森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

紙とペンと海鼠腸と白衣、そしてたくさんの花。

配偶者の互いの両親のことを義父、義母と言うが、それとは別の言葉があって、奥さんの父親のことを『岳父(がくふ)』と呼ぶことがある。

語源は中国の故事で、娘婿の昇進に関われるほど力がある人物という意味らしい。奥さんの母親のことは岳母(がくぼ)とか丈母(じょうぼ)とか言う。

では、奥さん側からみて旦那さんの両親のことを何と言うかというと、父(尊父)母(母堂)だけでいいらしい。

つまり、旦那さんにとって奥さんの両親は「敬して遠ざける」ような存在だが、奥さんには旦那さんの両親を自分自身の両親と同等の存在と考えなさいよ、という意味を持たせているのだろうか?

「旦那」も「奥」もそうだけど、こうした家族にまつわる言葉はいまだに古い時代の概念を引きずっている。

 

3月1日の朝、『岳父』が亡くなった。

僕は同じ時刻、通勤の途上で義父の家(奥さんの実家)がある東の空を眺めていた。ちょうど鮮やかな朝日が昇ってこようとしていた。

そのときの僕はまだ義父の訃報を知らない。

駅へ急ぐ足を止めて写真を撮り、ツイートした。

f:id:keystoneforest:20170312215747j:plain

“通勤の途中で通る道です。毎朝同じ時間にここを歩きます。

ここで観る東の空は、季節が確かに移り変わっていくのを感じさせてくれます。

もう数日すれば、朝日が顔を見せるようになります。

3月になりました。春はすぐそこに来ていますね。”

 

出勤後、奥さんからの電話で義父の死を知った。

あの鮮やかな朝焼けの中、義父は旅立った。

 

義父の葬儀、いや、あれはお別れ会と言った方が近いだろうか。それは無宗教で行われた。

無宗教とは宗教色を排除したもの、という意味だろうか。お坊さんも神父さんもいない。参列者は手を合わせてもいいし十字を切ってもいい。それぞれのスタイルで故人の冥福を祈る。

そこにあるのは、ただ、別れを悼む儀式だった。

無宗教の葬儀には、決まった形式はない。権威とか格式とかを嫌った義父らしいと思う。でも、何かしらの形がなければ式(儀式)は行えない。

式場の担当者とも話し合いながら形が出来上がっていった。

 

式場には義父が趣味で作った陶芸の作品が置かれ、好きだったゲルハルト・ヒッシュが歌うシューベルトの菩提樹が流されることになった。

柩は式場の真ん中に置かれ、参列者の座席はそれを囲むように半円状に並べられた。

正面の壁に花が飾られ、家族との写真を映し出すためのTVモニターも置かれた。

 

式が始まる前から、モニターにはスライドショーにした義父と家族や知人たちの写真が繰り返し映されていた。

幼い頃の義父と家族(義理の祖父母)、義母との人前結婚式(ここでもやはり無宗教だ)、病院のスタッフたちに囲まれた義父、子供たち(義姉や義兄、幼い頃の山猫の奥さん)との家族写真、勢揃いした孫たちを見守る義父、そこにはまだ髪が豊かだった頃の山猫もいる。そして、桜の下で撮った義母とのツーショット、二人とも髪が白い。

そして、式に先立って、VHSで録画されたビデオがモニターに再生された。

医師として現役で活躍していた頃の義父がインタヴューに答えている。キャスターは辛坊治郎だった。

少し緊張気味に義父が糖尿病についてしゃべっていた。山猫がまだこの人の娘と知り合う前のことだ。

 

そして葬儀が始まる。進行役は、式の打ち合わせを一緒にした担当者が務めてくれた。

 

最初にナレーションで義父の生涯が紹介された。続いて一番年長の義姉が義父とヒッシュにまつわる思い出を家族のエピソードとからめながら語る。そして参列者たちの献花。最後に義兄が喪主として挨拶をして終わり。儀式としてはただそれだけだった。

式の後、式場中の花を参列者みんなで義父の柩に入れた。

義父は現役の頃そのままの白衣を着ていた。柩の中の義父はみるみる花で埋め尽くされていった。

 

書くことが好きだったから、柩には原稿用紙と鉛筆も入れた。

無人島に流れ着いても紙とペンさえあれば決して退屈しない、とよく言っていた義父だった。

そして、海鼠腸(このわた)をご飯と山芋にのせて入れた。

物を飲み込むのが難しくなった最晩年、海鼠腸を食べ喉を詰まらせて死んでも本望だ、と言うほどの好物だった。

式を通して義父がどんな生き方をしてきたのか、どんな人だったのか、初めて知ったことがいくつもあった。

葬儀はまるで義父の個展のようだった。

父がもしこの場にいたら、きっと目を潤ませて喜んでくれたことと思う。父の笑顔を感じながら別れを告げることができた。

式後、奥さんは山猫にそう言った。

 

義父の葬儀が行われたのは3月3日だった。その日の朝、庭のサクランボの木の蕾が開いた。

f:id:keystoneforest:20170312223239j:plain

ちなみに、山猫の生まれ育った森では葬儀は宴会だった。

通夜のときから親戚や近所の人が集って飲み食いし、その合間に親戚の誰かがお経をあげてみんながそれを声明する。

難しいお経の中で、よく覚えている一節があった。

「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」

子供の頃から何度も聞いて耳に残っている。これは、正しくは『御文章』と言い、お経ではない。

この世は無常で人の生死は予測できない、という意味だ。蓮如の言葉だという。

「すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず」と続く。

何度もお経をあげ、夜が深ければ故人のそばで雑魚寝して、朝が来ると髭を剃り黒い服を着て黒いネクタイを結ぶ。

そして、お坊さんが来てお経とお説教。葬儀が終われば二次会だ。故人はそこでさんざん話のネタにされる。良い思い出も恥ずかしい思い出も、みんなで笑って泣いて、賑やかに騒いで故人を送った。

 

確かにこれも、別れの儀式には違いない。

 
 
 
 
 
よければtwitterものぞいてみてください。山猫 (@keystoneforest) | Twitter