※今回の創作「風を見た日」は原稿用紙換算で30枚くらい、文字数だけを数えると1万1千字ほどです。1記事あたりの分量としては多い気がしますので、区切りが良いよさそうなところで分けて、4回連載という形で掲載することにしました。分割することで、読みづらくなることがあるかと思いますが、よろしくお願いします。
今回は第三回目です。
第一回目です。
第二回目です。
風を見た日(第3回)
引っ越しの作業にやってきたのは、三人組の若い男たちだった。一人が指示を出し、手際よく仕事が進められていった。部屋の養生を終え、荷物が運ばれ始めた。咲子の荷物を詰めた段ボール箱には、「実家へ」と書いている。それらを先に咲子の実家に運び、それを済ませてから私の引っ越し先の街へ向かう予定になっていた。
彼女の荷物をすべて両親に返し、仏壇の彼女にお線香をあげ、それを区切りにする、そう決めていた。
三十一回目からはもういいよ。
咲子のその言葉は、この先、生涯ずっと自分のことを想い続けてくれなくてもいいよ、という私への心遣いだと受け止めた。
他の女性を好きになってもかまわない。
でも、せめて一年間は自分のことをこのまま想い続けていて欲しい、それが彼女の最期の願いだったのだ、と思うことにした。
引っ越し作業に私の手伝いは不要のようだ。私は時折、荷物の行き先を指示するくらいで、それらの行方をただぼんやりと目で追っているだけでよかった。
家具が運び出された後の部屋はまるで空き箱のようで、色はすっかり褪せてしまい、まるで見覚えがない。どこか知らない場所にぽつりと立たされているような気分になった。
最初にこのマンションの下見に来た時も、こんなふうに部屋には何もなかった。その中を咲子は子供のように駆けまわっていたっけ。ふと、あの時に舞い戻ったような錯覚にとらわれる。
ダイニングテーブルはここに置くでしょう。明さんが座る席は窓が見えるこっち側ね。ほら、思った通り、桜の木がちょうど真正面。もうすぐ咲く頃ね。あー、お腹空いてきた。
咲子の声が途切れなく聞こえてくる。あのとき、すでに部屋は自分たちだけの空間になっていた。咲子がずっと笑顔で、私たち二人がずっとずっと幸せでいられる予感がした。
「あー、やっちゃった」
若い男が悲鳴をあげた。
段ボール箱を3段重ねて持ち上げようとして落としてしまったようだ。見ると、彼の足元に写真のアルバムが散らばっている。箱の底がすっぽりと抜け落ちたのだ。男は慌ててそれを拾い上げようとした。
「あ、いいです。それ、私が運びますから」
昨夜、アルバムを箱に戻す時、もう一度しっかりと封をしなかったのかもしれない。可哀想なほど何度も頭を下げる彼を遮って、私は床に落ちたアルバムを拾い集めた。
二、三時間ほどで、引っ越し作業は区切りがついた。
「これでもう終わりだと思うんですが、ご確認願えますか」
三人組のリーダーらしき男が軍手の甲で汗を拭いながら訊いてきた。すでに昼近くになっている。すっかり見晴らしがよくなったリビングの白い壁に、春の日差しがまっすぐ当たって眩しいほどだった。
近所に引っ越しの挨拶をしたいので、と私が言うと、男は、じゃあ先に昼食をとってきます、と応えてトラックで待つ仲間のところへ戻っていった。
男の後について部屋を出て、玄関ドアを閉める。ドアの傍らの表札には、私と咲子の名前が並べて書いてある。咲子の筆跡だった。右下がりの癖があるその筆跡が無性に懐かしかった。
彼女が亡くなってからも時折、彼女宛の郵便物が届くことがあり、表札をそのままにしていた。でも、もういいだろう。私はそれを外し、ドアに鍵をかけた。
ここには三年間暮らしたが、個人的な付き合いがあった住人はいなかった。けれど、引っ越しの作業で静かな休日の午前を邪魔してしまった両隣くらいには、お詫び方々挨拶に伺おうと思った。
西隣は留守だった。挨拶の菓子折にメモを添えて、郵便受けに入れた。ここの奥さんは変わり者だった。
廊下で会うと挨拶くらいは交わしたが、じろりと無愛想な視線を返されることが多かった。
最初の印象がよくなかったようだ。咲子がゴミを捨てる曜日を間違ったようで、隣家の奥さんにずいぶんきつい言葉で質されたという。
つい最近も廊下ですれ違うなり、嫌みを言われた。
お宅の奥さん、昼間っから居留守なんか使って、本当に嫌らしいんだから。人のこと何だと思ってるのかしら。
居留守なんかじゃありません、彼女はもう……
もう亡くなりました……。口元まで出かかった言葉を私は堪えた。最後だからと思って無理をして訪ねたが、今日はそっちの方が留守だった。おかげで嫌な思いをせずに済んだ。
東隣には老夫婦が住んでいた。チャイムを押してしばらく待つと、インターフォンからのんびりした調子の老婦人の返事が聞こえてきた。
「まあ、お隣の。そうですか、もう引っ越して行かれるんですか。今度はどちらに……。まあ、それは寂しくなりますね」
しばらくインターフォン越しの会話が続いた。
話の途中から老婦人はようやくドアを開け、顔をのぞかせてくれた。足が不自由らしく、玄関まで出てくるのさえ大儀そうだった。
引っ越しの挨拶の品を手渡そうとすると押し戻された。私は押し返す。何度もそれは私たち二人の間を往復し、ようやくのことで私はそれを手渡すことができた。
「じゃあ、どうも、いろいろお気遣いいただいて。遠慮なく頂戴します。……あらそうだ。今日は奥様は」
この隣人も咲子の死を知らない。
どう答えようか少し迷ったが、一足先に出てしまったもので……、とあいまいに告げた。
そう言えば、私の方もこの家のご主人には、引っ越してきた時に挨拶しただけだった。この三年の間に一度も顔を会わせたことはなかった。
ひょっとして……、とこんな時に不謹慎なことを考えそうになって、私はそれ以上考えるのをやめた。
「そうなの、もうお先に行かれてしまったの。残念なこと……。前にこのマンションの玄関のところで足をくじいてしまって。お宅の奥様にここまで背負ってきていただいたことがあって。あの時は本当にお世話になりました。くれぐれもよろしくお伝えくださいね」
老婦人はにこやかに話し続ける。
そんなことがあったんだ。知らなかった……。
こんなふうに、咲子の事情を知らない人に出会って、妙な気分になったことが何度かあった。買い物に行った市場で、八百屋の主人から声をかけられたこともあった。
最近奥さんの顔見ないけど、どうされてます。他の店に浮気してるんじゃないでしょうね。
咲子と二人で買い物に来た時の私の顔を覚えていて、声をかけてくれたらしかった。
ええ、どうも。ありがとう。また来るように言っておきます。
私はそんなふうに返した。咲子が死んだことを隠すつもりはなかった。でも、ことさらにそれを知らせる間柄でもない人たちが結構いるのだ。いや、むしろそんな人たちの方が多かった。
世の中は、咲子を失っても少しも変わらないのではなくて、きっと、そんなことくらいで動じたりしてはいけないものなのかも知れない。威勢のいい八百屋の主人や、あの老婦人の穏やかな笑顔をわざわざ曇らせる必要などなかった。それどころか、咲子の死を伝えないことで、老婦人や、咲子と縁のあった人たちの心の中に、咲子は変わらずに生き続けることができる。
(風を見た日4/4 へ続きます)
第4回目です。