今回の記事に深い意味はありません。
何かのメッセージでもありません。
山猫のつぶやきです。ただそれだけです。
考えるから生きづらくなる。
生きるということは、多分生きると考えないこと。
朝起きて水を飲んで、食べられる物があればそれを口にする。それでその日は、日が暮れるまで生きていける。
仕事があるなら身仕度して出かけよう。
仕事がなくてもとりあえず何か着て外に出よう。一度は外に出よう。
外で誰かに出会えば、無理に声を出さなくていいから少し微笑んで、会釈だけしておけばいい。不審がられない程度に。人の生き方に合わせる必要は多分ない。
仕事があるなら何も考えず、終業の時刻まで黙って仕事をこなせばいい。一日の半分までは仕方ない。
仕事が早いとか上手いとか言われても、仕事のために生きてはいけない。一日の半分は自分のために生きよう。
仕事が遅いとか下手だとか言われたら、頭を下げればいい。それでも怒鳴られるなら、そんな仕事やめてしまえばいい。やめた先のことなど考えなくていい。やめてから考えれば、多分それでいい。
次の日のことは次の日に考えればいい。次の日に悩めばいい。それで多分なんとかなる。
今日悩んでも明日悩んでも同じこと。
一日何もしなくても、一日中仕事し続けても、夜になれば腹が減る。喰う物を買う金があれば、食べたい物を食べたいだけ買ってきて食べて、それで腹いっぱいになって寝ればいい。
金がなければ水を飲んで布団を頭からかぶって明日を待てばいい。明日は必ずやってくる。
今日は今日、明日は明日。
一人になるということがどういう意味なのか。
猫が出ていって初めて分かった。いや、少し分かった。
本当に分かったのは、ネズミも出ていったときだった。
今となっては、この家にはもうわたししかいない。わたししか残っていない。
わたし一人で食事を作って食べて、風呂に入り、わたし一人でベッドに横になるのだ。猫もネズミもいない。
なんという幸せ。なんという気軽さ。なんという自由。なんという、、、さみしさ。
わたしたちは三匹そろって一人前だった。
たから、猫だけでも、ネズミだけでも引いてはいけなかった。どれか一つでも欠けてしまうとゼロになる。
そういうことだった。
こうなれば、わたしも出ていくしかない。
この家をゼロにする。そして家の外を全てにするのだ。
家の外も捨てたものじゃない。
空があり海があり山がある。そして何より猫がいるし、ネズミもいる。そこにわたしが加われば、家の外の世界に全てがそろう。家の中よりずっと素晴らしい。
世界は有か無か。この二つしかない。
それで生きていける。
それでも生きている。
多分。
よければtwitterものぞいてみてくださいね。山猫 (@keystoneforest) | Twitter
山猫🐾@森の奥へ