森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

『無題』 (創作短編小説)

 
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当ブログ『森の奥へ』へお越しいただきありがとうございます。

いつもは、山猫🐾のつぶやきあれこれを掲載していますが、

今回は小説創作です。

少し長くなりますが、よろしければお付き合いください。 

 

 

 

 

 

* * * * * *

 

タイトル;『無題』

 作;山猫🐾

 

 

 

 

 

 

  センセイ 

 センセイ

 センセイ

 センセイ

 センセイ

 

 先生

 サワサキ先生

 澤崎先生……

 

 深夜二時を過ぎた頃、書斎でひとり仕事している男を背後より呼ぶ者がいる。蚊の鳴くような、というたとえがあるが、まさにそれがちょうど当てはまるほどのボリュームである。

 が、声の主はもちろん蚊ではない。

 呼びかけはかなり前から続いていた。けれど、小声であるからというだけでなく、耳が少し遠いせいもあって、男はそれに全く気づかずにいる。そもそも、その声が届いたとしても、ペースが乱されるのを極度に嫌うこの男の性格からして、たとえそれを一日中繰り返されようとも、平然と無視し続けていたかもしれない。声の主は、その辺りの事情を熟知しているようで、男の機嫌を損ねぬよう根気強く呼びかけていた。間隔をおいて、次第に声を大きくしていきながら。

 その声がようやくこの男、澤崎三郎の耳に、意味を持つ音声として聞き取れるほどにまでなった。しかし、やはり澤崎はそれに応えようとはしない。

 無視したのではなかった。

 このところ澤崎はひどい幻聴に悩まされているのだ。

……書斎にいる。ノックの音が聞こえる。しばらく待たせた後、もったいぶって開けてみる。が、ドアの向こうには何の気配もない。電話が鳴る。放っておくといつまでも鳴り止まない。誰かおらんのか、と声を荒げつつ、書斎にある子機を取り上げようとする。ところが、着信を示す明かりが点灯していない。そこで初めてそれが鳴っていないことに気づく。それでも諦めきれず受話器を耳に押し当ててみるが、何も聞こえてこない。そもそも書斎には外からの電話が直接つながらないようにしてあったはずだ。

……家内がどこからか自分を呼ぶ声がする。来客を告げているらしい。けれど、澤崎の妻、節子はすでに三カ月前に死んでいるのだ。

 きわめつけは、二、三日前のことだ。それらが合わさってやってきた。

……電話のコール音が微かに伝わってくる。親機を置いている階下からだ。しばらくしてそれは、節子が応対しているらしき話し声に変わる。そして彼女が階段を昇り、書斎の前までやってくる気配を感じる。いつも彼女がそうしていたように、ためらいがちにドアが叩かれる。澤崎はうるさげにドアを押し開ける。けれど、誰もいない。

 節子が死んでからのあれこれで、しばらくこの家は人が行き来して賑やかすぎるほどだったが、それがおさまったかと思えば、この幻聴だ。

 どうにも納得がいかず、通いの家政婦を問い質してみる。

 だが、何も存じません、と繰り返すばかり。

 しつこく訊きすぎたせいだろう。昨日から来なくなった。これで、この三カ月で四人辞めたことになる。今、この家には澤崎ひとりしかいない。
 疲れのせいだ。肩にも腰にも心にも、鈍く重いものが溜まっている。幻聴はそこからきている。いや、疲れというより、おそらくおおもとの原因は老いにちがいない。節子を亡くして以来、澤崎は一度に十も二十も老け込んでしまった。

 髭を剃りながら、鏡に映ったその顔が自分のものでない違和感に、澤崎は幾度も襲われた。自分そっくりの顔を貼り付けた老人が、物憂げに表情を歪ませて自分を見返している。

 こっちへ来い、と誘っているのだ。

 もう少し待っておれ、やることがまだ残っている。澤崎はそう返していた。あいつらに一泡吹かせてやらぬ限りはそっちに行くわけにはいかん。

 ということで、澤崎は先程来の呼びかけを、またいつもの幻聴だろうと決めつけた。そして思いついて、愛用の万年筆を手に取った。

 ところで、いわゆる文壇の大御所、というのが澤崎の肩書きである。いわゆる、には相応の意味が含められている。かなり以前はそれが文字通りの敬称だったのが、近頃ではどちらかと言えば皮肉を込めた表現として使われるようになっていた。

