森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

旅行に行きたい!④ ~旅行一日目その3(平泉・中尊寺)

旅行一日目8月22日。時刻は午後2時頃です。
前回は毛越寺観光を終えたところまで。
今回の記事は旅行一日目その3、平泉・中尊寺編です。
私的な旅行の記録としてまとめていますので、引用や個人写真が多くて読みづらくなっている点は、どうぞ了承くださいますように。
下の赤字の部分が今回の行程になります。

伊丹空港⇒(飛行機)⇒仙台国際空港⇒(仙台空港アクセス線・東北新幹線)⇒一関①⇒(車)⇒平泉⇒(車)⇒達谷窟毘沙門堂④⇒(車)⇒瑞泉郷⑤(泊)

 

平泉

平泉、奥州藤原氏のことをはじめて知ったのは、NHK大河ドラマ『源義経』を観たときだったと思います。1966年の作品ですが、当時6歳だったわたしは弁慶立ち往生の場面に強い衝撃を受けました。放送の次の日、弁慶の立ち往生ごっこ?をして遊んだ記憶があります。
無数の刀傷を受け、全身に何本もの矢が刺さったまま、弁慶はぎょろりと目を見開いて向かって来る者たちを脅しています。そして、義経を守るがごとく両手を大きく広げて立ちはだかっています。義経が声をかけても弁慶は身じろぎもしません。そこで義経はようやく弁慶が死んでいることに気づくのです。「死んでもなお、我を守るか」義経はそう弁慶に声をかけ、覚悟を決めて持仏堂に入っていきます。
リンクをたどってもらうとその立ち往生の場面を観ることができます。

www2.nhk.or.jp

(1189年閏4月30日藤原泰衡は)500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った(衣川の戦い)。義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。(Wikipediaより)

武蔵坊弁慶を演じたのは緒形拳、主役の義経は尾上菊五郎(当時は尾上菊之助)、静御前役が藤純子でした。尾上菊五郎と藤純子はこのときの共演がきっかけで後に結婚することになったそうです。が、当時6歳のわたしの記憶は、その辺りはあいまいです。

中尊寺参道の入り口です。ここから金色堂まで800mとありますが、月見坂と呼ばれる坂道が続きます。あちらこちらに寄り道をして金色堂に着くまでに小一時間はかかりました。

 

中尊寺金色堂

蝉の声遠くに聞こゆ光堂

光堂は金色堂のことです。地上に出てきて成虫となった蝉は、あとわずか七日ほどしかない命を燃やすように鳴き続けます。今の金色堂はコンクリート製の覆堂に覆われていて、堂内では蝉時雨は微かに聞こえるばかりです。自らの短い命を蝉は知っているのでしょうか。知らない方が幸せでしょうか。その儚さと奥州藤原氏三代の栄華とを想って詠みました。

 

金色堂は、1124年に建てられた中尊寺創建当初の姿を今に伝える唯一の建造物です。風雨から守るために、鉄筋コンクリート造りの覆堂の中にあります。もとの覆堂(旧覆堂)は別の場所に移築されています。堂内は撮影禁止です。堂外からこっそり撮らせてもらいました。
ちなみに、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に描かれた「黄金の国ジパング」のイメージは、この金色堂だったそうです。

 

芭蕉翁句碑

「五月雨の降り残してや光堂」
言わずと知れた芭蕉の句です。金色堂のすぐ脇にはその句を刻んだ句碑がありました。

芭蕉が平泉を訪れたのは1689年5月13日(現在の暦で6月29日)のことです。
『奥の細道』には、こう書かれています。

兼ねて耳驚かしたる二堂(経堂と光堂)開帳す。経堂は三将(清衡、基衡、秀衡)の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝(仏教において貴重とされる七種の宝)散りうせて、珠(たま)の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽ちて、既に頽廃空虚のくさむらとなるべきを、四面新たに囲みて、甍(いらか)を覆ひて風雨をしのぐ。しばらく千歳の記念(かたみ)とはなれり。

前回の記事でも『奥の細道』の一節を紹介しました。そこでは、芭蕉は平泉を訪ねて感じた思いを「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と表現していました。すっかり姿を変えてしまった平泉の地に、往時の姿を偲びながら涙を落としたのです。けれど、この光堂には別の感慨を抱いたようです。
芭蕉が平泉を訪れたのは奥州藤原氏が滅びた五百年後のことでした。その長い年月のうちに、京に並ぶ栄華を誇っていた平泉はほとんどすべてが田畑に還り、草むらとなってしまっている。それなのに、光堂だけは違う。四面を覆堂で囲んで風雨をしのぎ、千年も続く形見として残っている。大きな時の流れに抗して生き残ってきた光堂に、芭蕉は底
知れぬ力や祈りを感じたのかもしれません。
五月雨はこの先もずっと未来永劫に光堂を濡らすことはないのです。

 

中尊寺覆堂

空蝉となりて静かに覆堂

覆堂の主は光堂でしょうか。光堂をお守りする役目は若くて頑丈な者に任せて、今はひっそりと木立の中に佇んでいます。歳はとりましたが、もともと体は丈夫に作ってもらいました。なにしろ六百年以上も光堂をお守りしてきたのですから。成虫よりも空蝉の方が丈夫なのです。

旧覆堂(おおいどう)です。鞘堂(さやどう)とも呼ばれました。芭蕉が見た光堂はこの中にあったはずです。昭和38年にこの場所に移されました。

 

弁慶堂

ご本尊は勝軍地蔵で、もとは愛宕堂と呼ばれていたそうです。明治以降に弁慶堂と呼ばれるようになり、今は義経・弁慶の木像が安置されているそうです。
弁慶がはたして実在の人物だったかどうかは分かりませんが「弁慶の立ち往生」以外にも「弁慶の泣き所」とか「弁慶の七つ道具」、「内弁慶」「泣き弁慶」など弁慶が付く言葉が今も多く残っているところが、古くから多くの人に愛されてきた人物だったことを表していると思います。清盛や頼朝が付く言葉なんて、一つも思い当たりません

 

駐車場への帰り道、青いポストがありました。

平泉の参道、帰りは下りです。駐車場周辺に並んでいたお土産屋さんには目もくれず車を発車させます。次の目的地、達谷窟毘沙門堂に向かいました。もう少しで午後4時になろうとしています。

 

 

蝉の声遠くに聞こゆ光堂

空蝉となりて静かに覆堂

中尊寺にて

 

 

この続きも、きっと書きます。ご訪問、どうぞよろしくお願いします😅

 

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似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。