※初めてご訪問くださった方がいらっしゃいましたら、今回の記事は連載途中です。1回目はこちらです。 よろしくお願いします。
今回は最終回です。
空知らぬ風
不意に、風が通り過ぎた。
風は皆が座っているござの端を煽るほど強く吹いた。
重箱がひっくり返され、食べ物がぶちまけられた。
風はその次に、黒雲を連れてきた。
雲は陽を遮り、野山はたちまち薄闇に沈んでいく。
正吉の耳に何かが届いた。
人の声のようだ。
聞き覚えのある声だ、と思った途端、正吉はその声の主に思い当たった。
――本当は忘れないで欲しかった。
花祭りの日一日だけでも、咲のことを想っていて欲しかった――
その声は悲鳴となり、やがて風のうなり声に変わっていった。
風に急かされた花びらが宙を舞う。
桜がどうして咲くのか、この不思議な力の持つ意味を正吉はずっと前から知っていた。
けれど、考えないようにしていた。
そうしなければ、そして、咲と暮らした日のことを忘れてしまわなければ、別の女に心を移すことなどできなかった。
この日、正吉はこの不思議な力を、その別の女の笑顔を見るために使ってしまった。
風が轟々と叫びつづける。
次から次へと立ち現れる雲が厚く空を覆っていく。
正吉さん……。
咲の深いため息が空を渡る。
そして、それは山を這い、森を抜け、野を駆け巡る。
咲いたばかりの桜の花を一気に散らせ、散った花びらを巻き込んで、さらに走りつづける。やがて、正吉を見つけると、その頭上で大きく渦を巻きはじめた。
辺りはもう何も見えない暗がりである。
小夜もフジも子供たちもどこかへ消えてしまった。
いや、ひょっとして初めから誰もいなかったのかも知れない。
正吉は空を仰ぎ見る。
きらりと光ったものがあった。
その光った場所から、花びらが落ちてきた。
その隣でまた光が見えた。
また、花びらが散ってくる。
きらりひらり、きらりひらり、あちらこちらで瞬きはじめ、それにつづいて花びらが舞い降りてくる。
ああ、まるで雪のようだ。
正吉はいつか同じ光景を咲と二人で眺めたことを思い出す。
唐突に、心に浮かんだものがあった。
桜の花が、きらりと光る。光った拍子に……、赤子が生まれてくる。
花びらの渦は今にも弾け飛んでしまいそうなほど、ますます層を厚くして激しく巻いている。
やがてついに、渦の目はひときわ大きく閃光を放つ。
その光の中から花びらの群れが連なって降りてくる。
それは、正吉を差して一目散に走り落ちる。
正吉の身体を、幾万片もの花びらが襲う。
払っても払っても、手に負えない。
花びらは正吉の目を閉ざし、鼻を覆い、口を塞ぐ。
息を吸い込もうと開けた口に、花びらがさらに襲いかかる。
すぐに口の中は花びらで一杯になる。
吐き出しても、飲み込んでも、きりがない。
花びらは正吉の身体にへばりつき、みるみる厚みを増していく。
それはやけに温かい。
正吉はそのまま身を任せる。
意識が少しずつ遠のいていく。
ああ、産声が聞こえる。
元気な泣き声だ。
正吉はもう身じろぎもしない。