 

 

 澤崎は〆切が十日ほど過ぎた原稿の執筆に苦心している最中だ。といっても、内心の焦りとは別に表面上は平静を装って、文机を前に、窓を背にして、鎮座ましましている。たっぷりとした広さのある机上には、『無題』と大きく墨書した原稿用紙が右手奥に掲げられ、左手奥には長年愛用の広辞苑が開かれており、中央には原稿用紙が置かれていた。

 そのマス目にはまだ一文字も記されていない。

 澤崎はそれらに向かって腕組みをしたまま、文机の正面にある書棚にずらりと並べられた本の背表紙を小一時間ばかり眺めていたところだった。書棚は壁に作りつけた大層立派なもので、収められている本は全て澤崎三郎自身の著作である。五段あるうちの上の三段分にハードカバーの本が並ぶ。四段目は文庫で一番下は雑誌類だ。最上段の左隅が澤崎が最初に出した本だが、今にして思えば気恥ずかしくなるようなタイトルだ。そこから右並びに、出版した順にタイトルが続いている。二冊目の本で澤崎は新人作家に与えられる大手文学賞を受賞し、この業界での不動の地位を確立した。

 澤崎の視線はそこから右へ、そしてまた次の段の左から右へ、と順々にそれらのタイトルをなぞっている。

 先につけるか後でつけるかで悩むことがある。先につけた方が話の方向性が決まって書きやすい、と考える者がいる一方で、全くその逆で、方向性を限られてしまうようで書きづらい、と反論する者もいる。小説のタイトルのことである。その話の最後の一行を読み終えた後に思い浮かぶイメージを言葉にしたタイトルが理想だ、と言う者もいる。といっても、連載の場合は先につけておかないといろいろ問題が生じてくるので、これは書き下ろしに限る。

 澤崎は万年筆を持ち上げたついでに、「私を呼ぶ声がする。」と一行書いた。これであと二十四枚と三十行ほど書き続ければいい。先日、久しぶりに受けた小説の依頼は、たったの二十五枚という分量だった。

 これまで澤崎は、編集者とのやりとりや出版の打ち合わせ、それに伴う金の動き、家事のあれこれも自分の身辺のことも、原稿のアイデアも出来不出来も、それら全てを節子に頼ってきていた。だから当然のことに、彼女を亡くしてからいろいろと勝手が悪い。

 元気者の節子が珍しく熱で身体が怠いと言い出し三日寝込んだ。それでさえ、当の節子本人より澤崎の方が不便を来す始末だった。ところが往診を頼んだ医者が険しい表情で専門医に精密検査をしてもらうよう勧める。すぐに病院で診てもらったが遅かった。ほんの一月あまり後には彼女は帰らぬ人となってしまった。

 節子を亡くす前後から、いや、澤崎本人が知らなかっただけで、本当はかなり以前からだが、澤崎は自分が身を置くその業界から、作家・澤崎三郎の存在が忘れられつつあることに気づき始めていた。ことに節子が死んでからが、それが一層ひどい。はっきり言えば、地方紙の記事で故人扱いされたことさえ何度かあったのだ。

 そんな状態だから、久しく前から澤崎が執筆を頼まれるのは稀だった。まして小説の依頼など、いつ以来のことだろう。

 それであってなお澤崎は、二十五枚ごときの仕事にはいくらの魅力も感じなかった。そんな枚数で一体何が書けるのか。誰かが落とした原稿の穴埋めにでもするつもりなのか。最初澤崎は、その話を腹立たしげに断った。

 仕事を持ってきた編集者の高浦修平は節子と縁続きで、都銀に勤めていたのが性に合わず、それを辞めた後、口を頼まれた澤崎が出版社に世話をしてやった男だ。そいつがもう一人前に本を任されるようになっている。

 このところ澤崎三郎を訪ねてくる業界の人間といえば、彼くらいしかいない。節子の葬儀も修平が全て差配してくれた。おかげで滞りなく片づけることができた。こうしたことには卒のない男だ。子供のない澤崎にとって、修平の存在は得難いものがある。いつの間に手続きしていたのか、節子は自身に相当額の保険をかけていたようで、葬儀やら墓やらの費用は十分にそれで賄えたのだが、その保険会社とのやりとりも全て修平がやってくれたのだった。

