森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

「自分とはどんな人間なのか」近いほどよく見えるのに、近過ぎるとかえって見えない。 **ブックマーク・ツイートから** 山猫ノート19

 
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早いもので、もう1月最後の週末です。

いまさらながら、ですが、今年の抱負を考えています。

抱負というか、これから先の自分について、考えています。

 

近いほどよく見えるのに、近過ぎるとかえって見えない。

あ、老眼の話ではありません。

その見えないものの一つが自分です。

鏡やカメラなどを使わずに自分の顔を直接自分の目で見ることはもちろん不可能ですので、ここで言ったのは「自分とはどんな人間なのか」が見えないと言う意味です。

それを見ようと努力することを「自分探しの旅に出る」とも言うのでしょうか。

でも、「自分探し」という言葉からは、虫眼鏡を持って何か落ちていないか探し歩いている姿しか、わたしには思い浮かべられません。

これではいくら探しても見つからないでしょうね。

自分という人間は社会があるからこそ存在しているのですから、その社会を見ないことには自分も見えてこないように思います。

 

近すぎて見えないのが自分です。バランスよく描くには少し離れて見ないとダメですよね。絵も小説も同じだと思います。自分を離れて見るには、距離ではなく時間をおかないといけないんじゃないでしょうか?

 

↑は、カワセリリ。 (id:riri_kawase)さんの記事に書いたブックマークです。

 

社会を見るために古くからとられている方法の一つが、自分が所属する社会から一度離れてみる、と言うやり方です。

自分や社会を外から見る。

客観視。つまり、客観的に、視るためです。

 

自分の日常から離れることで初めて自分の日常が見え、社会が見えてくる。

そして、

その社会で生活している自分が見えてくる、というものなのでしょう。

日常から距離的位置的に離れるという意味では、それが「旅」です。

「家出」もその一つかもしれません。

この「旅」で見えてくるのは、

家庭とか学校とか会社とかの、自分が所属している、もしくは所属してきた社会の大きさか、それとも小ささか。温かさか冷たさか。自分の大きさか小ささか、温かさか冷たさか、賢さか愚かさか。

それを知ることが「自分探しの旅」でしょうか。

 

 

もう一つ、

日常から時間的に離れることで社会や自分を見ることもできます。

時間的に離れると言うことは、時間は一方向にしか流れませんから、つまり、年月が過ぎたところにいる未来の自分から過去を振り返る、と言う意味です。

人が選んだ生き方の結果や社会の変容ぶりを見届けられる分だけ、はっきりと過去の自分が見えるはずです。

時間的に離れれば離れるほど、よりはっきりと、よりくっきりと見えてくるはずです。

昨日の自分よりは去年の自分の方が、去年の自分よりは十年前の自分の方が、どんな人間だったのか見えてくるはずです。

 

ですが、この場合は「旅」と違って後戻りできませんから、 過去の自分をやり直すことはできません。

なのに見えてくるのは、どうしてだか、愚かな自分です。

年を重ねるほどそんな自分ばかりが見えてきます。

 

そもそもは、

「自分とはどんな人間なのか」

を知らなくても、考えなくても普通に生きていけます。

むしろ、知ろうとする方がかえって生きづらい場合があるかもしれません。

自分を知ろう(見よう)としない人、自分を知らない(見ない)人、自分を知った(見た)つもりでいる人。

たくさんいらっしゃいます。いろんなところで出会います。

わたしもその中の一人かもしれません。

ですからまずは、「自分とはどんな人間なのか」と言う疑問を抱くことができれば、そこからすべてが始まるのだと思います。

年を重ねたらその分だけ気づけるものは多いはずです。

そして、愚かな、不完全な自分を見つけることができれば、過去を変えることはできなくても、この先の自分を変えることはできるかもしれないなぁ、と思っています。

 

 

最後にもう一つ。

朝陽を観ると、空の広さとか太陽の恵みとか自然の雄大さとかに圧倒されます。それが頭の中を満たして、日々のあれこれはしばらく頭から出ていってくれますよね。わたしも朝陽を観るのが好きです。今朝も観てました。

↑こちらは、jitome_no_tetsuko (id:jitome_no_tetsuko)さんの記事に書いたブックマークです。

 

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自然の雄大さを観るためには遠くに目を向けないといけません。

老眼は遠くを見ることは得意です。

 

ちなみに老眼は正しくは老視と呼ぶそうです。

眼力が老いたのではなく視力が老いただけなのです。

負け惜しみなんかじゃありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

  
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