森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

夏のタイムマシーン (創作短編小説)

 

夏のタイムマシーン

 

 

 

夏のある日、私は小さなカバンを一つ持って旅にでた。

ふらりと乗り込んだ電車は郊外の住宅地を抜け、いつの間にか海沿いを走っていた。

四人がけのボックス席は私と私のカバンが占領している。

カバンにはいつものコスメポーチと着替えが一組入っているだけだった。

必要なものがあれば旅先で買えばいい。

どこへ行こうか、何泊しようか、何も考えずに家を出てきた。

 

車窓に照りつける日差しはノースリーブの腕を痛いほど鋭く刺す。

それに構わずブラインドを開けたまま、私は外を眺めていた。

線路に沿って、細く長く砂浜が続いている。

海辺の砂が眩しく輝いている。

波に乱反射した陽の欠片が私の目を眩ませる。

 

風に飛ばされて持ち主とはぐれたビーチボールが、打ち寄せる白い波に漂っている。

頼りなげにゆらゆらと揺れている。

浮き輪の少女は両手を羽ばたくように激しく上下させて水飛沫をあげている。

少女の背に一際大きな波が迫ってきた。

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砂浜にいる男の子が何か叫んだ。

少女は波に煽られてひっくり返る。

しばらくして母親らしき女性が少女を海から抱えあげた。

 

海辺は歓声で満たされているに違いない。

でも、クーラーの効いた車内には波の音さえ届いてこない。

 

窓枠に頬杖をついて目を閉じる。

電車の規則的な揺れが心地良い眠りに私を誘う。

しばらくうたた寝をしていたようだ。

顔を上げると汀線が見えなくなっていた。

海はコンクリートブロックの向こうに重く沈殿しているだけの存在に変わってしまった。

車内が次第に混み合ってくる。

 

高校生の一団が乗り込んできた。

私と私のカバンをじっと見つめている。

私はカバンを網棚に上げようとしたが、いっそのこと次の駅で降りてしまおうと考えついた。

 

駅前の景色、それはたぶん私がとてもよく知っている景色だった。

風の匂いにも覚えがある。

あてのない旅のつもりだったのに、無意識のうちにこの街を目指していたのだ。

そこは、十数年ぶりに見るふるさとの街だった。

 

この街で私は十代までの大半を過ごした。

 

改札を出ると駅前の広場はバスのロータリーになっている。

私が通っていた女子校に向かうバスもここが始発だった。

私の家はここから歩いて十数分の距離にあった。

客待ちのタクシーが数台停まっているロータリーの向こうには商店街が続いている。

街を歩いてウィンドゥショッピングをしたり、駅ビルに数軒ある喫茶店のどれかに立ち寄っておしゃべりするのが私たちの放課後の日課だった。

中でも改札のすぐ横にある店のケーキがとても美味しかった。

駅のコンコースは甘い匂いに満たされている。

商店街のアーケードには見覚えのある広告がまだそのまま架かっていた。

 

ロータリーの真ん中には時計台と池がある。

その大時計が時報を鳴らすのに合わせて池の噴水は派手に水を吹き上げた。

夜はライトアップされたはずだ。

私は大時計を見上げた。

あと数分で四時になる。

バスがロータリーに着く。

授業が終わってすぐのバスに乗るとちょうど四時の電車に間に合うと友達が言っていたのを思い出した。 

駅ビルの屋上は小さな遊園地になっていた。

小学生の頃、母に連れられてよくそこに遊びに行った。

屋上からの見晴らしが最高で、よく晴れた日には隣町にある海まで見渡せた。

今もまだこのビルの背が街で一番高いようだ。

 

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噴水が吹き上げた。

時計の長針はまだ12を指していない。

いつもそうだった。

どちらの時刻が正確なのか忘れてしまったが、噴水の三十秒後に時報が鳴るはずだ。

文字盤の中央が開いて、時刻ごとに違う動物の人形が現れてくるくる舞い踊る。

四時の時報はペンギンだった。

あの頃と同じだ。

私を迎える風景は少しも変わっていない。

私もあの頃と同じままだったら、この風景に溶け込んでしまうことができるのだろうか。

私は駅から吐き出された人の流れに押されながら商店街に向かって歩いていった。

商店街のアーケードまで日差しを遮るものは何もない。

地面の熱と足早に歩く人たちの体温を強く感じて私はめまいを覚えた。

 

人ごみに紛れて少女のお下げが見えた。

大人たちは少女の存在に注意を払う気配もなく通り過ぎていく。

少女は時折立ち止まり、道端の自転車や看板の下を覗きこんでいる。

そしてしばらくすると、またとぼとぼと歩き始める。

黄色のワンピースの背中に三つ編みにして束ねた髪が力なく垂れ下がっていた。

少女は泣いているようだった。

私はゆっくりと少女の背中を追いかけていく。

正面からやってきた早足の男に弾かれて少女がよろける。

横顔が見えた。

四、五歳くらいだろうか。

奈緒子に似ている。

心臓がびくりと跳ねた。

一瞬だけ私の目が捉えた少女の頬と頤、その愛らしい輪郭が娘の奈緒子にそっくりだった。

 

