もうすぐ平成が終わります。
30年もあった平成が終わります。
わたしの頭の中には20代までを過ごした昭和が変わらずに鮮やかな記憶を保っています。
両親と過ごし、幼馴染みと遊んだ故郷の森の記憶です。
父が亡くなったのは昭和の末でした。
昭和という時間はどこへ行ってしまったんだろう。
時間って一体何なんだろう。
どこから来てどこへ流れていくんだろう。
今日という日はどこへ行ってしまうんだろう。
昨日はどこにあるんだろう。
明日はどこからやってくるんだろう。
そもそも時間って本当に存在するんだろうか。
そんなことをあれこれ思います。
人生の残り時間が少なくなってきた今、なおさらそれを強く思います。
広く言われているように、年齢を重ねるにつれ、時間が流れるスピードは加速していく気がします。
長男Mがもうすぐ二十歳になります。
少し前まで、わたしが差し出した手をギュッと握り返して手をつないでくれていたあの子は、手など握ってくれなくなり、わたしより背が高くなり、声も低くなり、口数は少なくなりました。
ほ乳瓶で元気よくミルクを飲んでいたのは、つい先日だったような気がします。
この勢いで時間の流れが加速していけば、平均寿命までまだ何十年も残っていると皮算用しているわたしの残り何十年かは、ほんの数か月くらいにしか体感できないのかもしれません。
油断していると、寿命の果てにある奈落の底に、あっという間に飲み込まれてしまう…
筒井康隆の「急流」という作品を思い出しました。
最初に読んだのは十代の頃でした。
ですが、あれから四十年あまり経ち、妙なリアリティをもってわたしの脳裏に蘇ってきたのです。
筒井康隆が描いた数少ない漫画作品の一コマです。
1971年に発表されたこの作品は、世紀末に向かってどんどん時間の流れが加速していく世界で慌てふためく人々のドタバタぶりを描いています。
二十世紀の最後の数年は
わずか数秒のうちに過ぎた
人びとは
ただ
あれよ
あれよと
いう
だけで
あった
(筒井康隆「急流」(『暗黒世界のオデッセイ』所収)より)
わたしの残り時間も「あれよあれよあれよ」と言ううちに過ぎてしまうのかも、、、
そう思うと、底知れない不安に襲われます。
人生の残り時間が短くなればなるほど、時間が流れるスピードは加速していく、、、ように感じるのはどうしてだろう?
この先、仕事を退職した後に、やりたいことや行ってみたいところがいくつもあります。
それらをやりきるだけの時間があるんだろうか?
わたしにはあとどれくらい残されているんだろう?
考えるうちに、どんどん脇道に踏みいってしまいました。
脇道の途中で見つけたのが「ジャネーの法則」です。
フランスの心理学者ピエール・ジャネー(Pierre Janet)が叔父の哲学者ポール・ジャネーの考えを自著『記憶の進化と時間観念(L'évolution de la mémoire et la notion du temps)』のなかで紹介し、のちに「ジャネーの法則」と呼ばれるようになった考え方です。
そこでは
「主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価される」(Wikipediaより)
と体感時間について説明しています。
つまり、年長になればなるほど年齢に占める1年の割合が小さくなっていくので、人が体感する時間の長さはその人の年齢に反比例する、ということです。
具体的には
「例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、5歳の人間にとっては5分の1に相当する。よって、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになる。」(Wikipediaより)
ということです。
幼稚園に通っていた頃の、わが家の子供たちのことを思い返します。
掛け布団を蹴飛ばしパジャマは半分めくり上がりお腹丸出し。枕か何かをギュッと抱きしめて昏々と眠っている彼ら。眠りはあまりに深くて少しくらいおでこを突っついても目を覚ましません。窓を開けて眩しい朝の陽射しを子供部屋に取り込みながら、彼らに「朝だよ」と声を掛けます。手の甲で目をグシュグシュこすりながら起き出してきた彼らを食事に、洗顔に、トイレに、お着替えに、と追い立てます。あー、牛乳こぼした。もういいよ、お片付けはいいから、早く手を洗ってきなさい。ほらほら、手を洗ったら蛇口は閉めなきゃ。またトイレ? さっき行ったんじゃなかったの? あれやこれやの大騒ぎの末にようやく仕度は調います。次は靴。右と左をようく見て履いてね。かかとは踏まないで。さあ、幼稚園バスのバス停にレッツゴー。あれ? 水筒忘れた。