※初めてご訪問くださった方がいらっしゃいましたら、今回の記事は連載途中です。1回目はこちらです。 よろしくお願いします。
今回は4回目、転の巻、です。
空知らぬ風
万年床とは言うが、人は万年も寝つづけてはいられない。
それでも、正吉はそれからの数年をぐずぐずと過ごした。
卯月八日が巡ってくるたびに、咲が顔を見せてくれるような気がして、もう一年、さらに一年、と待ってみた。
でもついに、夢の中でしか咲は姿を現してくれなかった。
結局のところ、会えると信じたのは、ただ咲の死を認めたくないだけのことだった。
……咲のことなどお忘れください……
咲は確かにそう言った。
あの言葉は、生涯ずっと自分のことを想いつづけてくれなくてもかまいません、という私への心遣いだ。
それなら、これだけ待てば充分だろう。
正吉はそう折り合いをつけた。
ある日気づいてみれば、咲の声が消えていた。
それで思い切った。
それ以来、咲の墓に参るのもやめた。
それからさらに十年ほどが過ぎた。
夢の中にさえ咲が現れることはなくなった。
正吉は隣村からフジの遠縁にあたる女を後添いにもらっていた。
名を小夜といった。
二人の間には、子がすでに三人あった。
上が男で、下の二人が女だ。
末娘はまだその年の初めに生まれたばかりだった。
フジと縁つづきだから、ということだけが理由ではないだろうが、小夜はフジととても馬が合った。
愛想がいいのが取り柄で、村のつきあいもそつなくやってくれていた。
小夜が来てくれてから、正吉の家には笑い声が絶えなかった。
春、花祭りの日。
正吉は家族皆を連れて野に出かけることにした。
小夜は初め、まだ首の座らない末娘と家に残ると言っていたが、上の子二人にせがまれて一緒に出かけることになった。
フジと小夜は誘い合い、早朝から起き出して、三段の重箱一杯に食べ物を詰め込んだ。
とりたててご馳走などない。
日頃食べているものを、ただ箱にきれいに並べて詰めただけだった。
けれど、それでさえ、贅沢な気分になれる。
道すがら、重箱を交替で持たされた上の二人は、端から上機嫌だった。
ちょうど妹の方が風呂敷包みの重箱を下げている。
底が地面につきそうだ。
「ほら、見つけた。あそこに黄色いお花。今度はお兄ちゃんの番!」
「だめじゃだめじゃ。そんな小さいんじゃ、代わってやらぬ」
「そんなのひどい」
妹がべそをかきはじめる。
黄色い花を見つけるごとに、重箱を持つ番を代わる約束らしい。
嘘泣き、嘘泣き。
と囃しながら兄の方は先へ逃げていく。
その足音に驚いた小鳥の群れが草むらから一斉に飛び立った。
その先には真っ青な空が広がっている。
この年の卯月八日もまた晴れた。
毎年、この日は晴ればかりだ。
万年床で寝ていた数年で、正吉はそのことに気がついた。
それまでの記憶を振り返ってみても、それから後の数年も、正吉が覚えている限り、卯月八日は必ず晴れた。
最初のうちはただの偶然だと気にしなかった。
けれど、あの光を見て納得がいった。
その光に正吉が初めて気づいたのは、咲が死んだ翌年の花祭りの日の午後だった。
正吉は庭の桜をぼんやり眺めていて、そのうちうたた寝になった。
昼までは咲の墓の前にいた。
そこでずっと待っていた。
けれど咲は来なかった。
それで、他にすることもなく、山を下り家に帰って縁側に寝っ転がることにした。
やはり天気はよかった。
そして、咲の夢を見た。咲は野で花を摘んでいた。
正吉に気づくと、大きく手を振りながら、正吉の名を何度も何度も呼んでくれた。
やっと会えた。やっぱり会えた。ああ、よかった。
と思った途端に目が覚めた。
