森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

旅行に行きたい!⑤ ~旅行一日目その4(達谷窟毘沙門堂・瑞泉郷へ)

旅行一日目8月22日。午後4時頃です。
前回は中尊寺観光を終えたところまで。
今回の記事は旅行一日目その4、達谷窟毘沙門堂・瑞泉郷編です。
私的な旅行の記録としてまとめていますので、引用や個人写真が多くて読みづらくなっている点は、どうぞ了承くださいますように。
下の赤字の部分が今回の行程になります。

伊丹空港⇒(飛行機)⇒仙台国際空港⇒(仙台空港アクセス線・東北新幹線)⇒一関①⇒(車)⇒平泉②③⇒(車)⇒達谷窟毘沙門堂④⇒(車)⇒瑞泉郷⑤(泊)

平泉観光の最初に平泉文化遺産センターを訪れたのですが、そこで見かけたお堂の写真に興味を惹かれました。達谷窟毘沙門堂です。
崖に貼り付くように建てられた姿から、「日本一危険な国宝」と呼ばれる鳥取県三徳山三佛寺「投入堂」を少し想像したのです。
けれど、写真に写されたお堂の前に建つ灯ろうのサイズと比べると、さほど大きなお堂でもなさそうでした。
平泉からこの日の宿泊地・瑞泉郷に向かう途中にあるようなので、もし時間があれば立ち寄ってみよう、とそれくらいに考えていました。

 

達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)

平泉から車でほんの十分ほどの場所にありました。
延暦20年(802年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、ここを拠点としていた悪路王(あくろおう)を討伐した記念として建てたと伝えられています。
悪路王は東国社会の伝承に登場する陸奥国の伝説上の人物で、『吾妻鏡』には蝦夷の賊首と記されています。悪来王、悪毒王、阿久留王などの表記もあり、字面からして極悪非道なイメージを持たされています。
毘沙門堂縁起にも「良民を苦しめ女子供を 拐さらう等乱暴な振舞が多く」と書かれていますが、大和朝廷の支配に組み込まれていく蝦夷の人たちの歴史を思うと、ここで言う「悪」とはどんな悪なのか、複雑な思いを抱きます。
毘沙門堂は別名を窟堂と呼ばれ「清水の舞台」の京都清水寺を模して建てられたそうです

 

蝙蝠や清水模したる窟堂

蝙蝠(こうもり)、窟堂(いわやどう)と読みます。窟堂はぴったりと背後の崖に接して建てられていますが、少し開いた隙間は蝙蝠の棲みかになっていました。

平泉文化遺産センターの写真では、灯ろうの高さからすると大して背が高くないように感じられたお堂でしたが、実は灯ろうの方が巨大すぎました。
普段見知っている灯ろうの倍くらいの高さはあったと思います。
背後の岸壁は、東西の長さ約150メートル、最大標高差およそ35メートルあるとのことです。想像していたより遥かに立派なお堂でした。

毘沙門堂西側の岸壁上部には大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏が刻まれているのですが、この写真で分かるでしょうか。
写真中央辺りが顔です。手前の立て札には「岩面大仏」と書かれています。

 

瑞泉郷

旅行一日目がようやく暮れていきます。宿到着は午後5時半頃でした。
この日の宿は「源泉かけ流しの美人の湯‐山王山温泉 瑞泉郷」というところです。
宿の磐井川に面したところに露天風呂があり、湯船からは川向うにある草生した田畑の跡が見えました。
お風呂に入った夕食前はまだ外は明るくて、草に取り込まれた田畑が元の野に還っていく姿に少し寂しさを感じました。蝉の声はまだまだ元気です。

 

草茂る畑の跡に蝉時雨

 

(Googleストリートビューから)

夕食のメインは海鮮フカヒレ鍋と前沢牛のすき焼きでした(^.^)

 

 

 

今回は2句詠みました。

蝙蝠や清水模したる窟堂

達谷窟毘沙門堂にて

草茂る畑の跡に蝉時雨

瑞泉郷にて

 

 

この続きも、きっと書きます。どうぞよろしくお願いします😅

 

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似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。