配偶者の互いの両親のことを義父、義母と言うが、それとは別の言葉があって、奥さんの父親のことを『岳父(がくふ)』
語源は中国の故事で、
では、奥さん側からみて旦那さんの両親のことを何と言うかというと、父(尊父)母(
つまり、旦那さんにとって奥さんの両親は「敬して遠ざける」
「旦那」も「奥」もそうだけど、
3月1日の朝、『岳父』が亡くなった。
僕は同じ時刻、通勤の途上で義父の家(
そのときの僕はまだ義父の訃報を知らない。
駅へ急ぐ足を止めて写真を撮り、ツイートした。
“通勤の途中で通る道です。毎朝同じ時間にここを歩きます。
ここで観る東の空は、
もう数日すれば、朝日が顔を見せるようになります。
3月になりました。春はすぐそこに来ていますね。”
出勤後、奥さんからの電話で義父の死を知った。
あの鮮やかな朝焼けの中、義父は旅立った。
義父の葬儀、いや、あれはお別れ会と言った方が近いだろうか。
無宗教とは宗教色を排除したもの、という意味だろうか。
そこにあるのは、ただ、別れを悼む儀式だった。
無宗教の葬儀には、決まった形式はない。
式場の担当者とも話し合いながら形が出来上がっていった。
式場には義父が趣味で作った陶芸の作品が置かれ、
柩は式場の真ん中に置かれ、
正面の壁に花が飾られ、
式が始まる前から、モニターにはスライドショーにした義父と家族や知人たちの写真が繰り返し映されていた。
幼い頃の義父と家族(義理の祖父母)、義母との人前結婚式(ここでもやはり無宗教だ)、
そして、式に先立って、VHSで録画されたビデオがモニターに再生された。
医師として現役で活躍していた頃の義父がインタヴューに答
少し緊張気味に義父が糖尿病についてしゃべっていた。
そして葬儀が始まる。
最初にナレーションで義父の生涯が紹介された。
式の後、
義父は現役の頃そのままの白衣を着ていた。柩の中の義父はみるみる花で埋め尽くされていった。
書くことが好きだったから、柩には原稿用紙と鉛筆も入れた。
無人島に流れ着いても紙とペンさえあれば決して退屈しない、
そして、海鼠腸(このわた)をご飯と山芋にのせて入れた。
物を飲み込むのが難しくなった最晩年、
式を通して義父がどんな生き方をしてきたのか、どんな人だったのか、
葬儀はまるで義父の個展のようだった。
父がもしこの場にいたら、
式後、奥さんは山猫にそう言った。
義父の葬儀が行われたのは3月3日だった。その日の朝、庭のサクランボの木の蕾が開いた。
ちなみに、山猫の生まれ育った森では葬儀は宴会だった。
通夜のときから親戚や近所の人が集って飲み食いし、
難しいお経の中で、よく覚えている一節があった。
「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」
子供の頃から何度も聞いて耳に残っている。これは、正しくは『御文章』と言い、お経ではない。
この世は無常で人の生死は予測できない、という意味だ。蓮如の言葉だという。
「すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず」と続く。
何度もお経をあげ、夜が深ければ故人のそばで雑魚寝して、
そして、お坊さんが来てお経とお説教。葬儀が終われば二次会だ。
確かにこれも、別れの儀式には違いない。