※今回の創作「風を見た日」は原稿用紙換算で30枚くらい、文字数だけを数えると1万1千字ほどです。1記事あたりの分量としては多い気がしますので、区切りが良いよさそうなところで分けて、4回連載という形で掲載することにしました。分割することで、読みづらくなることがあるかと思いますが、よろしくお願いします。
今回は第四回目、最終回です。
第一回目です。
第二回目です。
第三回目です。
風を見た日(最終回)
引っ越し先まで、私も一緒にトラックに乗せてもらうように頼んでいた。
トラックはすでにハイウェイに入っている。買ってきたサンドイッチで昼食を済ませ、カバンからアルバムを取り出した。床に落ちてページを開いたアルバムが、最後にもう一度、私に見てもらいたがっているように思えて、それをカバンに入れてきていた。
アルバムの表紙には、春の日付があった。日ごとに暖かさを増す陽気に誘われて、休日のたびに山に出かけていた記憶をたどることができた。
写真の大半は木や野草を写したもので占められている。灰色に煙ったように見えていた山の木々が、やがて新緑に染められていく。ページを繰るとともに、春の近づく足音がはっきりと聞こえてくるようだった。
さらにページをめくると、桜の季節が訪れた。その写真が何ページも続く。咲子の心は桜の気配に沸き立ち、それを全身で味わいたいという衝動を抑えきれなくなるようだ。大好きな桜からエネルギーをもらって、彼女は精一杯生きた。
一枚の写真に目がとまった。
「リビングから写す」とコメントを付けられた一連の写真のうちの一枚だった。時刻まで記されているから、時間をおいて続けて写されたものかも知れない。日付は咲子の誕生日を示していた。
私の目を捉えた写真は、桜の枝先で、今まさに蕾が弾けようとする瞬間を撮ったものだった。柔らかな日差しを受けて、武者震いするようにその蕾が健気に揺れている。そしてそれに、風が声援を送っている。……そんなふうに見えた。
「PM14:35」とある。
赤ん坊の産声が聞こえた気がした。きっと咲子はちょうどこの時刻に、この世に生を受けたのだ。
写真屋の主人の言葉を思い出した。……あの写真だ。
写っているのは、リビングの真正面に立つ桜の木に違いなかった。それは確か、今年の春はまだ花を咲かせていない桜だった。他の桜は変わらず咲いたのに、よりによって部屋のすぐ前の桜だけ咲かないなんて妙な話だ。あの木は以前から枯れていたのか、そう思ってあきらめていた。でも、そうじゃなかったんだ……。
私の耳に、咲子が最期の誕生日に言った言葉が鮮やかに蘇ってきた。そして、一つの想いが湧き起こった。
時計を見る。2時少し前だ。
「申し訳ありません。忘れ物を思い出しました。引き返してもらえませんか」
私はとっさにそう頼んでいた。
咲子の実家まではまだかなり時間がかかる。ここで道草を食っていたら、引っ越しが終わるのは夜遅くなってしまう。でも、どうしても確かめておきたいことがあった。それはきっと今日、四月十日でなければいけなかった。
リーダー格の男は少し憮然とした表情をつくったが、他の二人に目をやってから小さくうなずいた。
「じゃあ、次のインターで降りて、引き返しましょう」
そう返事をもらって、私は大きく息を吐き出した。頭の中の想いが次第に大きくなっていく。胸の鼓動が激しくなった。花も葉もつけずに立っているあの桜の木を想った。
トラックがマンションに着く。私は管理人室を訪ね、部屋の鍵を借りた。エレベーターを見ると、最上階の位置を表示している。下りてくるのを待ちきれず、階段を駆け上った。
部屋に入る。
がらんとして何もないリビングに立った。午後の日射しがまだ明るい。私は部屋の中をうろうろと歩き回る。
「テーブルの位置はこのあたり、僕の椅子はここにあって、咲子の椅子はその向かい側だから、この辺かな」
声が部屋に響いていた。気づくと私は大声でしゃべっている。
咲子はいつも窓側を背にして座っていた。
つい二週間ほど前のことだ。咲子の三十歳の誕生日に、私はサクランボがのったケーキを買って帰った。彼女が残していった言葉は、この一年間ずっと心に引っかかっていた。その日の昼間は、咲子の声が何度も耳元に蘇ってきて仕事が手につかなかった。
