少し前のこと、神戸の小学校でショッキングな事件が起こり注目を集めました。
けれど、世間の注目を集めるニュースはその前もその後も途切れることがなくて、日々報道されるさまざまな出来事の山にあの事件も埋もれてしまいつつあります。
事件が起きた背景や加害者側の声が少しも明らかにされないままに。
わたしは、同じ職業を選んだ教員の一人として、何か声を上げずにはいられなくて、前々回の記事「雰囲気と言うものの怖ろしさ」でこの事件の報道に接して感じたことを書きました。
たくさんのコメントをいただき、事件への関心の高さを思いました。
大人社会で、それも学校で、小学生の子供たちが一日の大半を過ごす生活空間である学校という場で起きたこの事件を、未然に、どこかの段階で食い止めることはできなかったのだろうか、、、それを強く思います。
もし、自分が働く職場で同じようなことが起きたらと思うと不快でなりません。
事件自体の異様さはもちろんのこと、事件の舞台となった職員室の様子も気になります。
「いびつな人間関係の土壌を管理職がつくっていた」。東須磨小勤務経験者はそう指摘する。例えば互いの呼び方だ。通常、校内では年齢に関係なく「〇〇先生」と呼び合う。しかし、前校長は同僚の一部を呼び捨てにした。さらに加害教員の一人は、先輩をも呼び捨てにした。(2019.10.25付「神戸新聞」より)
さらに、事件が重態化する前から、被害教員へのふざけの度が過ぎている、との訴えが前校長に対してあったとのことですから、その雰囲気は決して良好なものではなかったと想像されます。
事件が起きる土壌となった「雰囲気」と言うものの怖さを思いつつ、その雰囲気を変えるにはどうすればいいのか…
そんなことをあれこれ考えつつ書きました(「雰囲気と言うものの怖ろしさ」)。
そのあれこれを文章にしようとして最初に思ったのは「正論」という言葉につきまとう妙な抵抗感でした。
事件を非難するようなコメントをしようとすると、どうしても自分が正しい側に立っていることを前提とする書き方になってしまいます。
そこには、柄にもなく「正論」を口にしている自分がいるのです。
この気分はなんだかとても居心地がよくありません。
その妙な感覚を自分なりに整理しておかないと先に進めない気がして、前回はそのことについて書きました(「正論を口にするのが怖い」)。
書きながら浮かんできたのは、職場や教室などの場の雰囲気が良好なものでないと感じたとき、それを変えようと正論で訴えても、あるいは、勇気を奮って、雰囲気を崩している当該の人物に議論を挑んでも、その人の生き方考え方を変えることは決して容易ではないという思いでした。
竜馬は議論しない。
議論などは、よほど重大なときでないかぎり、してはならぬといいきかせている。
もし議論に勝ったとせよ、相手の名誉をうばうだけのことである。
通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと持つのは負けた恨みだけである。(司馬遼太郎『竜馬がゆく』)
竜馬のこの言葉は端的にそれを表しています。
議論を挑んで、たとえ正論という理屈で相手を言い負かしたとしても、相手は考えを改めたりはしない。
それどころか、言い負かされた恨みを、理屈とは別の次元の、声の大きさや力の強さ、数の多さで威圧し、晴らそうとする。
竜馬自身もそのやりとりの中で命を奪われることになったのかも知れません。
命を奪う奪われるほどありませんが、思い当たることが身近にいくつもあります。
あの小学校の事件でもそうでした。
「ふざけの度が過ぎている」との訴えを聞いた前校長が、被害教員に加害教員への思いを訊いたときのことです。
(被害教員は)当時のやりとりを、弁護士にこう証言している。
前校長「お前ぶっちゃけ(加害教員のことを)どう思ってるん?」
被害教員「お世話になってます」
前校長「そうやんな。じゃ、お前はいじめられてないんやんな」
一方的にSOSを封じ込めるかのような言い回し。後任(中略)にも引き継がれてはいない。ただし、前校長は市教委にこのやりとりを否定している。(2019.10.25付「神戸新聞」)
このやりとりを前校長は否定しているとの注釈付きですから、ここではあくまでも一般的な話として以下を書いていきます。
教員としての先輩に仕事上で有形無形のお世話になっていること、それは本当にたくさんあることでしょう。
けれど、それと「いじめ」られていることとはまったく次元が違う話です。
