森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

震災通信(阪神淡路大震災体験記) ***その日***

 
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 長男Mと次男Kへ。

 この街をあの大地震が襲った日、長男Mも次男Kもまだ生まれてはいなかった。それどころか、私はまだ君たちの母親となる女性と出会ってさえいなかった。彼女と知り合うのは地震の翌年の春のことだ。

 震災の記憶は今も鮮明に脳裏に焼き付いている……
 と、調子よく話し始めたいところだが、私は本当に物覚えがよくなくて。あの日のことも、あの日に続いて私の周辺で起こった様々な出来事も、断片的にしか覚えていない。
 先日
(※16年前のことです)、古いパソコン(※NECの98シリーズです、、、)をいじっていると、ハードディスクの中に、震災の直前に始めたばかりだったパソコン通信のログ(通信記録)と、震災後しばらくつけていた日記のデータを見つけることができた。読み返してみると、十年も経たない今でさえ、もはや意味の汲み取れない記述がいくつもあった。放っておくと、この先どんどん忘れていく一方に違いない。だから、その断片のいくつかを繋ぎ合わせることができる今のうちに、それを書き留めておこうと思う。

 戦後生まれの私にとって、あの大震災の場に立ち会ったことは、これから先、この国が再び戦禍に巻き込まれる、というようなことでも起こらない限り、一生のうちできっと一番大きな出来事であるに違いない(※コロナ禍の今でさえ、わたしにとって一番大きな出来事はあの大震災だったという思いは変わっていません)
 震災のことは、本当は、君たちがもっと大きくなって、君たちが暮らすこの街に、深い関心を抱いてくれるようになってから話すつもりでいたが、その時まで記憶を保っていられる自信はないし、私自身にも、この先何が起こるか分からないしね。

 地震の最初の揺れは、兵庫区の会下山で味わった。当時、私は母と、――君たちにとってはおばあちゃんのことだ。私は母と二人暮らしをしていて、その会下山の中腹辺りに住んでいた。父、――おじいちゃん、が亡くなった病院のすぐ傍の建て売りを買って六年ほど経った頃だった。
 妙なことを言うが、私は父が死んでからも、誰かと待ち合わせでもしているような所在ない顔をした父が、その病院の入口に立っているのを何度か見かけた覚えがある。たいていは私が車を運転してその前を通り過ぎる時で、視界の片隅を父の姿が一瞬横切るだけでしかなかったけれど。
 で、家のことだ。あいにく当時のわが家から直接海は望めなかったが、二階のベランダからは、毎年夏に打ち上げられる港の花火がよく見えたものだ。
 私は大学に入って神戸で一人暮らしを始めて以来四回引っ越した。会下山から引っ越した次の灘区の家で長男Mが生まれ、そしてもう一度引っ越したこの家で、次男Kが生まれた。
 ついでに言えば、会下山の前に住んでいた同じ兵庫区の松本通の借家は、両親と私と弟、――K佑おじさん、の家族四人で暮らした最後の家になった。父はすでに残りわずかな余命を宣告されており、やはり神戸で勤めていた弟・K佑おじさんと一緒に、その父と母とを郷里
(※兵庫県の山間部です)から呼び寄せて、家族で過ごすために借りた家だった。あの家は震災後の火事で半焼になった。