慌てて取りに戻ってやり直し。さあさあ急がないと。どうしたの? アリさんが行列を作ってる。アリさんたち、みんなで朝ご飯食べに出かけてるのかもしれないね。今朝のアリさんたちの朝ご飯は何でしょうね? さあさあ早く。バタバタ走ってやっとバス停に到着。そして今度は、バスを待つ間友達と帽子の取り合いっこ。追いかけて追いかけられて帽子を投げて、歓声を上げて走り回ります。ほらほら、車道に出ちゃダメ、そっち危ないよ。あーあ、転んじゃった。大丈夫? ちょっと血が出てる。痛いの痛いの飛んでけー。あ、バス来たよ。幼稚園バスには先生も乗っていて、大きな声で朝のご挨拶。見送るお母さんたちに力強く手を振って、彼らは揚々とバスに乗り込んでいきます。走り去るバスからは子供たちの元気いっぱいの歌声が聞こえてきます。♪♪ お日様キラキラ~ 今日が始まるよ~ 青空キラキラ~ 今日が始まるよ…。*゚.*.。.。*゚*.。.。*゚.*.。°
まだまだ一日は始まったばかり。
彼らの時間はわたしたち年長者と比べると、あまりに濃密です。
ネットで検索すると、年齢を重ねるにつれて短くなるよう体感される時間を、積分や対数を駆使した複雑な計算式から求めて、シンプルな数字にして説明されている方が何人もいらっしゃいました。
なかでも、(id:y_temp4)さんが作られた『Time of Life | あなたの人生の体感時間』というWebアプリは視覚的にとても分かりやすくて、結果を表すパーセントの帯が勢いよく伸びていくところが、どこまで帯が伸びていくのか、どれだけ残りがあるのか、、、
50代のわたしには、とってもスリリングで楽しめました。
このアプリでは3歳以上から時間を体感できる(記憶がある)と仮定して、残り時間を計算しているようです。
上記の記事中のリンクをクリックするとアプリが立ち上がるので「あなたの年齢」という欄に年齢を入力し「結果を見る」をクリックすると人生の残り時間が%で表示されます。
このアプリが教えてくれた主な計算結果を表にしてみました。
体感時間だけでみると、9歳のときがすでに人生の折り返し地点となっています。
たった9歳で人生の半分が過ぎたって、そんなはずない…
はじめはそう思いました。
でも、
いや、そうかもしれない、と思い直しました。
自分を取り巻く世界の全てが新鮮で刺激的に感じられたあの頃。
1年も1日も本当に長かった気がします。
そして、20歳のときにはすでに人生の7割近くが過ぎ去ってしまっていることになります。
そうです、そうかもしれません。
確かに、10代までの記憶のあれこれは、大学を卒業して働き始めてからの記憶のあれやこれやと比べるとずっと濃厚です。
働き始めてからの記憶よりも、10代までの思い出の方がどれだけ豊富であることか。
ちなみに、わたしの人生の残り時間は、わずか7%でした(^_^;
人生の残り時間が短くなればなるほど、時間が流れるスピードは加速していく。
一川誠(実験心理学専門・現千葉大学教授)は、知覚や認知に関する実験心理学の立場から、著書『大人の時間はなぜ短いのか』(大人の時間はなぜ短いのか (集英社新書))の中で、その理由を具体的に挙げて分かりやすく説明しています。
一川教授はこの著書の冒頭で
年齢を重ねるにつれ、同じ時間の長さをより短く感じるようになることは、実は、実験的研究でも見出されている傾向である。
として、人生の残り時間が短くなればなるほど、時間が流れるスピードは加速していく、という感覚は科学的に正しいと述べています。
その上で、先に紹介した「ジャネーの法則」については疑問符を付けています。
それは、科学的実験を行っておらず、直感に基づいてまとめられただけのものだからです。
同じ年齢でも人によって、年齢による時間の感じ方の変化は異なる。そればかりか、同じ個人でも、色々な要因によって、感じられる時間の長さは変わってしまうのだ。こうしたことから、どうやら、年齢は感じられる時間の長さを決定する唯一の要因ではないことがうかがえる。また、加齢によって生じる感じられる時間の長さの変化は、ジャネーが仮定した反比例的な関係よりも、ゆるやかなのである。
ここでわたしの目を惹いたのはこの最後の部分です。
「時間の長さの変化は、ジャネーが仮定した反比例的な関係よりも、ゆるやかなのである」
・・・ゆるやかなんだそうです。
ああ、良かったよかった。
わたしの人生の残り時間は、あと10%くらいはあるかもしれません(^_^)
『大人の時間はなぜ短いのか』では、大人の時間が短くなると感じる理由を次のように説明しています。
①加齢に伴う身体的代謝の低下
身体や心的が活性化しているときや代謝が激しいときには、心的時計が速く進み、場合によっては物理的時計よりも速くなる。他方、代謝が落ちているときは、心的時計がゆっくり進む。