 その修平が、しつこく今回の仕事を薦める。改めて話を聞いてみると、それは月刊の文芸誌で企画した老大家による掌編の競作で、十二人の書き手に同時期に作品を書かせて、それを十二カ月かけて順繰りに掲載していくものだという。枚数を少なく抑えているのは、老大家の新作を同時にネットにも配信して、日頃こういう作家に馴染みのない携帯世代の読者層を開拓しようという試みなのだそうだ。と言って、若い世代に迎合する必要などもちろんない。縛りは、二十五枚・一万字という分量とタイトルを『無題』とすることの二点だけだった。

 企画書を見ると、競作のメンバーには澤崎と同年配のNやTをはじめ文壇の蒼々たる作家陣の名前が挙げられていた。NとT、この二人の名前を目にして、澤崎の胸には苦い思いが沸き上がってきた。

 以前はあいつらとよく飲んだ。どこどこの雑誌に載ったなんとかいう新人が見所がある、とか。いやあれは駄目だ。妙に突っ張っているだけで、すぐに底が知れるさ、とか。声高に言い合いながら、若手に評価を下すことで己の格の優越を誇ろうとしていた。それがどうしたことだ。今では自分たちの方が名前を覚えてもらうために汲々としている。

「そう言えば、澤崎。お前さんの新作読ませてもらったが、ちょっと手を抜いたんじゃないかな」

 三年ほど前のことだ。澤崎が書き下ろしたばかりの長編を一蹴したのはNだった。Tもすかさずそれに加勢した。

「そんな言い方をすると、澤崎君が気を悪くするじゃないか。確かに文章には往時の冴えが感じられなかったけど、悪いのは澤崎君じゃない。歳のせいさ。ま、こればかりはお互い様だけどね」

「大御所ともなれば無理をせず、締めくくりの全集を出す準備でもしていればいいのさ」

 Nが重ねて言った。

 二人とも長く本を書いてないくせに人のことが言えた義理か。やっかみもほどほどにしろ。澤崎は奥歯を強く噛みしめた。言い返す気にもなれなかった。それ以来二人とは飲んでいない。

 大御所大御所、と囃し立てるような幻聴がひときわ大きく聞こえ、澤崎はそれを遮るような大声でとっさに、承知した、と修平に宣言してしまっていた。

 たったの三十枚たらず、一日で書き上げて叩きつけてやる、と思ったのだ。

 ところが、それが書けない。

 〆切を過ぎてからも、まだ催促はなかったが、遠慮しているだけだろう。澤崎の脳裏には修平の苦り切った表情が浮かんでみえた。

  

 

 「確かに背後から誰かが私を呼んでいる。けれど、後ろは窓だ。誰もそこにいるはずがない。」と、もう一行書くと、澤崎は途端に視界が開けたような気がした。後はペンが勝手に書き進めてくれるはずだ。これまで百も二百も本を書いてきた俺だ、二十五枚などイメージさえ湧けば一息で書き上げてみせる――。

