で遊んでいる。
近頃それが話し声のように聞こえはじめた。
一羽が喋り、もう一羽が相づちを返す。
そして二羽がそろって一緒に囀りだす。
「賑やかでいいなぁ」
正吉は口に出して言う。
思いっきり話がしたい。
正吉は強くそう思った。
前夜は咲のことがひときわたくさん思い出されて、遅くまで寝付けなかった。
何度も寝返りを打って、ようやく寝入ったと思えば、もう朝が来ていた。
けれど少しも眠気は感じなかった。
雨戸を開ける。
途端に心地よい風が吹き込んでくる。
眩しくて目を開けていられない。
東の空はまだ白みはじめたばかりだった。
庭の桜が満開になっていた。
前日は一つも花をつけていなかったのに。
正吉はその勢いのよさをうらやましく思った。
桜の枝も手折っていこうか、正吉は少し考えたが、可哀想でやめにした。
花は咲の墓へ持っていく。
村を見下ろす見晴らしのよい山の中腹に咲の墓を建てた。
墓と言っても、河原から運んできた石を一つ据えているだけだったが。
その石の下に、咲が眠っている。
そこで二人は夫婦の契りを交わした。
その場所がこの世で咲に一番近いところだと正吉は信じた。
……お花の山にうずもれてしまいそうでした……
咲の言葉を思い返しながら、正吉は摘んできた花を墓石の周りに供えていった。
やがて石はすっかり花に隠れてしまう。
正吉は懐に入れて持ってきた湯飲み茶碗を取り出して、花の前に置いた。
そして、腰に下げていた竹筒を外して、筒の中身を注いでいく。
それはまだ少しだけ温かかった。
正吉は桜の花びらを数片そこに浮かべる。
「どうだ、咲。今朝、庭で咲いていた桜の花だ。いい匂いがするだろう?」
語りかけた後、正吉は静かに目を閉じる。
すぐ傍に咲がいる。
正吉は身体中を耳にして、咲の気配を感じようとした。
しかし、しばらく待ってみたが、何も変わらない。
……咲は正吉さんのその笑顔が大好きでした……
咲の声が聞こえた気がした。
いや、ただの風の音かも知れない。
でも、まあいいさ。
正吉はその言葉通りにしてみることにした。
「そうかそうか、怖い顔をしていてはいけないか」
言いながら、正吉は笑顔を作ろうとする。
けれど、うまく笑えない。
口元が変に引きつるばかりだ。
ははは、と口に出して言ってみる。
でも、どう言い換えてみても、
笑い声には遠かった。
咲の笑顔を思い浮かべてみる。
ふざけて二人で笑い転げた思い出を辿ってみる。
でも笑えなかった。
こんなに簡単なことが、どうしてできぬのだ?
何度も繰り返すうち、正吉の目に熱いものがこみ上げてきた。
そして、日暮れまでそこで待ってみたが、結局咲に会うことはできなかった。
正吉はまた万年床に舞い戻る。