森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

気がついたら、いつの間にかわたしはわたしになっていた。

 
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価値観について。

 

価値観が自分という個性を作り上げる。価値観がわたしをわたしにする。

id:knoriさんの「これはリンゴではない」という記事を読ませていただいて、最初にそう思いました。

その記事では、リンゴの写真がまず目を惹きました。

美味しそうにテカテカと光っています。

けれど、「これはリンゴではない」とタイトルで断ってあります。

そして、記事の冒頭には「思考とイメージは垂直に交わる。」とあります。

knori.hatenadiary.jp

美味しそうなリンゴに見えるだろう?

だけど、あんたこれを食べられるかい?

食べられないなら、これはリンゴじゃない。ただのイメージでしかない…

思考とイメージを試されている? そう思いました。

 

コメントを書きました。

 気がついたら、いつの間にかわたしはわたしになっていた。

わたしはわたしという価値観を長い時間をかけて身につけた。

でも、この先わたしは、また違うわたしになっていく。

別の価値観を持ったわたしに変わっていく…

 

id:knoriさんはその次の「これは」という記事で返事をくださいました。

knori.hatenadiary.jp

記事の中には「わたしは、自分の中のある小さな感情を大事にする」「わたしの中のちっぽけな感情とは、あえて言えば、“美しいもの”、“善きもの”」だ、とありました。

そして、それは価値観とは「直感的に違う」と。

 

また、コメントしました。 

わたしはと言うか、誰もがかもしれませんが、なりたい自分がいます。

今のわたしはそのわたしにまだなれていない。

そう思うことも価値観のひとつかもしれません。 

 

読み返すと、わたしのコメントはずいぶんピントがずれていました(^_^;

id:knoriさんはイメージを大事にするところからものを観ようとされ、わたしは思考からものを捉えようとしている?

同じことを別々の言い方で表現しようとしているのか、そもそもが違うのか、禅問答のようです、、、

うまく書けません、ごめんなさい。

id:knoriさんの記事からどんどん離れていきますが、わたしはちょうど、価値観について考えていたところでした。

 

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前々回の「正論で人は変わらない、雰囲気が人を変える」という記事の中で、わたしはこう書きました。

 人は生きていくうちに、そして、生きていくために、何度も将来の自分の生き方を選ぶ局面を迎えます。
そこで失敗やら成功やらを積み重ねることで、その人なりの価値観を獲得していくのだと思います。
いつしか、その価値観はその人の処世術となり、生きる道筋となったりするのだと思います。
そうやって出来上がった一人の人間の価値観は相当な固さ頑なさを持っています。
そこには正しいも正しくないもないのかも知れません。
その人にとって自分が獲得した価値観こそがさまざまな局面を切りひらいていく判断の基準になります。

と。

わたしの価値観はどこからやってきたものか、振り返ってみてもよく分かりません。

両親からの影響がまず最初にあったはずですが、口数が少なくて自分のことを息子のわたしに話すことなどほとんどなかった父の価値観がどんなものだったのか、今となっては確かめようがありません。

父はもう三十年ほど前に亡くなりました。

母はまだ健在です。

とても社交的で自分のことを語るのは好きな人です。

1時間2時間しゃべり続けることもきっと厭わないと思います。

この点で父とは正反対です。

職場で昼食を誰かと誘い合って出かけるより独り自席で食べる方が気が楽だと思っているわたしは、彼女の価値観にもあまり影響を受けていない気がします。

そのほか身近に心当たりがある人はいません。

以前は職場仲間と一緒にお昼を食べに行くのが楽しみですらありましたが、いつの間にかそれを面倒だと感じるようになっています。

気がついたら、いつの間にかわたしはわたしになっていました。

それも、たった今、わたしは今のわたしになった気がします。

わたしという存在は最初からあったわけじゃなくて、様々な出会いや経験を経て形作られていくもの。

わたしは出来上がってしまったものじゃなくて、この先も変化していくもの。

わたしという存在は、わたしという身体が作っているのではなくて、わたしという価値観が作っているもの。

そんな思いがしています。

 

「生命は機械ではない。生命は流れだ」(ルドルフ・シェーンハイマー)という言葉を知りました。

食べ物を口から摂取して体内に取り込んだとき、その全部が燃やされてエネルギーになるのではなくて、そのうちのいくらかは身体の一部と入れ替わっていきます。

新しい細胞や組織が生まれ増えていき、同時にほぼ同じだけのものが捨てられていくのだそうです。

細胞の新陳代謝です。

ルドルフ・シェーンハイマーは食べ物を細胞レベルで着色し、摂取された食べ物の体内での流れを観察しました。

この観察によって、エネルギーとして燃やされなかった残りの食べ物が身体の一部として取り込まれていくことを発見したのだそうです。

生命は絶えず作り替えられ、変換されていくのです。

こうして生命は流れていきます。

ある1台の機械を構成してる部品の1つが調子悪くなったから交換するというのとは違って、少しずついつの間にか変換されていっているのです。

人体の細胞の数は約60兆個ほどです。

1日で約1兆個の細胞が入れ替わっているそうですから、約2カ月ですべての細胞が更新されてしまうことになります。

よく言われるように、数か月前、数年前の自分と今日の自分とでは、細胞レベルではほとんどすべてが入れ替わってしまった別人になっているのです(ただ、これは計算上のことで、実際には脳の神経系の細胞など、生まれた時のままで変わらない細胞もあるそうです)

 

細胞レベルで考えても、気がついたら、いつの間にかわたしはわたしになっているのです。

絶えず変化していく流れの上に身体があり、生命があり、そして、この身体の中のどこかに価値観が宿っていて、それがわたしを作っているのです。

その価値観も新陳代謝され、少しずつ変換されていくのです。

そして、この緩やかな柔らかい容れ物のどこかにわたしは宿っているのです。

いえ、ひょっとしたら、わたしは容れ物の中のどこにもいないのかもしれませんが、、、

 

 

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わたしは頭がカタいのです。

リンゴはやはりリンゴにしか見えません…

いつの間にか、わたしはそんなわたしになっていました。

そんなわたしにも、なりたいわたしがいて、この先わたしは、また違うわたしになっていくと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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山猫🐾@森の奥へ

似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。