 澤崎は身体の奥が熱くなってくるのを感じた。それは、長く忘れていた感覚だった。

 「「お忙しいところ、まことに申し訳ございません。先生、少々お時間をちょうだいしてよろしゅうございますか」」とさらに書き継いだ。

「「こんな時間に、俺に何の用だ」

 半ば叱りつけるように言葉を返したが、怯む様子もなくすぐさま返事があった。

「お言葉を返すようで申し訳ありません。ですが、わたくしに用がおありなのは先生の方でございましょう」

 聞き覚えのない声だ。

「妙なことをいう奴だな。お前など呼んだ覚えはない。第一、お前は誰だ?」

「はい、先生。わたくし、いわゆる『悪魔』でございます。お呼びくださればすぐにお側にかけつけ、三つの願いを叶えてさしあげます」

「お前…… 俺をからかっているのか」

「滅相もございません。わたくし、用のない場所には決して現れやいたしません。先生のお呼びに従って、こちらに参上いたしました次第でございます」

 声は背後から聞こえてくる。この時になって初めて、澤崎は声のする方を振り返った。後ろは窓だ。カーテンを引いたままにしている。

「そこにいるのか? 顔を見せろ」

 言いながら勢いよくカーテンを引く。暗くて外ははっきりしない。

 ガラス窓には澤崎自身の姿が映っているだけだ。

「先生、少し落ち着かれて、ゆっくりとお話をいたしましょう」

 声は闇の向こうから聞こえてくる。

 やはり幻聴だ。違いない。そう納得しつつ、澤崎は、しばらくその声に付き合ってやろうと考えた。

「なるほど、今夜はいつもと趣向が違うらしいな」

 澤崎は小さく頷いた。

「それで? 俺はどうすればいい」

「願い事を三つおっしゃっていただければありがたいのですが」

 控えめな声が返ってきた。声の主、『悪魔』の姿は相変わらず見えない。

「で、俺が死んだら魂を持っていく、そういうわけだな」

「その通りでございます」

「こんな老いぼれの魂でもいいのか?」

「もちろん結構でございます。そういう決まりになっておりますので。生まれたての赤ん坊の魂でも先生の魂でも少しも値打ちに違いはありません」

 魂というものが身体のどこに収まっているのか、実体があるものなのか、取られたらどんなデメリットがあるのか、澤崎は考えたこともなかった。大衆文学は自分の趣味ではない。代償に失うものがはっきりしないのに、どの程度の願い事を申し出ればよいのか、勘定しかねる部分もある。けれど何が起こるにせよ、しょせんは自分が死んでからのことだ。気に病むこともなかろう。第一、これらはすべて幻聴なのだ。幻聴だと決めつけることで澤崎は楽に前に進むことができた。

 

 

「では、頼むことにしよう。まず一つ目は、この幻聴だ。これを何とかして欲しい。こいつは年老いた俺をあざ笑い、死の世界へと誘い込もうとしている。……イライラしてしようがない。こいつのせいで何も手に付かん。この幻聴を聞こえないようにしてもらいたい」

「幻聴ですか。先生の耳にはありもしない声や音が聞こえてきているということでしょうか。それを消して欲しいと。容易いご用でございます。承知いたしました。ですが、先生、その前に一つだけ確認させていただいてよろしゅうございますか? 先生もご存じかとは思いますが、こうした願い事が叶うことで必ずしも物事が好転するとは限りません。願い主のご期待通りの結果になるわけではないということでございます。どういう結果になろうとわたくしの悪意によるものでは決してございませんので、わたくしはその結果について一切の責任を負えません。どうぞこの点はご容赦願います。もちろん、だからと言って悪い結果になると決まったわけでもございませんが……。先生、お覚悟はよろしゅうございますか」

「覚悟か……。願いが叶って、それで万事が解決するとは限らんわけだな。それを覚悟しろ、ということか」

「そういう場合もある、ということでございます」

「結構だ。やってくれ」

 そう言って澤崎は、もう一度窓の向こうの闇を見やった。どうせ全ては幻聴なのだ。しかし、この悪魔の声も幻聴だとすれば、果たしてこの俺の願いは叶えられるのか……。

「それでは参ります。先生が消して欲しいとおっしゃっているのは、先生が幻聴と感じられている症状のことですね。それだけを聞こえなくすればよろしいのですね」

 悪魔はしつこいほどに念を入れる。澤崎は目を瞑ったまま小さく数回肯いた。悪魔が軽く口笛を一度吹く。

「はい、先生。これで先生の幻聴はなくなりました。もう奥様の声が聞こえてきたり、気配が感じられたりすることは二度とありません。ちなみにわたくしの声は幻聴ではございませんので、ちゃんと聞こえていますでしょう?」

 悪魔は澤崎の心中を見透かしたように付け加えた。澤崎は少しも表情を変えない。だからこそ、お前のその声が幻聴かもしれないのだ……。

「実は、先生に一つお話しておくべきことがございます。アフターサービスとでも言えばいいのでしょうか」

「今さら何だ?」

「先生の奥様、澤崎節子様とも以前わたくしはお会いする機会がございまして」

「なに?」

 この男、一体何を言い出すのだ。澤崎は思わず声を荒げた。

「もちろんお会いしたのは、節子様の魂をいただくご契約をさせていただいた折りのことでした。先日急な入院をなされました節子様の病室をわたくしがお訪ねし、願い事をお訊きいたしました。もちろん、三つの願い事でございます。一つ目はこうでした」

