森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

意識と無意識~時間について(2)

 
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長男Mが自動車の免許を取りました。

Mはこの春、大学2年生になっています。

自動車教習所を卒業してから少し時間が経っているので「運転の練習に付き合って欲しい」とのこと。

以前から頼まれていたのですが、昨日の土曜日にようやくわたしとMとの都合が合いました。

わたしの家は六甲山の傾斜地に建っていて、車庫も坂道の途中にあります。

愛車のFITは上り方向に頭を向けて停まっています。

なので、車庫から出るにはいきなりの坂道発進で車を動かさないといけません。

そして家の前の細い路地に出ると、今度は市道まで坂道をバックで下っていくのです。

路地は車1台がなんとか通れるほどの幅です。

路地の両端は溝になっています。

バックしながらハンドルを切り、市道に沿うようにFITの向きを左に90度変えていきます・・・

と、言葉で説明して、伝わったでしょうか?

その運転に助手席に座って付き合います。

助手席からみる運転操作はまったく勝手が違いました。

自分が運転席に座ったときに取る身体の動きやハンドル、アクセル、ブレーキを操作する流れのあれこれをMにうまく説明できません。

ハンドルを右に切ってアクセルを少し踏んで、、、

あ、ゆっくりゆっくり。

ハンドルはもっと大きく切らないと、、、

身体の動きを言葉にして伝えるのは、とてももどかしいものです。

どのタイミングでブレーキからアクセルに踏み換えて、ハンドルはどれくらい回せばよかったか、右に切った後はすぐに左に切って、と、曖昧な感じでしか伝えられません。

普段それらの動作はほとんど何も考えることなく、身体が勝手に行ってくれているのです。

驚くほど正確に。

それがはっきりと分かりました。

以前、左手の薬指の腱を切るケガをしたときにも同じような曖昧さを覚えたことがありました。 

 

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パソコンのキーボードを叩くとき、左手の薬指がどのキーを担当しているのか、キーボードなしでは即座に思い浮かべることができなかったのです。

ところが、キーボードに実際に触れてみると「siawase(しあわせ)」とよどみなく入力できます。

それも、指の動かし方一つひとつを何も考えずに。

いえ、、、

そんなことはありません。

どこかで考えてはいます。

考えているはずですが、意識として考えてはいません。

キーボードを叩くときの身体を動かす(操る)方法(マニュアル)が脳内のどこかにひとつの記憶として保存されていて、その記憶が勝手に手指や手首を動かしてくれるのです。

いえ、勝手に、ではなく、無意識が身体を動かしているのです。

脳科学では、身体を動かす方法の記憶を「手続き記憶」というそうです。

身体が覚えている、とよく表現されるもののことです。

自動車を運転する操作であったり、タイピングする方法であったり、スキップの仕方であったり、ピアノの弾き方なども「手続き記憶」になります。

この「手続き記憶」は大脳基底核という脳の奥側の部位が担当しています。

ちなみに、大学生になったMがまだ幼稚園に上がる前だった頃、信号待ちで停まっていた自分たちの自動車が発車するたびに「しゅっぱつ、シンゴー」と元気よく叫んだものでした。

あの頃は本当に可愛かったなぁ…

というような記憶は「エピソード記憶」と呼ぶそうです。

知覚や随意運動、思考、推理、記憶などを司っているのは大脳皮質という脳の表面部分で、「エピソード記憶」はおそらく脳のこの部位に保存されているのではないかと考えられています。

「手続き記憶」の特徴について、わたしの拙い説明は控えて、脳研究者の池谷裕二(東京大学・大学院薬学系研究科)教授による『単純な脳、複雑な「私」』から引用して紹介します。

 

 「手続き記憶」とは、簡単に言えば「方法」の記憶のことです。(中略)方法記憶には重要な特徴がふたつあります。
 ひとつ目のポイントは、無意識かつ自動的、そして、それが正確だということです。たとえば、箸の持ち方。これは無意識ですよね。意識して箸を持っている人はいますか?(中略)
 つまり、方法記憶は無意識なのです。箸を持つという些細な行為でさえ、実は、腕や手や指にある何十という筋肉が、正確に協調して働いて、ようやく実現できる、ものすごく高度な運動なわけです。
 それを無意識の脳が厳密に計算をしてくれている。その計算過程を私たちには知る由がない。計算結果だけが知らされている。だから、知らず知らずに箸を操ることができるわけです。その計算を担うのが基底核などの脳部位です。その計算量たるや膨大なものです。
 しかも、重要なことに、基底核はほとんど計算ミスをしない。箸を持つのはほとんど失敗しないですよね。正確無比なのです。
 そうした高度な記憶を操るのが基底核。だから基底核の作動は、無意識かつ自動的かつ正確だと言えるのです。これが方法の記憶のひとつ目の特徴です。
 ふたつ目の特徴は、1回やっただけでは覚えない。つまり、繰り返しの訓練によってようやく身につくということです。
 自転車も、はじめて乗っていきなり乗れることはないですよね。何度も何度も練習してできるようになる。ピアノの練習もそうだし、ドリブルシュートだって同じ。訓練しているうちにだんだんできるようになります。繰り返さないと絶対に覚えない。その代わり、繰り返しさえすれば、自動的に基底核は習得してくれる、というわけです。

(『単純な脳、複雑な「私」』池谷裕二、BLUE BACKS、講談社より) 

 

