26年前、わたしは神戸市兵庫区で震度7の揺れを経験しました。その記憶を日記とパソコン通信のログとで振り返っています。あの日から15日目です。
1月31日(火)
S水さん(※遠縁のおばさん)宅のアパートの被害もひどく、おっちゃんとおばちゃんは会下山のすぐ傍にある東山小学校(※現夢野の丘小学校)に避難している。
僕が大学時代に住んでいたS水さん宅の隣りにあるアパートは、もう住める状態ではない。
10時半頃、避難されている教室を訪ねてみるが、S水のおばちゃんは不在。昼前にもう一度小学校に行くがやはり留守。
後で訊くと、物資の配給があったので、湊川公園で並んでいたとのこと。
昼食はおでん。昼寝する。
18時、D本先生(※前任校の同僚)より電話。
18時半、南蛮美術館の事務長より電話。明日の昼、連絡をとって欲しいとのこと。
19時、車でD本先生のアパートに向かう。その後、屋辺氏のマンション(※須磨区・名谷)へ。お風呂と夕食をごちそうになる。話好きで可愛らしい奥さん。
※わたしが大学時代に住んでいた6畳一間のアパートは兵庫区湊川町にありました。戦前に建てられた古い木造アパートでした。大きく崩れて人が住める状態ではなくなっていました。地震が数年早く起きていたら、わたしはそのアパートの柱かなんかの下敷きになっていたかもしれません。
アパートから引っ越したのは、病気で倒れた実家の父を神戸に呼び寄せ、母、弟と一緒に家族4人で暮らすことにしたからでした。家族4人で暮らして1年ほどで父は亡くなりましたが、もしその父が病気にもならず元気でいたなら、わたしは地震のときもまだそのアパートに住んでいたかもしれません。
※下のリンクは震災当日の記録です。
※今日はもう一つ記事を投稿しました。よかったらご訪問ください<(_ _)>