その時、光を見たのだ。
何かが桜の枝先できらりと光った。
つづいて、あちらでもこちらでも次々に煌めきが走った。
それを合図のように、一斉に桜の花が咲いた。
すべてがほんの一瞬のことだった。
正吉はまだ夢を見ているのかと、何度も目をこすった。
次にその光を見たのは、またその翌年の花祭りの日のことだった。
今度光ったのは、正吉の家の桜だけではなかった。
まだ咲ききらない山の桜が、正吉が目をやると、きらりと瞬いてたちまち満開になった。
正吉は、咲が生まれた時のことを思い出した。
その日がとても穏やかで、暖かな日だったということも。
……それで、分かった。
一年のうちでこの日だけ、正吉の声は桜に届く。
花を見たいと願えば、桜はそれを叶えてくれる。
卯月八日には、いつもこの思い出が繰り返される。
晴れ上がった空の下で、桜の花は光とともに咲きはじめる。
人がその思い出を忘れても、野や山はいつまでも覚えている。
正吉が家族と野に出かけたこの日も、やはりそれは変わらなかった。
春の日射しが降り注いでいる。
蝶や蜂は蜜を集めるのに忙しい。
抜けるような青い空には、綿雲が二つ、三つ、のんびりと浮かんでいる。
正吉は花盛りの野に、ござを敷いて座った。
小夜もフジも一緒に座った。
末娘はねんねこに包まって寝息をたてている。
陽が当たらないよう、フジが陰を作ってやっている。
子供たちは落ち着いて座ってなどいない。
先ほどの喧嘩をまだつづけている。
はしゃぎながら走り回っている。
「何だか、こんな日が前にもあったような気がする」
「そうでしたか?」
正吉の言葉に小夜はそう応え、少し怪訝な顔をする。
家族みんなが揃って野に出るのはこれが初めてだ。
「正吉がまだ幼かった頃、一度、お前の父ちゃんや弟たちと一緒に遊びにきたなぁ」
フジが懐かしそうに言う。
「あの頃は食うものなどろくになかったから、一つの芋をみんなで取り合いっこしたもんだ。覚えてないか? 正吉」
フジはあきれ顔になった。
そうか、そうだったかも知れない。
子供の頃のくらし向きは本当に惨めなものだった。
いつも腹を空かせていた。
くたくたになるまで働かされた。
父にもひどく叩かれた。
けれど、今は違う。
辛い昔のことなど、わざわざ思い出すこともない。
そんなことはすっかり忘れた。
そこから逃げ出すために、一心に働いてきた。
正吉は大きなあくびを一つする。
咲を失った痛みも同じことだ。
みんなどこかへ捨て去ってしまった……。
そう、この日遊びに来た野の傍らに、咲の墓を作ったことさえ忘れかけていた。
いや、忘れたつもりになっていた。
正吉は上の二人の子に声をかける。
二人はとうとう取っ組み合いの喧嘩をはじめた。
「いいか、向こうにあるあの桜の木、よく見ておいで」
正吉の指さす先に山桜があった。
枝先にいくつかほころびかけた蕾がついていた。
フジと小夜もそちらに目をやる。
「そら!」
正吉の声とともに山桜の木は光に包まれ、そして見る間に満開の花を咲かせた。
「すごいすごい」
みんな大喜びだ。
フジまでが手を叩いて浮かれている。
「ねえ、どうやったの? あの光は何? どうして咲いたの? もう一回見せて」
子供らが正吉にまとわりついてくる。
小夜が正吉の手を取る。
子供らの手、小夜の手、それらの先から温かいものが伝わってくる。
それは、正吉の心を熱く満たした。
「小夜、見ていてごらん」
正吉は、今度は遠くの山に顔を向ける。
すると、その山のそこかしこから光が溢れ、山は花で一杯になった。
やがて野も山も、近くも遠くも、すっかり薄紅色に染まってしまう。
小夜はとろけそうな笑顔になった。