森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

空知らぬ風 (創作短編小説) 4/5(転)

 
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※初めてご訪問くださった方がいらっしゃいましたら、今回の記事は連載途中です。1回目はこちらです。 よろしくお願いします。

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今回は4回目、転の巻、です。 

 

 

 

 

空知らぬ風

 

 

 

 

 

万年床とは言うが、人は万年も寝つづけてはいられない。

それでも、正吉はそれからの数年をぐずぐずと過ごした。

卯月八日が巡ってくるたびに、咲が顔を見せてくれるような気がして、もう一年、さらに一年、と待ってみた。

でもついに、夢の中でしか咲は姿を現してくれなかった。

結局のところ、会えると信じたのは、ただ咲の死を認めたくないだけのことだった。

……咲のことなどお忘れください……

咲は確かにそう言った。

あの言葉は、生涯ずっと自分のことを想いつづけてくれなくてもかまいません、という私への心遣いだ。

それなら、これだけ待てば充分だろう。

正吉はそう折り合いをつけた。

ある日気づいてみれば、咲の声が消えていた。

それで思い切った。

それ以来、咲の墓に参るのもやめた。

 

それからさらに十年ほどが過ぎた。

夢の中にさえ咲が現れることはなくなった。

正吉は隣村からフジの遠縁にあたる女を後添いにもらっていた。

名を小夜といった。

二人の間には、子がすでに三人あった。

上が男で、下の二人が女だ。

末娘はまだその年の初めに生まれたばかりだった。

フジと縁つづきだから、ということだけが理由ではないだろうが、小夜はフジととても馬が合った。

愛想がいいのが取り柄で、村のつきあいもそつなくやってくれていた。

小夜が来てくれてから、正吉の家には笑い声が絶えなかった。

 

春、花祭りの日。

正吉は家族皆を連れて野に出かけることにした。

小夜は初め、まだ首の座らない末娘と家に残ると言っていたが、上の子二人にせがまれて一緒に出かけることになった。

フジと小夜は誘い合い、早朝から起き出して、三段の重箱一杯に食べ物を詰め込んだ。

とりたててご馳走などない。

日頃食べているものを、ただ箱にきれいに並べて詰めただけだった。

けれど、それでさえ、贅沢な気分になれる。

道すがら、重箱を交替で持たされた上の二人は、端から上機嫌だった。

ちょうど妹の方が風呂敷包みの重箱を下げている。

底が地面につきそうだ。

「ほら、見つけた。あそこに黄色いお花。今度はお兄ちゃんの番!」

「だめじゃだめじゃ。そんな小さいんじゃ、代わってやらぬ」

「そんなのひどい」

妹がべそをかきはじめる。

黄色い花を見つけるごとに、重箱を持つ番を代わる約束らしい。

嘘泣き、嘘泣き。

と囃しながら兄の方は先へ逃げていく。

その足音に驚いた小鳥の群れが草むらから一斉に飛び立った。

その先には真っ青な空が広がっている。

 

この年の卯月八日もまた晴れた。

毎年、この日は晴ればかりだ。

万年床で寝ていた数年で、正吉はそのことに気がついた。

それまでの記憶を振り返ってみても、それから後の数年も、正吉が覚えている限り、卯月八日は必ず晴れた。

最初のうちはただの偶然だと気にしなかった。

けれど、あの光を見て納得がいった。

その光に正吉が初めて気づいたのは、咲が死んだ翌年の花祭りの日の午後だった。

正吉は庭の桜をぼんやり眺めていて、そのうちうたた寝になった。

 

昼までは咲の墓の前にいた。

そこでずっと待っていた。

けれど咲は来なかった。

それで、他にすることもなく、山を下り家に帰って縁側に寝っ転がることにした。

やはり天気はよかった。

そして、咲の夢を見た。咲は野で花を摘んでいた。

正吉に気づくと、大きく手を振りながら、正吉の名を何度も何度も呼んでくれた。

 

やっと会えた。やっぱり会えた。ああ、よかった。

 