お世話しているから「いじめ」ていいという理屈はどう考えても通りません。
なのに、「いじめ(今回の事件の場合は、暴行・暴言という犯罪行為)」をしてはいけないという正論を「お世話になっている」という別の次元の話と同じレベルで扱って、論点をすり替えてしまっています。
論点をすり替えたり、別々の話をごちゃ混ぜにして議論を複雑なものにしたり、、、よく注意しないと、こういう手法で話をはぐらかされることはよくあります。
しかも、あの事件では「ノー」と簡単に言い返すことができない、管理職という立場を利用して威圧してもいます。
その結果「ふざけの度が過ぎている」との正論はあえなく踏みにじられてしまいました。
そもそも今回の事件では、校長、教頭という管理職がうまく機能していれば、事件の芽を小さなうちに、未然に摘み取ることができていたでしょうし、職員集団の雰囲気をプラスにもっていくこともできたのに、と強く思うのです。
人は生きていくうちに、そして、生きていくために、何度も将来の自分の生き方を選ぶ局面を迎えます。
そこで失敗やら成功やらを積み重ねることで、その人なりの価値観を獲得していくのだと思います。
いつしか、その価値観はその人の処世術となり、生きる道筋となったりするのだと思います。
そうやって出来上がった一人の人間の価値観は相当な固さ頑なさを持っています。
そこには正しいも正しくないもないのかも知れません。
その人にとって自分が獲得した価値観こそがさまざまな局面を切りひらいていく判断の基準になります。
その価値観が自分と違う価値観と相対したとき何が起きるか。
柔軟な考え方ができない価値観の持ち主なら、おそらく、自分(の価値観)を守ろうとして、自分とは違う価値観を否定しようとするのでしょう。
『事実はなぜ人の意見を変えられないのか/説得力と影響力の科学』(ターリ・シャーロット著・上原直子訳・白揚社)という本があります。
タイトルにある「事実」を「正論」と読み替えても意味はそのまま通じると思います。
以下、その本から何か所か引用します。
人は信念にあった事実を集めるもので、信念に合わない事実を提示されると頑なになる。
数字や統計は真実を明らかにするうえで必要な素晴らしい道具だが、人の信念を変えるには不十分だし、行動を促す力はほぼ皆無と言っていい。
その人の信念(価値観)が事実(正論)を受け入れる邪魔をするのです。
そして、自分の意見を強調するものは信じ、否定するものは信じなくなります。
さらに自分に都合のいい証拠を新たに探し出してきて、自分の考えをより強化しようとする傾向が見られると言うのです。
賛成意見しか見えない
という状態です。
そして、
賢い人ほど情報を自説に合うように都合よく合理化してしまう
と著者は言うのです。
ドキリとさせられる言葉です。
どうしてこの人に、この当たり前の理屈が通じないのか、と歯がゆい思いを味わったことがあります。
その人が自分に都合が良いように理屈を変えてしまっていたからかも知れません。
いえ、、、それどころか、ひょっとしたら、当たり前の理屈だと思っていたのは、実は自分だけだったのかも知れないのです。
人は結局最期まで自分の人生を生きるわけですから、自分なりの価値観という理屈の中で生きていくしかありません。
その価値観の誤りを指摘されても、そうやすやすとその指摘を受け入れ、価値観を変えたりできようはずはありません。
それは自分自身を否定することになるのですから。
けれど、
そう簡単に変わらないはずの人が自分から変わろうとするときがあります。
人は自分を守ろうとして、自分とは違う価値観に抗おうとするのです。
自分を守ることが第一条件であれば、自分を守るためになら自分の価値観を変えることもためらわないのではないでしょうか。
人は群れで行動する生き物です。
ですから、人の動きを見てそれに合わせようとすることができます。
つまり、危険を感じたとき、自分の価値観が場の雰囲気にそぐわないものだと感じたとき、自分がマイナスの意味で目立ってしまっていると感じたとき、周りの動きを見て、雰囲気を読んで、それに合わせて身を守ろうとすることができます。
その変化を促すことで人を変えられるかも知れない。
正論で人を変えることはできない。
けれど、雰囲気が人を変えることがある、そう思うのです。
また回を改めて、次は雰囲気を変えるにはどうすればいいか、ということについて書こうと思います。