 悪魔はもったいぶるようにそこで言葉を切り、小さく息を吸ってから先を続けた。

「『もし、私があの人より先に死んでしまうようなことがあったなら、あの人が独りぼっちにならないよう何とか工夫してやってください。今さら他の人との暮らしを始められるような人ではないと思いますが、いつも誰かが傍にいてくださらないと、あの人はすぐにダメになってしまうと思います』と」

「俺が独りぼっちにならないように、誰かが俺の傍に… そんなヤツ… どこに…。おい、あの幻聴は節子の願い事のせいか?」

 澤崎の声には少し怒気を含んだ響きがあった。

「 それで、節子の声がずっと俺にまつわりついてきていた、ということか? え?  いらぬ節介をしおって……」

 悪魔の方はそんな澤崎の反応も織り込み済みだったようで、しばらく澤崎の気持ちが落ち着くのを待ってから次の願いを促した。

「では、先生。二つ目をどうぞ」

 

 

「幻聴などもういい。二つ目は、この『無題』だ。差し迫った問題はこいつだ……」

 澤崎は平静を取り戻した表情でそう返した。

「いや、アイデアをねだるほど俺も甘えはせん。そうだな、悪魔、お前にとって、『無題』とは一体どんなものだ? それを教えてくれ。これが二つ目の願いだ」

「先生、少々お待ちください。わたくし、そちらに参りますので。今からわたくしの『無題』をお見せいたします」

 声は澤崎のすぐ耳元で聞こえ、続いて澤崎の前に忽然と一人の男が姿を現した。上下黒のスーツを身につけた細身の男は悪魔に違いない。

 悪魔は口笛を二度吹くと、上着の内ポケットからスーツケースを取り出した。それは多少小振りではあるが、とうていポケットに入るサイズではない。けれど、澤崎は頓着しない。

 悪魔は丁寧な仕草でスーツケースを開ける。ドリンク剤ほどの大きさの小瓶がびっしりと収められていた。その中に魂が閉じこめられているという。それらが悪魔のコレクションなのだろう。小瓶にはラベルが貼ってあり、何か書いてある。その魂を採集した日付と場所だ。タイトルらしきものはない。

「どの魂にもタイトルはありません。あなた方人間に一人一人にお名前があって、それぞれの人生がおありだったとしても、わたくしども悪魔にとっては、どれもみな同じく、ただの人間の魂でしかありません。生まれたての赤ん坊の魂でも先生の魂でも少しも値打ちに違いはありません」

 悪魔は先ほどの言葉をまた口にした。

「それがお前の『無題』ということか……」

 そうであれば、この肉体はただの魂の容れ物にすぎないのか。次の世代へと魂を運ぶだけの、たったそれだけの存在でしかないのか。とすれば、魂を失うと言うことは……。

「それから、先生。やはり、先生にお話しておくべきことがございます」

 またしばらく間をおいてから悪魔が声をかける。澤崎はそれを機に考えるのをやめた。

「奥様の願い事の二つ目はこうでした。『本当にお恥ずかしい限りですが、この澤崎の家の経済は見た目ほど満足なものではございません。私と澤崎とがこの先、何とか不自由せず暮らせるように、どうぞお支えくださいませ』と。では、先生。三つ目を……」

 悪魔は澤崎にさらに先を促す。

 澤崎は暮らしに必要な金のことなど考えたこともなかった。全て節子に任せてきていた。十分に足りているものだと思っていた。だが、そうではなかったということか。それにしても、節子は悪魔に、恥ずかしげもなく金の無心をしおったのか……。そういえば修平が節子の保険金のおかげでしばらくは大丈夫だと言っておったが、保険の契約をしたのは、悪魔、お前だったのか? その保険金がこの俺の暮らし向きを支えているというのか? そもそも修平が俺に仕事を持ってくるのは、俺の小説に期待してのことではなかったということか? この『無題』の依頼も、原稿料が俺の小遣いになるという、ただそれだけのことか……。ひとしきり独り言を吐いた後、唸るように澤崎は言った。

「三つ目は……」

 澤崎はその先を言いよどんだ。三つ目の願いの欲深さに、それを口にするのをためらったせいもある。そしてまた、それを言いかけて、別の思いが澤崎の頭を過ぎったのもある。

 澤崎は思い当たった。そうか、三つの願い事か。すらすらと自分の口をついて出る願い事がちょうど三つあった。悪魔の言う通り、こいつを呼び出したのは確かにこの俺の方かもしれん。それで腑に落ちた。