 長男Mが生まれたのは五月十日で、その前日が父の命日だ。そして、あの地震から八年が経ち、地震が起きた前の日にあたる一月十六日に次男Kが生まれた。ただの偶然でしかないが、君たちの誕生日のことを思うと、そこに何か意味があると考えないではいられない。ま、そんな因縁めいた話はどうでもいいか。
 会下山の家は今もあの頃と同じままで、まだあそこにあるはずだ。その家で私は、二十代の終わりから三十代の半ばまでを過ごした。いつかのぞいてみたいと思いながら、引っ越してからもう長く訪ねていない。そこの住所がうちの家族みんなの本籍地だ。
 家から会下山をもう少し登ったところに女子校があって、うちのすぐ前を通る細い路地が通学路に当たっていた。朝夕の登下校時は、女子高生たちのおしゃべりの声でずいぶん賑やかだった。
 その路地は倒れてきた何軒もの家に塞がれて奥は行き止まりになってしまった。地震から当分の間は、大通りから私の家の前まで入るのでさえ、傾いた家がいつ頭上に崩れ落ちてくるか、何度も確認しながらそこを走り抜けたものだ。
 地震の起こった時刻がもう何時間か後ろにずれていたらどうなっただろう。ちょうどその路地を私が歩いていたところだったかもしれないし、通勤途上の地下鉄に乗り合わせていたところだったかもしれない。私と同じことをきっと何十万、何百万の人が想像してみたに違いない。
 偶然が生死を決める。神が運命を決めたりすることがない以上、それが当たり前のことだ。多すぎる死に遭遇して初めて、私たちはそのことに改めて気づかされる。
 でも、それだけじゃない。偶然は生も決めてくれる。おそらく地震に遭わなかったら、私は君たちの母親と出会うことはなかっただろう。出会いだって偶然だ。でも、それを意味のあるものにできるかどうかは、決して偶然なんかじゃない、そう思う。
 そうだ。君たちの母親とは、結婚してしばらくはその家で一緒に暮らした。正確に言うと、私がそこに住んでいて、彼女は仕事のこともあって大阪の実家から週末だけ神戸に通ってきていた。だから、本籍地をあの住所にした。一つには私たち家族の出発点であるという意味で、もう一つは震災を体験した場所だからという意味で。
 家族といって思い出すのは、義母、――大阪のおばあちゃん、から聞いた言葉だ。あれは長男Mが生まれてすぐのことだったと思う。私たち夫婦を前にして、たぶん長男Mも一緒だったはずだが、義母はこんなことを話した。
 これであなたたちもやっと家族になれましたね、と。
 夫婦じゃなくて家族。この言葉はあまりに素直で飾り気がなくて、だからこそドキリとするほど心地よく私の心に届いた。胸が熱くなって、私の身体の中に君たちの母親に通う血潮が勢いよく流れ込んできたような気さえした。
 いや、話がそれた。ごめん、いつもこうだ。

 平成七年一月十七日――の地震、あの地震で六千五百人近い人が亡くなった。会下山は市内でも特にひどい揺れに襲われた地域だ。長田から会下山の南麓にかけては火事にもやられた。にもかかわらず、私自身は怪我一つしなかったし、家はいくらか傷んで半壊に判定されたが、少し補修すれば住むことくらいはできた。家のローンの大半が残っている上に、さらに修理代まで借りないといけなかったのはけっこうきつかったが、それを苦にしないだけの若さはあの頃の私には、まだあった。
 地震当夜、避難所になった近隣の学校に避難しなくても自宅で寝ることができたし、迫ってくる火事の恐怖に襲われることもなかった。第一、あの地震で亡くなった人が私の身近にはいなかった。知人にも、知人の縁者のなかにもいなかったし、近所であれだけ多くの方が命を落とされたのに、その亡骸を直接この目で見ることもなかった。
 いや、一度だけ亡くなった人を見た。何日か経ってからだった。ポリタンクに水を汲んで家に戻る途中のことだった。ヘリコプターの爆音が近づいてきて、その先を見ると、青いビニールシートにくるまれた細長い何かを瓦礫の中から自衛隊の人たちが運び出すところだった。大きさからしてあれはたぶん亡骸だったろう。
 でも結局私は、本当の意味であの地震のひどさを見知ったわけではない。ただ、地震の様子を、ほんのすぐ傍で見ることができた、というだけだ。いや、そんな冷静なものでもないか。それどころか、地震の騒動が落ち着くまでの当分の間、私は不謹慎にも、、、異様な気分の高揚の中にいた気さえする。まるで異次元の世界を冒険する時のような、ワクワクした気持ちにどっぷりと浸っていた……。
 あの当時は一月十五日が成人の日だった。それが日曜と重なったから、翌月曜日は振り替え休日になっていた。三連休三日目の十六日の夜、余震があった。いや、あれは余震とはいわないか。前触れがあった。布団に入っていた時間帯だったはずだ。かなり大きく揺れて、これはきっと明日のニュースで話題にするだろうな、と頭の隅でちらりと考えたのを覚えている。

