森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

名は体を表す。ヒメオドリコソウとホタルブクロと子供の名前。

 
 
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昨日の土曜日の朝。

穏やかに風が渡り、初夏を思わせる陽射しが降り注いでいました

午後から日曜にかけてお天気が崩れるとの予報でしたので、わたしは目が早く覚めたこともあり、朝のうちから庭に出ました。

ブルベリーの花が満開です。

花の匂いがハチたちを誘っているようです。

雨が近づくのを知っているのか、ハチたちは早い時間帯から一生懸命飛び交っていました。

羽音がうるさいほどです。

ちょうど真ん中あたりのブルーベリーの花にハチがとまっています。

いえ、ぶら下がっています。

見えますか?

美味しそうに蜜を吸っています。

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ハチたちが蜜を吸い、せっせと花粉を運んでくれたら、今年もまた美味しいブルーベリーがたくさん実ります。

ブルーベリーの白い花を通してハチとわたしたちは繋がっている。

そう感じました。

 

先週の記事です。

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そのなかで、

たとえばこんな花も咲いています。
淡い紫色の小さな花です。
去年トマト畑だった場所に、収穫した後びっしりと生えている野草の花です。
名前は知りません。

と書きました。

 

こんな野草です。

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higanzakura109(id:higanzakura109)さんがその名前を教えてくださいました。

名知らずのままに愛でる蜜月。花に名を与えての蜜月。山猫さんと共に源氏の君ごっこ。ヒメオドリコソウ。多分。 

ありがとうございます(^_^)

ネットで「ヒメオドリコソウ」を検索すると同じような写真が何枚もヒットしました。

ヨーロッパ原産の帰化種のようです。

名前がつくと急に身近に感じられます。

姫踊り子草。

漢字で書くとさらにイメージが膨らんできます。

確かに、踊り子さんたちの立ち姿に見えてきました。不思議不思議。

揃いの緑の衣装を着て群舞する賑やかな音が聞こえてきそうです。

彼女たちの遠い祖先は明治の頃、長い船旅の末、東の果てにあるこの国にたどりつき、根を下ろし、疲れを癒し、そして子孫を増やしたのですね。

 

猫月さん (id:necozuki299)からはこんなコメントをいただきました。

淡い紫色の小さな花のヤツ猫月さんは
お化け草って呼んでた!
花がお化けみたくない?
 

お化けと言われればそんなふうに見えなくもありません。うーん、やっぱり不思議不思議。

緑に変色した無数のゾンビたちが身体を左右に揺らせながらこちらに迫ってくる様子にも見えてきました(^^;

名前って大事ですね。

 

ちなみに、

大根の花はあれから一週間でこんなことになってしまいました。

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大根畑ではなくて、こうなればもう、ただのお花畑です。

この花が受粉して実がついて、そこから大根がぶらりと生えてくる様子をわたしは想像しました。

風に吹かれて大根が何本も揺れています。

食べごろに育ったものを選んで茎との付け根をハサミでチョキンと切り落とすと、夕飯の味噌汁の具に使うための大根をわたしはキッチンに運びます。

「大根の花」と呼ぶからそんなイメージが湧いてくるのです。

ブルーベリーの花にはブルーベリーの実がつくし、トマトの花にはトマトが実り、大根の花には大根が実ってもいいような気もします、、、(^^;

名前って、言い方って大事です。

 

野草の名前のことで、以前、同じようなことがあったのを思い出しました。

ホタルブクロです。 

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こんな花です。

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去年の7月初旬の写真です。

名前を知るまでわたしはこの花に目も留めず、邪魔者扱いして容赦なく引き抜いていました。

名前を知って後悔しました。

ホタルブクロと言うのです。「火垂る袋」と書くのです。

夜の闇の中、妖しく光るホタルブクロを思いました。

そして、もう二度とホタルブクロは抜かない、と強く決心しました。

名前って本当に大事です。

 

 

子供がうまれてくると分かったときのことを思い出しています。

上の子供のときのことです。

うまれてくるのは初夏、性別はおそらく男の子、とのことでした。

うまれてくる子供への最初の贈り物のひとつは、名前を付けることです。

命名する、と言います。

名前を付けることは命を吹き込むことなのです。

誰からも愛される、親しみやすくて覚えやすくて、でもよくあるものじゃない、個性のある名前を付けてあげたい。

親になる人はみんな同じことを思うのでしょう。

名前の音(読み方)にこだわり、字にこだわり、意味にこだわり、画数にこだわり、悩み始めるときりがありません。

名は体を表す、と言います。

花の名前は確かに「体」を見てから付けられます。

だから付けるのは簡単と言えば簡単です。

ですが、それと違って、人の名前は先に付けられるものです。

どんな子供なのか分からないうちに付けるのです。

名付けるのが先なので、名前が「体」を表しているはずはありません。

どんな人になって欲しいのか、願いをこめて付けるのです。

自分のことを振り返りつつ、子供たちのことを考えてみると、やはり名は体を表しているように思えてなりません。

子供は自分の名前にこめられた願いをくみ取り、そうなろうとして成長するのでしょうか。

それとも、人はこの世に生まれてくる前から意味を持っていて、その意味をくみ取って親がそれを名前に付けるのでしょうか。

 

上の子には「M」と付けました。

いろんな理屈を考えて音(読み方)を決めました。

そして、「人が集まる、人を和ませる」という意味を持つ字を当てました。

先日大学生になったばかりのMのこれまでの人生を傍で見てきて、Mのこれまでの友人たちの表情を思い出してみて、名は体を表している、と言う言葉の意味を考えています。

決して強い個性を持っているわけではありませんが、仲の良い友達に恵まれ、感情を昂ぶらせることがほとんどなかったM。

 

 

人は自分の名前のような人になろうとして生きるのかもしれない。

そう思います。

 

 

 

 

 

 

  
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山猫@森の奥へ
似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。