その時、わたしは神戸市内にある職場のスタッフルームに立っていました。
プリントアウトした職場の予定表を掲示ボードに貼ろうとするところでした。
不意に異様な音が鳴り響きました。
6月18日7時58分のことでした。
SF映画で聴くようなその機械的な警報音が、地震の接近を知らせるものだということが分かったのは、その数秒後の地震の揺れを感じてからでした。
職場の建物全体が大きく揺れ、わたしは掲示ボードを取り付けている太い柱に手をかけて身体のバランスを保とうとしました。
腰を屈めて机の下に身を隠そうとする人の動きも目に入りました。
スタッフルームに緊張感が走りました。
揺れはすぐに止みましたが、しばらくの間ほとんど誰も動きません。
誰もが余震を警戒していたはずです。
が、大きな揺れはそれきり止みました。
1,2分後、「震源地は大阪、職場の建物内の状況確認をするように」という声があり、何人かがスタッフルームを跳びだしていきました。
職場の半数近くの人が、あの大きな揺れ、あの阪神淡路大震災、を経験していました。
幸い、わたしの職場では特段の被害は確認されませんでした。
夕方(6月18日夕方)帰宅すると、
わが家の「ワレモノ注意!」たちが玄関に避難してわたしを出迎えてくれました。
整列している姿を見て、なぜかホッとしました。
「ワレモノ注意!」たちの列の右横には階段下収納の扉があるのですが、それが開けたままになっていました。
どうして? と思いましたが、そうでした、、、
その収納庫には防災グッズが入っていたはずでした。
建物が歪むと扉が開かなくなるから、地震のときは開けたままにしておくのでした。
キッチンに入ると、食器棚の扉が養生テープでしっかりと留められていました。
23年前のあの時の、床に散乱した食器類の映像が思い出されました。
寝室には、わが家の重要書類が入った引き出しがすぐに持ち出せるように準備してありました。
子供たち二人はすでに家に帰っていました。
無事でよかった。
翌19日朝未明にも余震がありました。
大阪ではまださらに体感できる余震が続いているとのことです。
地震発生当日、阪神間の鉄道は大半が運行を見合わせました。
わたしも鉄道を使って通勤していますが、市バスは動いていました。
電車が止まっていてもバスを何本か乗り継げば帰宅できるはずでした。
どのルートで帰宅しようか作戦を練っていましたが、わたしが普段利用している阪急神戸線は午後3時過ぎには運行を再開したようです。
JRはまだ動いていませんでした。
わたしはいつもより早めに職場を出て駅に向かいました。
すぐ電車には乗れましたが、普通電車しか走っていないらしくて、車内はすし詰め状態でした。
それでも、いつもより時間はかかりましたが、夕飯の時間には帰宅することができました。
わたしの家は六甲山の中腹にあるので帰宅途中の道すがら大阪の街を望むことができます。
地震の日、夕方の大阪です。
あの夜の神戸はあちらこちらで炎が空を照らしていた…
と、薄れかけていた記憶がよみがえりました。
わが家で大変だったのは長男M。
地震発生時は、大学に通うため、JR大阪駅のホームで電車を待っているところだったらしいです。
地震というものを初めて経験した彼は、揺れを感じてもすぐには何が起きたのか分からなかったそうです。
驚いてホームを見渡すと多くの人がしゃがみこんでいる。
これはヤバい、と、それを見てようやく思い至ったようです。
後から思えば電車に乗る前でまだ良かったのかもしれません。
Mは家に帰ろうと考え、阪急梅田駅まで引き返しました。
でも、電車はすべて動いていませんでした。
いつ運行を再開するかと言うアナウンスもなかったようです。
どこで運行再開を待てばいいのかも分かりませんでした。
彼はそのまま大阪の街のど真ん中で足止めを食ってしまって、大学にも行けず家にも帰れず、ただただ阪急梅田駅の改札前の通路に座って運行再開までを過ごすことになりました。
彼の近くには同じような状況の人たちが何人も座って待っていたと言うことでした。
電車が運行を再開したのは午後3時、待ち続けて7時間後のことでした。
もともと風邪気味だったせいもあり、夕方帰宅した彼はひどく疲れ果てていたそうです。
家に着くなりベッドに潜り込んだと聞きました。
ライフラインが寸断されることによる二次被害。
これが都市型地震の一つの大きな側面であることをはっきりと見せつけられた気がします。
なお、今日(6月20日)現在、わが家の「ワレモノ注意!」たちの避難生活はまだ続いています。
今回の地震で被害を受けられた方々に対して、心よりお見舞い申し上げます。