 

 そして十七日の朝だ。

 まだ寝ていた。けれど、揺れが来た時にはもう起きていた。五時四十六分――の数分前か、数秒前か、地鳴りを感じた。それが伝わってくる気味悪い気配で目が覚めた。方角は分からなかった。でも、それが遠くの方からものすごい速さで迫ってくるのが感じられた。あまりにも異様な感覚だった。そのことと前夜の余震とが結びついた。これは地震だ、と直感した。そしてすぐにあれがやってきた。
 縦だか横だか、とにかく激しく揺れた。いや、自分の身体が揺れているという実感はなかった。部屋に置いてあったローボードの上のテレビやステレオが飛び跳ねて大きな音をたてた。ローボード自体も飛び跳ねていたんだと思う。それとも家全体が跳ねている音だったかもしれない。カタカタと妙に軽快な音が聞こえていた気もする。雨戸を閉めていたせいで部屋はまだ暗かったから、その踊る様子は見えなかった。ただ激しい音だけがしていた。それが一番印象に残っている。
 自分の部屋にあったのがローボードじゃなくて、背の高い洋服ダンスだったりしたらどうだったろう。あの揺れの直後、そうした大きな重い家具の下敷きになって亡くなった人が何人もいたのだ。いや、何百人、何千人もいたのだ。私が助かったのは本当にただの偶然だ。だって、他の部屋には大きな家具はいくつもあったし、それらはバタバタと倒れ、飛び出した引き出しが床の畳に突き刺さっていたし、防災を考えて自分の部屋にそれを置かなかったというわけでもなかったし。……考え始めたらキリがない。でも、あの時はそんなあれこれを考える余裕なんてなかった。えらく長く揺れるなぁ、と漠然と思っていただけだった。
 とにかく、幸いにも私の部屋には大きな家具はなかった。不安定なものと言えば、デスクトップのパソコンがあったが、あれはラックの下にローラーが付いていたから、転がって動いただけですんだ。
 地震から何日か停電していたから、個人的な一番の心配事といえば、家のことなんかじゃなくて、パソコンのハードディスクの中のデータのことだった。パソコン本体ならまた買い直すことができる。でも中身が消えたら戻ってこない。と言っても、ハードディスクに入っていたのは、メールや手紙のほかには、ゲームとか音楽とかのデータくらいしかなかったはずだ。そんなもののことを、私は地震直後の神戸のど真ん中で、暢気に思い悩んでいた。
 後で分かったことだが、わが家は、築後まだ日が浅かったせいもあってか、被害はそれほどひどいものじゃなかった。屋根瓦がずり落ち、しばらくは雨漏りもしたが、二階の部屋の内装は家具が倒れたのを除けば、ほとんど傷んでいなかった。一階は揺れの力がより強く作用したからだろうか、石膏ボードをはめ込んだ薄っぺらい壁が剥がれてしまい、外壁には何カ所もひび割れが入った。でも、それだけで済んだ。

 ……ああ、最初の揺れが襲ってきた時の話だった。
 揺れの最中、何かが上から落ちてきて、身体に当たった。私は掛け布団を頭まで被ってそれを受け止めた。
 降ってきたのは衣装ケースだった。それ以外にも押入の天袋に入れていたのが、襖を跳ねとばして落ちてきた。次々に落ちてきて、布団越しに重いものが身体に当たるのが分かったが、痛みは感じなかった。しばらく布団の中でじっとしていて、さあ、どれくらいそうしていたか。やがて静かになった。すべての音がぴたりとやんだようだった。