咲子が夢に見た通り、彼女はきっと今夜、私に会いに来てくれる。
咲子はケーキを食べられずに困った顔をする。そして、私のすぐ目の前で残念そうにため息をつく。それを私は意地悪な目でじっと見つめてやるんだ……。
ささやかながら食事は二人分用意した。ケーキにはロウソクを三本立てた。
ゆっくりとロウソクに火を灯す。それを消さないように、私は息を殺して席に着き、そっと炎の向こうをうかがった。かすかに炎が揺れた。
……でも、何も見えない。
ロウソクを吹き消す。一瞬部屋は真っ暗になる。すっかり陽は落ちてしまっていた。やがて暗闇に目が慣れてくる。
……その中に、やはり君はいなかった。
君が会いに来るなんて、そんなはずなかった。それくらい分かっていた。けれど、それを信じたかった。君にまた会えると信じていれば楽になれた。そうでないと変になってしまいそうだった。君のことを知っている人たちと街で話した。僕が知らないたくさんの君がそこにいた。その会話の中で君はいつまでも変わらない。君は君を知っているたくさんの人たちの中で生き続けていた。だからきっと、君は帰ってくる。そして、元気だった?って溢れるほどの笑顔で訊いてくる。絶対にそんな日が来る。そう思っていた。そう信じていた。信じていれば叶うと思っていた。僕ひとりだけここに残されるはずなんてない。きっと君は会いに来てくれる。でも、
でも、やはりそんなはずはなかった。
私は真っ暗な部屋の中で何時間も両手で顔を覆ったまま咲子のことを想った。出会ってからのたくさんの思い出を振り返った。
そして私は、この部屋を出ることに決めた。ここにもう咲子はいない。それがはっきりと確かめられたから。
でも、そうじゃなかったかも知れない。
私は自分の椅子があったはずの場所で中腰になり、咲子の席の方に目をやった。視線の先に見えたのは桜の木だった。カーテンを取り外した無表情な窓の向こうに、花をつけなかったあの桜の木があった。
すぐ先に、一本の小枝が伸びてきていた。こちらに手を差しのべているように見える。
ひょっとして、咲子はずっと前からそこで私が気づくのを待っていた。
そうだ。そうに違いない。咲子だ。咲子はずっとそこから私を見守ってくれていた。
この桜に咲子がいる。
小鳥の囀りが聞こえた。
マンションの外へ走り出た。
あの桜の根元に立ってみる。
見上げると、花も葉もつけない枝が空を掴もうとするかのように上に向かって伸びていた。
木の肌に触れてみる。それはまだ枯れてなどいない。桜の木は私が気づくのを待っていた
私は木の天辺を仰ぎ見たまま、顔を戻すことができなかった。とうの昔に尽きてしまったはずの熱いものが込み上げてきた。
私はカバンから白い布を取り出した。これだけは咲子の両親に返す決心がつかないでいたものだ。
栗色の髪の毛がそこに包まれていた。咲子のだ。開くと確かに彼女の香りがした。
土に返すね。
私は桜の根元にしゃがみこむ。うつむくと、私の両の目からこぼれ落ちたものが、地面に黒い染みをつくった。素手のままガリガリと土を掘る。咲子の髪をそこに置き、土をかけた。
咲子と桜が繋がった。
私はアルバムから剥がしてきたあの写真を桜の木の枝に翳した。腕時計の時刻が目に入る。PM14:30。もうすぐあの時間だ。
桜並木全体が小さくざわめいた。並木の向こうの端から風が駆けてくるのが見えた。それは並木の枝や葉を揺らしながらこちらに近づいてくる。
風は桜たちに挨拶をしている。ありがとう、ありがとう、ありがとう。
そうだ、部屋だ。部屋に戻らなきゃ。まだ間に合う。
私はマンションの階段を一気に駆け上がった。
リビングに駆け込んで、窓の外に目をやる。まっすぐにこちらに向かって伸びた枝先と目が合った。会釈するように木の枝先がかすかに揺れた。
その瞬間、部屋の中に風が舞った。風は渦を巻き、私は目を閉じた。部屋も私もすべてが風に包まれた。
そして、風が止んだ。
もう一度枝先に目を移すと、
そこに小さな花が一輪咲いていた。
ありがとう……
咲子の声が聞こえた。
(了)