助手席に座っているわたしが、思わずブレーキを踏む動作をしてしまうほど危なっかしかったMの運転も、いずれ近いうちに無意識かつ自動的かつ正確に行えるようになることでしょう。

いつか自分の子供を助手席に乗せて「しゅっぱつ、シンゴー」と勇ましく叫びながら自動車を走らせる日が来ることでしょう。

 

わたしたちの身体は日常生活のいくつかの場面で、無意識に動いている。

確かにそれを感じます。

いえ、動かされているというべきかもしれません。

わたしは、今、リアルタイムの今、ノートパソコンでこの記事を書いています。

キーボードを叩く指先が、わたしが考えるよりも先に動いている。

Enterキーを叩いて変換を確定させると、モニター画面に文章が勝手に現れてくる。

それはわたしが本当に考えて書いた文章なのか、誰かが(脳内のどこかの部位が)勝手に思いついた内容を、大脳基底核の指令を受けた指先が意識とは無関係に入力している、のではないか?

そう感じるときが少なからずあります。

わたしは誰かに動かされているのかもしれません。

その誰かは、脳内の無意識なのかもしれません。

 

蛇足ですが、この大脳基底核の機能が何らかの原因でダメージを受けると、無動、寡動、筋固縮などの運動症状が引き起こされます。

代表的な大脳基底核変性疾患がパーキンソン病です。

 

 

少し(いえ、ずいぶん…)回り道しましたが、以下本題に入ります。

時間のことについてあれこれ考えています。

前回は「人生の残り時間が短くなればなるほど、時間が流れるスピードは加速していく。~時間について(1)」という記事を書きました。

 

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人生の残り時間が短くなればなるほど、歳をとればとるほど、時間が流れるスピードが加速していく、ように感じられるのは、一川誠(実験心理学専門・現千葉大学)教授『大人の時間はなぜ短いのか』によると、

 

①加齢に伴う身体的代謝の低下

②時間経過に注意が向けられる回数が少ない

③広い空間は時間を長く感じさせる

④脈絡やまとまりが時間を短くする

⑤そのほか(身体運動能力の低下など)

⑥人生にトキメキがなくなったから~(「チコちゃんに叱られる!」より)

 

などが主な理由でした。

これらのほか、7つ目に加えられるかもしれない、と考えたのが「無意識」です。

「手続き記憶」は経験を積めば積むほど強化されていきます。

ですので、歳をとればとるほど「手続き記憶」は強化され数も多くなり、意識せずに、無意識のうちに身体を動かすことができる場面が多くなっていく、のかもしれません。

無意識に身体が動いている間、動きにただ身体を委ねているだけだったとしたら、気づいたときにはかなりの時間が経過していることでしょう。

だから、人生の残り時間が短くなればなるほど、時間が流れるスピードは加速していくことになるのです。

 

たとえば、通勤のときを考えてみます。

スマホで音楽を聴きながら通勤します。

毎朝、テレビの時刻表示が6時20分になるのを見届けて家を出て駅まで歩いて、いつもと同じ時刻にホームに入ってくる電車に乗って、いつもと同じ駅で降りて同じ階段を上って、その先にあるバス停でバスに乗り換え、職場に向かいます。

その間ヘッドフォンを通じて聞こえてくるのは、いつものお気に入りの音楽です。

おそらく、ほとんどの行動が無意識のうちに進められたはずです。

スマホのゲームやSNSのやりとりをしていたとしても、それがことさらに意識して取り組んでいるものでないなら、音楽を聴くのと同じように、無意識のうちに時間は過ぎていったはずです。 

職場に着いたら、いつものようにコーヒーを入れて、パソコンを起動させメールチェックをして、その日の仕事内容を確認していきます。

これもまた、おそらく多くの部分が無意識に進められていくことでしょう。

夜、その日一日を振り返るとき、たとえば日記を書こうとするとき、一体何が書けるか、どんなことが思い出されるか。

浮かぶのは、今日もまた一日が終わったということと、寝室の灯りを消して眠りに就いたら、すぐに次の日がやってくるのだろう、という漠然とした思い(不安? 期待?)くらいかもしれません。

そしてやってくる次の日もまた、無意識が勝手に身体を職場まで運んでいってくれ、家に連れ帰ってきてくれるのでしょう。

ただただ毎日毎日これを繰り返しているだけかもしれません。

何も考えもせずに、無意識に。

これでは、時間が流れるスピードが加速していくのは当然です。

前回の記事で触れた筒井康隆『急流』のラストシーンを思い出しました。

無意識に取り込まれてしまわないよう、自戒をこめて再掲します。

 

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筒井康隆「急流」(『暗黒世界のオデッセイ』所収)より

 

 

また今回も長くなってしまいました(^_^;

次回は「命は自動運転かもしれない」という内容で書こうと思っています。

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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いくつもの時間が並行して流れていて、それらはすぐ隣り合わせに存在している。
わたしが想うタイムマシーンを描いた小説です。
良かったらのぞいてみてください。
 

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参考文献

単純な脳、複雑な「私」 (ブルーバックス)

単純な脳、複雑な「私」 (ブルーバックス)

 
大人の時間はなぜ短いのか  (集英社新書)

大人の時間はなぜ短いのか (集英社新書)

 
暗黒世界のオデッセイ―筒井康隆一人十人全集 (1974年)

暗黒世界のオデッセイ―筒井康隆一人十人全集 (1974年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。