 その辺から記憶が途切れている。たぶんすぐに雨戸を開けて外を見たと思うが、見たはずの外の景色を覚えていない。私の寝室は二階にあって、その部屋の窓は東に向いていたから、湊川公園(※自宅東側数百メートル先、兵庫区役所や消防署が立地している)の方角が見渡せたはずだ。でも、その角度では倒れた家は見えなかったのかもしれない。だから覚えていないんだろう。それとも、まず一階に下りていったのかもしれない。
 階段を下りると、すぐ先が玄関になっている。その玄関のドアが外れていた。ドアのサッシごと外れていた。外から光が差し込んできていて、それで辺りがすでに明るくなっているのが分かった。
 用心しながら外に出ると、向かいの家がぺしゃんこに潰れていた。ずいぶん古い木造の家屋で、たぶん空き家だと思っていたから、あれくらい揺れれば、そりゃ倒れるのも仕方ないな、と軽く思ったものだ。家が壊れるとこれほど小さくなるものなんだ。私は妙なことに納得しながら、その残骸を見ていた気がする。後で聞くと、人は住んでいたらしい。家の人が逃げ出した直後にそれが潰れた、という話も誰かから聞いた。だから、私が屋外に出たのは、地震からかなり時間が経った後だったのかもしれない。
 妙な匂いが漂っていた。ガス漏れじゃない。あまりに場違いだけど、それはアルコールの匂いだった。ほんのり甘くていい匂いがしていた。きっとどこかの家のサイドボードに置いてあったとっておきのウイスキーかブランデーのボトルが割れたんだ。そうに違いない……。やはり暢気に、私はそんなことを考えていた。
 その後、私は一度、部屋に戻る。パジャマ姿のままだったから、着替えようと思った。でも考え直して、パジャマを脱がずに、その上にジーパンとトレーナーを重ね着して、スキーウェアもさらに着込んだ。スキー用のグローブも持った。さほど寒さは感じなかったが、無意識のうちに長期戦を覚悟していた。
 スキーウェアの内ポケットに、財布と父、――君たちのおじいさんの位牌を入れた。家にヘソクリなんて隠してなかったから、その財布がその時の私の全財産だった。位牌の方は、何かあった時にはこれだけは頼むよ、というのがかねてからの母の言いつけだった。今から考えれば、何重にも重ね着したあの格好で、私は地震から二、三日は過ごしたように思う。
 位牌を取りに入った二階の仏間は、線香の灰が飛び散って一面真っ白になっていた。仏壇は倒れてひどくへしゃげていた。母、――おばあちゃんの家に今も置いてある、あの仏壇だ。いまだに蝶番が歪んだままだろう? そうそう、あの日、母は留守だった。介護の仕事で、入院した患者さんに付き添って病院に泊まっているはずだった。
 仏間に転がっていた蝋燭とライターも一緒にポケットに突っ込んで、もう一度家の外に出た。その時はすでにラジオを聴いていた。テレビのスイッチは入れた覚えがない。電話にも触れなかった。どちらも、それが機能するなど端から考えなかった。ついでに言えば、出勤のことすら、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。こんな状況の中で社会生活がいつも通り機能するはずなんてない、と無意識のうちに思っていたのだろう。それとも、仕事のことを忘れてしまうほど気が動転していたのかもしれない。
 ラジオからは朝のパーソナリティが地震の状況を伝える緊迫した声が聞こえてきていた。声は堅くぎこちなかった。けれど、地震のひどさを推し量ることができたのはそんな声の表情からだけで、大阪のラジオ局の情報でさえ、思うように状況を把握できないもどかしさが感じられた。
 震源地の場所も、地震の規模もよく分からない。尼崎
(※兵庫県の一番大阪寄りに位置しています)辺りで家が何軒か倒壊しているとか、怪我をした人が何人かいるとか、伝えられている内容が、大阪のごく限られた地域のことでしかなくて、自分の眼前にある光景とのギャップに馬鹿らしいほどの違和感を覚えた。自分の目で確かめたことしか信用しちゃいけない、格好良く言えば、そんな思いを強くしただけだった。
 外には隣家の夫婦も顔を見せていた。大変なことになりましたね、としゃべったと思う。話のついでに蝋燭を分けて何本か渡した。他にも何人かが外の様子を伺っていた。見ると、向かいの家の奥に、もう一軒家が潰れているのが分かった。向かいの家が倒れて、その奥が見通せるようになったから見えた景色だった。近所の誰かが、あそこには老夫婦が住んでいたんじゃなかったか、と呟くのが聞こえた。
 私はとりあえず必要なものはすべて身に付けている。行ってみることにした。ドアが外れたままだから、家の戸締まりを気遣う必要もなかった。地震の後しばらくは、多くの家で似たようなものだったんじゃないだろうか。