心的時計がゆっくり進むと、例えば、物理的時計で1分経ったのに心的時計では45秒しか経っていないと感じるので、時間があっという間に過ぎたように思ってしまうことになります。
なので、加齢が進んだ人ほど時間を短く感じることになるというわけです。
②時間経過に注意が向けられる回数が少ない
退屈な会議に出席していたとする。その会議が早く終わらないかと時間の経過が気になって何度も何度も時計に注意が向く場合などは、時間がなかなか経たないような印象を受ける。
例えば、心の中で60数えて1分を計ろうとすれば、より時間を長く感じる、ということと同じでしょうか。
子供と大人との時間の感じ方の違いに関して、子供のほうが待ち遠しい行事(あるいは時間が速く経過してほしい事柄)が多いこと、それに対して、大人では日常の多くの出来事がルーチンワークとなっており、待ち遠しいことも子供ほど多くないことが関与している可能性もある。
♪もういくつ寝るとお正月~、と指折り数えて楽しみなイベントを待てば待つほどに時間を長く(時間が経つのが遅く)、もどかしく感じられる、ということでしょうか。
③広い空間は時間を長く感じさせる
より大きな空間で時間評価を行なったほうが、小さな空間での時間評価よりも長くなる傾向がある。
単純に大人より子供の方が身体が小さいとすると、建物とか運動場とか学校までの道のりとか、同じ広さの空間であっても、子供の方がそれを大きい、広いと感じることになります。
だから身体が大きくなった大人の方が時間を短く感じることになる、ということでしょう。
④脈絡やまとまりが時間を短くする
同じ長さの時間であってもその間により多くの刺激が提示されるほど、長い時間と感じられる。また、物理的には同じ数の要素からなる刺激であっても、その要素のうちのいくつかをまとまりのあるものとして知覚した場合は、それぞれの要素を独立したものと知覚した場合よりも時間が短く感じられる。
お正月、節分の豆まき、おひな祭り、こどもの日、誕生日、ハロウィンにクリスマス、、、生活の中での特別なイベントの数が大人よりも子供の方が多いことはあきらかです。
さらに、一つのイベントの中にも子供の方が多くの刺激を感じます。
例えば、お正月の朝。
「あけましておめでとう」のかしこまった挨拶、お年玉、お節料理、お雑煮、初詣、おみくじ、屋台で食べる綿あめ、、、
大人になるほどに、生活の時間を細かく区分するこうしたイベントが少なくなり、1年を一括りのまとまりのある時間としてしまいます。
これが時間を短く感じさせる理由の一つだということでしょう。
⑤そのほか
ある特定の時間の範囲の中ですべきことが多い場合、しかも、それが自分の能力の限界に近いほどのペースで作業をこなさなければならない場合は、むしろ時間はあっという間に過ぎるように感じられる。たとえば、年を取ると、身体運動能力が低下して、若いころであれば1日でできたことがこなせなくなる。このことも、加齢に伴い、1年や1カ月といった時間が思いのほか速く過ぎるように感じられる(時間の長さが短く評価される)のに関係するものと推察される。
ちなみに、2018年7月20日放送の『チコちゃんに叱られる』(NHKテレビ)では、チコちゃんからこんな疑問が出されました。
「大人になるとあっという間に1年が過ぎるのはな~ぜ?」
質問を受けたのはゲスト解答者の大竹まこと。
「私たちはもう、たくさん生きてるから飽きちゃったんだ」
「人生に飽きたさ!」
と言い切る大竹まことに、チコちゃんの「ボーッと生きてんじゃねーよ💢」の決めぜりふが炸裂☆.。.:*・゜
チコちゃんの答えは「人生にトキメキがなくなったから~」でした。
その理由を解説したのは一川教授でした。
前述した①から⑤をまとめれば、「トキメキをどのくらい感じるか」が時間の感じ方に大きな影響を与えるということなのでしょう。
つまり、人生の残り時間が短くなればなるほど、時間が流れるスピードは加速していく、のは年齢を重ねるにつれてトキメキを感じなくなっていくから、ということです。
まさに「ボーッと生きている」からこそ、時間が流れるスピードは加速していくのです。
時間が流れるスピードが加速していく理由として、もう一つ思うことがあります。
それは、意識と無意識の関わりです。
長くなりましたので、これについては、次回に書こうと思います。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
いくつもの時間が並行して流れていて、それらはすぐ隣り合わせに存在している。
わたしが想うタイムマシーンを描いた小説です。
良かったらのぞいてみてください。