 

 

「三つ目は……」

 澤崎は思い直して口を開いた。声が少しかすれている。

「傑作が欲しいのだ。死ぬまでにもう一花咲かせたい。俺を軽んじ、貶め、死人扱いした奴らの度肝を抜くような傑作を物したい。しばらく前の俺には、そんな欲など残ってはいなかった。だが、今は違う。こうして机に座り、真っ白な原稿用紙を目の前にすると、奴らの嘲笑が聞こえてきて、はらわたが煮えくり返っておさまらんのだ。そこにある書棚の本になど今さら何の未練もない。さあ、俺に、ここに並んでいるどの本よりも、もっと素晴らしい、まさに傑作と呼ぶにふさわしい作品を書き上げるだけの活力を与えてくれ」

 澤崎は書棚を強くにらみつけて言い放った。

「分かりました。先生さえそういうお気持ちならば、容易いご用でございます。ですが先生、くどいようでございますが、本当にお覚悟はよろしゅうございますか」

「覚悟か? そんなものいくらでもできている。傑作さえ書けるなら、いまさらもう何が起きようとかまわん。さっさとやってくれ」

「承知いたしました」

 悪魔は小さく微笑むと口笛を軽く三度吹いた。

 しばらく間があった。

 やがて、ザーという乾いた音が書斎に響き始めた。

 澤崎は最初耳鳴りかと思った。でも、違った。書棚がガタガタと動いているように見えた。目を凝らしてみる。音は確かに書棚の方から聞こえてくる。

 動いているのは本だ。

 聞こえてくるのは、書棚の本の背表紙の文字が溶けて落ちていく音だった。

 タイトルの文字一つ一つが背表紙から浮かび上がり、ふわりと淡く膨らんだかと思うと、一瞬でその色を失い、乾き、バラバラの砂粒に形を変えて落ちていく。

 タイトルを失って残るのはのっぺらぼうになった本の背中だけだった。

「ここにある本は、先生にとってもはや必要のないものばかり。今、先生のお耳に聞こえている音はこの世の中にある全ての先生の作品が消えていく音でございます。タイトルだけではございません。本に書かれた全ての文字が消えていく音でございます。澤崎三郎の本を読んだ全ての読者の脳裏からその記憶が消えていく音でございます。ああ、先生。そんなに驚いた顔をなさらないでください。先生の書かれたもの全てが消え去っても、この書棚にあった作品は先生の頭の中にだけは残っています。気を強くお持ちください。先生が一生かけて書こうとしてこられたものが何だったのか、書棚の本がなくなっても先生には見えているはずです。きっとそこから新しい活力が生まれてくることと思います。先生、どうかそれを信じてください。そう言えば、先生にとってはこれこそがまさしく『無題』ではございませんか。真っ白なページとのっぺらぼうの背表紙。どうぞ先生、お書きください。きっと先生には書けるはずです。

 

 ちなみに、先生。やはり先生にお話しておくべきことがございます…… 」

 次から次へと本から文字がこぼれ落ちていく。

「…奥様の三つ目の願いはこうでした… 私の… ことを…… あなたの…… ……  想いを……………    書いて………     」

 文字が消えていく音が大きすぎて悪魔の声は聞き取りづらい。

 もはや、澤崎の耳にはその声は届いていないのかもしれない。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「節子。書けたぞ。読んでくれ。それで良ければ修平に言って、原稿を取りに来させてくれ」

 澤崎は大声で階下に向かって叫ぶ。

 声を聞いて返事があり、階段を上ってくる足音が聞こえる。それが次第に近づいてくる気配があり、澤崎の書斎の前で止まった。

 ノックの音がした。

 

 

 先日の急な入院では澤崎もさすがに慌てたが、その心配を打ち消すような軽やかな節子の足音だった。もうすっかり良いようだ。

「まあ三郎さん、〆切りまでまだあと少し日がありましたのに。頑張りましたね。お疲れ様です」

 澤崎三郎の妻、節子はいつもながらの朗らかな声で澤崎の労をねぎらった。

 

 

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山猫🐾@森の奥へ

似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。