 崩れ落ちたその家の玄関辺りに回り込み、声をかけてみた。こんな状況なのに、やはり玄関にこだわるものなんだ。今思い返すと、なんだか笑える。不意に、少し変わったイントネーションの声が返ってきた。潰れた家の屋根の上からだ。確か、こっちに来てください、と僕を呼ぶ声だった。
 屋根によじ登るのは簡単だった。ほとんど瓦礫の山みたいなものだったからね。登っていくと、上にいたのは外国の人だった。この下です、と彼は言ったと思う、……片言の日本語で。それから一緒になって、瓦を押しのけて、屋根板を剥がし始めた。スキーのグローブがずいぶん役に立った。木造の家なら人の手だけでも何とかできてしまうものだ。
 しばらくして、瓦礫の下から声が聞こえてきた。うまい具合に空間があって、そこに老夫婦がいるのが確認できた。おばあさん、おじいさんの順に引き上げた。どちらも怪我はないようだった。おばあさんは薄着だったから、後で家からセーターを取ってきてそれを渡した。あれは返してもらえなかったが、まあ、それはいい。
 そこで初めて、私たちは名乗り合った。センノ、と彼は自分を指して言った。そう聞こえた。お国までは訊かなかったが、ヨーロッパ系の人だった。
 近所に川崎重工業の宿舎があった。センノはそこに住んでいると言った。……ああ、日本語でしゃべってくれたよ。
 地震がおさまって窓から外を見ると、こちらの方角で家が何軒も倒れているのが見えた。それでやってきたんだ、と彼は説明してくれた。
 会下山一帯には傾斜地に建てられた家が多く、また古い木造の家も多かった。先の大戦で神戸の旧市街の六割以上が空襲で被災した中で、幸いにもあまり大きな被害を受けずに済んだ地域だった。今度はそれが禍した、、、のかもしれない。
 センノと二人で会下山を登っていくことにした。そこから先は、昨日までの見知った街じゃなくなっていた。大半の家が傷んでいる。私の家があった路地の一角に建つ数軒がたまたま無事だっただけで、どっちを向いてもまっすぐに立っている家などほとんどないくらいだった。崖の際に立っていた家など、家ごと崖下までずり落ちてしまっていた。見下ろすと、ひしゃげた空箱のような家が崖下に落ちていて、布団や食器や家具や、その中身が斜面のあちらこちらに散乱していた。
 たぶん倒れた家から辛くも逃げ出すことができた人だろう、瓦礫に向かって大声で、逃げ遅れた人の名前、きっと家族の名前に違いない――、を呼んでいた。
 事情を訊こうとしても、声をかける隙を誰も見せない。厳しい目付きで倒れた家を睨んでいる。あちらでもこちらでも、大変なことになっていた。
 ドアが潰れて開かない。バールや金槌、金属バット、ゴルフクラブ、その辺にあった棒っ切れ、で、叩き壊してこじ開ける。散乱した食器や木片を蹴飛ばして中に入る。ウイスキーの匂いなんてもうしない。ガスが漏れている。身体を屈めて入る。どこに頭をぶつけるか分からない。倒れた家具を持ち上げ、壁を蹴破って奥の部屋へ進む。声をかける。名前なんか知らない。誰かいませんか、誰かいませんか。返事はない。無事に逃げられたのかもしれない。その人の縁者でない私は、無事を期待してそれ以上足が進まない。そんな私を押しのけて、さらに瓦礫の中に入っていく人がいる。どこもかしこも修羅場だった。
 センノは、次から次へと倒れた家を見て回って、声をかけていく。誰も傍にいない倒れた家を見つけると中を探り、応援が集まると、すぐにまた別の家を探しに行く。何軒か一緒に回った。そのうち、私が一軒の家で埋もれた人を引っ張り出すのを手伝っている間に、別の場所へ行こうとするのが見えた。じゃあ、と片手を挙げるセンノの後ろ姿を目にしたのが最後だった、と思う。が、本当はそんなに格好いい別れじゃなかったのかもしれない。
 あの日はそうやって、家の瓦礫を掘り返したり、近所に住む知人の安否を尋ねて回ったりして過ごした。
 いつ頃家に戻ったのかよく分からない。覚えているのは、わが家の薄暗い一階のダイニングで、食器棚から飛び散ったお皿や茶碗の山と、中身を全部放り出してドアが開いたままだった冷蔵庫の前で、一人で座っていた情景だ。
 電話が鳴ったんだ。それで初めて電話が使えることが分かった。職場の上司からの安否を尋ねる電話だった。
 電話って使えたんですね、そんな間の抜けたことをしゃべった覚えがある。
 その後も何人かから電話があり、介護していた患者さんに付き添って病院に泊まり込んでいた母からもかかってきた。母も無事だった。翌18日、一度家に戻ってくるという。その時初めて気づいた。内ポケットに入れていた父の位牌がない。それを謝ると、受話器の向こうから、お父さんが身代わりになってくれたんだね……、と母の小さく震える声が返ってきた。

