森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

空知らぬ風 (創作短編小説) 5/5(結)

 
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※初めてご訪問くださった方がいらっしゃいましたら、今回の記事は連載途中です。1回目はこちらです。 よろしくお願いします。

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今回は最終回です。 

 

 

 

 

空知らぬ風

 

 

 

不意に、風が通り過ぎた。

 

風は皆が座っているござの端を煽るほど強く吹いた。

重箱がひっくり返され、食べ物がぶちまけられた。

風はその次に、黒雲を連れてきた。

雲は陽を遮り、野山はたちまち薄闇に沈んでいく。

正吉の耳に何かが届いた。

人の声のようだ。

聞き覚えのある声だ、と思った途端、正吉はその声の主に思い当たった。

 

――本当は忘れないで欲しかった。

花祭りの日一日だけでも、咲のことを想っていて欲しかった――

 

その声は悲鳴となり、やがて風のうなり声に変わっていった。

風に急かされた花びらが宙を舞う。

桜がどうして咲くのか、この不思議な力の持つ意味を正吉はずっと前から知っていた。

けれど、考えないようにしていた。

そうしなければ、そして、咲と暮らした日のことを忘れてしまわなければ、別の女に心を移すことなどできなかった。

この日、正吉はこの不思議な力を、その別の女の笑顔を見るために使ってしまった。

風が轟々と叫びつづける。

次から次へと立ち現れる雲が厚く空を覆っていく。

 

正吉さん……。

 

咲の深いため息が空を渡る。

そして、それは山を這い、森を抜け、野を駆け巡る。

咲いたばかりの桜の花を一気に散らせ、散った花びらを巻き込んで、さらに走りつづける。やがて、正吉を見つけると、その頭上で大きく渦を巻きはじめた。

辺りはもう何も見えない暗がりである。

小夜もフジも子供たちもどこかへ消えてしまった。

いや、ひょっとして初めから誰もいなかったのかも知れない。

 

正吉は空を仰ぎ見る。

きらりと光ったものがあった。

その光った場所から、花びらが落ちてきた。

その隣でまた光が見えた。

また、花びらが散ってくる。

きらりひらり、きらりひらり、あちらこちらで瞬きはじめ、それにつづいて花びらが舞い降りてくる。

ああ、まるで雪のようだ。

正吉はいつか同じ光景を咲と二人で眺めたことを思い出す。

唐突に、心に浮かんだものがあった。

 

桜の花が、きらりと光る。光った拍子に……、赤子が生まれてくる。

 

花びらの渦は今にも弾け飛んでしまいそうなほど、ますます層を厚くして激しく巻いている。

やがてついに、渦の目はひときわ大きく閃光を放つ。

その光の中から花びらの群れが連なって降りてくる。

それは、正吉を差して一目散に走り落ちる。

正吉の身体を、幾万片もの花びらが襲う。

払っても払っても、手に負えない。

花びらは正吉の目を閉ざし、鼻を覆い、口を塞ぐ。

息を吸い込もうと開けた口に、花びらがさらに襲いかかる。

すぐに口の中は花びらで一杯になる。

吐き出しても、飲み込んでも、きりがない。

 

花びらは正吉の身体にへばりつき、みるみる厚みを増していく。

それはやけに温かい。

正吉はそのまま身を任せる。

意識が少しずつ遠のいていく。

 

ああ、産声が聞こえる。

元気な泣き声だ。

 

正吉はもう身じろぎもしない。

 

 

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