と思った途端に目が覚めた。

その時、光を見たのだ。

何かが桜の枝先できらりと光った。

つづいて、あちらでもこちらでも次々に煌めきが走った。

それを合図のように、一斉に桜の花が咲いた。

すべてがほんの一瞬のことだった。

正吉はまだ夢を見ているのかと、何度も目をこすった。

次にその光を見たのは、またその翌年の花祭りの日のことだった。

今度光ったのは、正吉の家の桜だけではなかった。

まだ咲ききらない山の桜が、正吉が目をやると、きらりと瞬いてたちまち満開になった。

正吉は、咲が生まれた時のことを思い出した。

その日がとても穏やかで、暖かな日だったということも。

 

……それで、分かった。

 

一年のうちでこの日だけ、正吉の声は桜に届く。

花を見たいと願えば、桜はそれを叶えてくれる。

卯月八日には、いつもこの思い出が繰り返される。

晴れ上がった空の下で、桜の花は光とともに咲きはじめる。

人がその思い出を忘れても、野や山はいつまでも覚えている。

 

正吉が家族と野に出かけたこの日も、やはりそれは変わらなかった。 

春の日射しが降り注いでいる。

蝶や蜂は蜜を集めるのに忙しい。

抜けるような青い空には、綿雲が二つ、三つ、のんびりと浮かんでいる。

正吉は花盛りの野に、ござを敷いて座った。

小夜もフジも一緒に座った。

末娘はねんねこに包まって寝息をたてている。

陽が当たらないよう、フジが陰を作ってやっている。

子供たちは落ち着いて座ってなどいない。

先ほどの喧嘩をまだつづけている。

はしゃぎながら走り回っている。

「何だか、こんな日が前にもあったような気がする」

「そうでしたか?」

正吉の言葉に小夜はそう応え、少し怪訝な顔をする。

家族みんなが揃って野に出るのはこれが初めてだ。

「正吉がまだ幼かった頃、一度、お前の父ちゃんや弟たちと一緒に遊びにきたなぁ」
フジが懐かしそうに言う。

「あの頃は食うものなどろくになかったから、一つの芋をみんなで取り合いっこしたもんだ。覚えてないか? 正吉」

フジはあきれ顔になった。

 

そうか、そうだったかも知れない。

子供の頃のくらし向きは本当に惨めなものだった。

いつも腹を空かせていた。

くたくたになるまで働かされた。

父にもひどく叩かれた。

けれど、今は違う。

辛い昔のことなど、わざわざ思い出すこともない。

そんなことはすっかり忘れた。

そこから逃げ出すために、一心に働いてきた。

正吉は大きなあくびを一つする。

咲を失った痛みも同じことだ。

みんなどこかへ捨て去ってしまった……。

 

そう、この日遊びに来た野の傍らに、咲の墓を作ったことさえ忘れかけていた。

いや、忘れたつもりになっていた。

正吉は上の二人の子に声をかける。

二人はとうとう取っ組み合いの喧嘩をはじめた。

 

「いいか、向こうにあるあの桜の木、よく見ておいで」

正吉の指さす先に山桜があった。

枝先にいくつかほころびかけた蕾がついていた。

フジと小夜もそちらに目をやる。

「そら!」

 

正吉の声とともに山桜の木は光に包まれ、そして見る間に満開の花を咲かせた。

 

「すごいすごい」

みんな大喜びだ。

フジまでが手を叩いて浮かれている。

「ねえ、どうやったの? あの光は何? どうして咲いたの? もう一回見せて」

子供らが正吉にまとわりついてくる。

小夜が正吉の手を取る。

子供らの手、小夜の手、それらの先から温かいものが伝わってくる。

それは、正吉の心を熱く満たした。

「小夜、見ていてごらん」

正吉は、今度は遠くの山に顔を向ける。

すると、その山のそこかしこから光が溢れ、山は花で一杯になった。

やがて野も山も、近くも遠くも、すっかり薄紅色に染まってしまう。 

小夜はとろけそうな笑顔になった。

 

 

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