 

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震度7の分布(気象庁作成)

気象庁|「阪神・淡路大震災から20年」特設サイト

 

 

 

1月17日(火)
 ざーという不気味な地響きで目がさめる。直後、激しい揺れに襲われる。前夜軽い揺れを感じていたのですぐに地震だと判ったが、だからといってどうすることもできない。部屋中のものすべてが大きな音をたててダンスをしていた。
 まだ眠りの途中だった僕は、布団にくるまってやりすごすしかなかった。真っ暗な中、何かが降って来る。身体を丸くしてとにかく揺れがおさまるのを待った。
 午前中、いろんなことがあった。
 昼過ぎ、近所に住むS水さん
(※大学に入って一人暮らしをしていた時にずいぶんお世話になった親戚)とT深先生(※初任校勤務時代の先輩の先生)の家を訪ね、安否を確かめる。みんな無事。
 弟の家に電話する。奥さんのA美さんが電話に出た。弟が住む神戸市西区は被害はほとんどなく、無事とのこと。弟は東京に出張中で留守、明日神戸に戻ってくる予定。母からも、無事との電話があった。
 長田から兵庫にかけて、あちらこちらで火事が起きている。昼前から煙が出ていたのが鎮まらず、次第に広がっているとのこと。近所の何家族かは火事を恐れて湊川中学校
(※わたしが住んでいた地区の指定避難所)に避難していった。
 夕方、会下山
(※兵庫区の西隣・長田区との区境にある標高80~85mの山)に登り、火事の様子を見る。海を臨む南麓一面が野焼きのよう。ヘリコプターが何機も上空を旋回している。経験したこともないのに、空襲のようだと思う。夜空には満月。
 火事はわが家の方角には広がってこない。そう決めて、夜寝ずに家で過ごすことにする。
 日が暮れると、家の中は蝋燭の明かりだけが頼り。夕食は、カセットコンロで湯を沸かし、うまかっちゃん
(※当時好んで食べていたラーメン)2つ作って、キャベツを丸かじりする。蛇口から水は出ないが、汲んできていた須磨寺の霊泉(※当時常備していた、須磨寺近くから汲んできていた湧き水。数日経っても傷むことがなく、この水のおかげで水道が止まっても当面は困らなかった)がポリタンクに半分以上残っている。缶ビールと缶ジュースも箱で買ってきたのがまだかなりある。しばらく飲み水は保ちそう。
 浴槽に張ったままにしていたお風呂の水がある。トイレの水にはこれが使えた。
 万が一の時に備えて、貴重品をカバンに詰める。
 中学の頃から断続的につけていた日記帳3冊と、小説を書き留めたノート、レポート用紙の類。写真と年賀状の束、そしてパソコンの外付けハードディスクと家の権利証、貯金の通帳類。詰め込んだのはこれだけだ。

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イラスト/バリピル宇宙さん (id:uchu5213)