前回の記事「雰囲気と言うものの怖ろしさ」で神戸の小学校で起きた事件について書きました。
たくさんのコメントをいただき、この事件への関心の高さを思いました。
コメントを寄せてくださったみなさま、ありがとうございました。
今回は「雰囲気」を変えるにはどうしたらいいんだろう、とあれこれ考えたことを書いてみようと思います。
集団の中で、一つの発言が肯定され賛同を得るか否か、それはその集団の雰囲気によって違ってきます。
極端な例になりますが、
「戦争反対」と駅前の広場で唱えたとします。
それが今朝の通勤の駅前で見られた光景であれば、それに異を唱える人はおそらくいないでしょう。
けれど、戦時中の日本でそれをやったとしたら、その演説者はたちまち引き倒され、どこかに連れて行かれてしまったことでしょう。
戦争はいけない行為だと言う紛れもない正論も場合によっては通じなくなるのです。
集団が持つ雰囲気次第で出来事の意味や発言の是非は明らかに違ってきます。
戦時中の日本を覆っていた雰囲気を一個人の力で変えることは到底できるものではなかったでしょう。
ですが、教室や職員室の雰囲気ならどうか…
変えることはできないのか、できなかったのかと思うのです。
話は少し回り道します。
前回の記事の中で、わたしは「正論(もしくは、正論だと思うこと)を口にするには途轍もない勇気がいります。」と書きました。
自分の考えが絶対に正しいと言う自信がないし、そもそも自分が偉そうなことを言える人間じゃないのにと言う思いもあって、そう書きました。
はっきり言って、正論を口にするのはとっても怖いです。
この先を書き進めると、どうしても正論めいたことを書いてしまいそうになります。
ですからその前に、この「正論」と言う言葉につきまとう妙な抵抗感について頭の中を整理しておこうと思うのです。
こういう場合はどうでしょう。
通勤通学を急ぐ人たちが激しく往来する早朝の駅の風景です。
ある人は歩きながら忙しなくタバコを吹かし、別のある人はスマホの画面に気を取られながら歩いています。
その人の流れに向かって
「タバコのポイ捨ては止めてください、子供たちに受動喫煙をさせないようにしてください、歩きスマホは危険です」
と呼びかけたとします。
呼びかけた内容はもちろん正論です。
大多数の人たちは毎朝毎夕この駅をただ通り過ぎるだけですから、この駅前には何らかの統一された雰囲気と言うものはおそらくないと思います。
だとすれば、この正論が通じない雰囲気なんてどこにもないし、誰もこの正論を否定することはできません。
むしろ、この正論の方が歩きタバコであったり歩きスマホであったりの相手の行為を否定しているのです。
危ないから止めなさい、と。
単純明快です。
この正論が、相手が自分の行為を省み、改めることに素直に繋がれば良いのですが、そう簡単に人は改まりません。
これほど単純であっても改まりません。
改まらないどころか、逆に反感を招いてしまうことが往々にしてあるだろうと思います。
歩きタバコを注意されたことを自分に対する攻撃だと受け取り、それが怒りに結びついてしまうのです。
いわゆる逆ギレというやつです。
そもそも言われなくても自分が悪いのは分かっている。
分かっているけど、自分ではそれに目をつむってきた。
なのに、それをことさらにほじくり返して言い募ってくるから腹が立つ。
だから、素直にその正論を聞くどころか、居直りを決め込み、逆に相手を否定する事柄を探したりする、のです。
「正論を振りかざす」と言う表現があります。
「振りかざす」は「主義・主張などをことさらに示してみせる」と言う意味です(三省堂大辞林)。
夏目漱石『草枕』冒頭に「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」と言うよく知られた一節があります。
「角が立つ」は「人との間柄が穏やかでなくなる」と言う意味です(三省堂大辞林)。
正義や大義名分や理詰めの正論は、それを言うとき、いわゆる「上から目線」になりがちで、おそらくその口調や態度が周りとの摩擦を生じさせてしまうのだと思います。
わたし自身、自分のミスや勘違いを指摘されたとき、それが正しい指摘であったとしてもカチンと来てしまったことが何度もあります。
素直に「ありがとう」と返せないのです。
正論を言うときほど、そのタイミングや言葉の使い方、口調に気をつけないといけない。
それを踏まえた上で、相手の気持ちの変化を促せるような言い方を工夫しないといけない。
そう思います。
だけど、そんなことできるかな…
それともう一つ、
議論についての坂本竜馬の言葉を思い出しました。
価値観が違う二者がいるとすれば、ときに激しい議論になることがあるかもしれません。
竜馬は議論しない。
議論などは、よほど重大なときでないかぎり、してはならぬといいきかせている。
もし議論に勝ったとせよ、相手の名誉をうばうだけのことである。
通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと持つのは負けた恨みだけである。(司馬遼太郎『竜馬がゆく』)
竜馬(司馬遼太郎かな?)が言うように、議論に勝てば相手が自分の考えを受け入れてくれると言うわけでは絶対にありません。
それは正論についても同じでしょう。
正論を突きつけられた人の心に残るのは、あいつに偉そうに言われた、と言う苦い思いだけなのだと思います。
こんなことをあれこれ思いました。
「とかくに人の世は住みにくい。」
正論を口にするのはますます怖くなるばかりです。
話を元に戻します。
教室や職員室の雰囲気を変えるにはどうしたらいいんだろう。
それを考えているところでした。
正論を突きつけても、議論で相手を言い負かしても、人の生き方考え方を変えることはおそらくできない。
ですから、言葉だけで雰囲気を変えるのはなかなか難しいことだと思います。
先に紹介した『竜馬がゆく』には、こんな一節もありました。
相手を説得する場合、
激しい言葉をつかってはならぬ。
結局は恨まれるだけで
物事が成就できない。(司馬遼太郎『竜馬がゆく』)
少し長くなりました。
ここで一端区切ります。
たぶん、次回に続きます(^_^;
2019.12.7
続きを書きました。