――奈緒子。

彼女を亡くしたのは今年の春のことだった。

私は奈緒子と一緒に、急に降り出した雨の中を歩いていた。

買い物の帰り道だった。

夕食の食材を買って一杯に膨らんだスーパーの袋と傘を右手に持ち、左手で奈緒子の手を引いていた。

 

あめあめふれふれかあさんが……

 

奈緒子は水溜りを歩くのが嬉しいらしく、私とつないだ手を大きく振りながら何度も何度も同じフレーズを口ずさんでいた。

保育園で教わったなかでこの歌が一番のお気に入りだった。

雨脚は次第に強くなっていく。

袋の持ち手が腕に食い込む。

交差点の信号が赤に変わった。

奈緒子は雨に濡れても平気だった。

寒さなど少しも感じていないようだ。

夕食の献立は奈緒子の大好きなエビフライにした。

その日の奈緒子の機嫌の良さは特別だった。

つられて微笑んでしまうような笑顔を満面に溢れさせていた。

 

ぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん……

 

今も奈緒子の歌う声が耳から離れない。

風にあおられて傘が横に引っ張られた。

私は手を滑らせる。

傘が宙に舞う。

とっさにその柄を掴もうと私は奈緒子の手を離す。

傘が車道を転がっていく。

それを追いかける奈緒子の背中が目に入る。

傘に追いついて私を振り返った奈緒子は得意そうな笑顔を弾けさせていた。

今も、いつだって、それが瞼によみがえる。

忘れたことはない。

忘れることができない。

本当に愛らしい笑顔だった。

 

車の急ブレーキの音が夕闇を引き裂く。

奈緒子の身体は降りしきる雨の中にふわりと浮かんだ。

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小さな棺に納まった奈緒子の前で私は謝りつづけた。

――ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

あなたの手を離したのが悪かったの。

ごめんなさいごめんなさい。

お願いだから目を開いて。

お願い。

お願いだから──

 

傍で座り込んでいる夫は酒臭い息を吐きながら無言のままだった。

 

あの日以来、私たちの家から笑顔と会話が消えてしまった。

結婚してから六年、家族が三人になってからたったの四年半しか経っていなかった。

 

子供は嫌いだ。

誰を見ても奈緒子に重ねてしまう。

前を見ると、さっきの少女は人ごみの中に消えてしまっていた。

息苦しさを感じて私はその場に座り込んだ。

この数ヶ月ほどの間、ゆっくりと眠れた夜はなかった。

奈緒子が私の布団の隣に眠っていて、私が起き上がろうとすると、ぎゅっとパジャマを引っ張る。

私は布団ごと被さっていって、奈緒子をくすぐる。

きゃあきゃあ歓声をあげる奈緒子をしっかりと抱きしめる。

 

……そんな柔らかくて暖かいものがきっと私の隣にいるはずだ。

そう思いながら夜中に目を覚ます。

そのたびに私の胸はきりきりと痛んだ。

隣には誰もいない。

暖かいものなんかどこにもなかった。

 

しゃくりあげる声が聞こえた。

さっきの少女だ。

ブティックの店先でうな垂れて佇んでいた。

俯いた顔から長い睫毛がのぞいていた。

やはり奈緒子に似ている。

私は少女のお下げに手を触れた。

両手でそろりと少女の髪を抱く。

甘い匂いがした。

奈緒子の匂いと同じだった。

目の奥から熱いものがこみ上げてくる。

 

どうしたの?

大嫌いなはずの子供に私は声をかけていた。

 

いないの……

少女は震える声で答えた。


誰がいないの?


フーコがいないの

 

ふうこって誰?


きのうから帰ってこないの


昨日から?

 

早くおうちに連れて帰ってあげないと犬にいじめられちゃう


ひょっとして、フーコって猫のこと?


私も昔、猫を飼っていた。

フーコという名前だった。

兄弟のいない私にはフーコが妹のような存在だった。

私と母にしか懐かない人見知りの激しい猫だった。

他人が私の傍にいると背中の毛を逆立てて怒った。

飼い始めてすぐの頃、私のフーコは家出をした。

街中探し回った。

暑い日だった。

朝からずっと歩き回った。

確か……、公園の立ち木から下りられなくなっていたはずだった。

どこかのおばさんが一緒に探してくれた。

 

わたしとママにしかなつかないの

パパにだってフーッてうなっておこるの

 

そう、だからフーコっていう名前をつけたのよね……。

 

南公園は探してみた?


少女は首を横に振る。

私の差し出した手に少女はためらわず手を繋いでくる。

柔らかな掌の感触が心の隅にまで温かく伝わってくる。

心地良い感覚だった。よく覚えている。


一緒に行こう。

おばちゃんの手をしっかり握っててね。

絶対に離しちゃだめだよ……。

 

南公園の立ち木の上。

少女の子猫は確かにそこにいた。

私のフーコと同じ木に上っていた。

どうやってそんな高いところまで上っていったのだろう。

子猫が掴まっている枝は私の背丈の倍ほどの高さにあった。

少女が名前を呼んだが、子猫は小さく鳴き声を返すだけで、ぎゅっと枝にしがみついたままだった。

私は精一杯背伸びをして、子猫の方へ手を伸ばした。

 

おりていらっしゃい

ゆっくり落ち着いて

落っこちても絶対に私が受け止めてあげるから……。

 

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子猫は私の呼びかけに短くニャニャッと返事をすると、バリバリと木の幹に爪を立てて下り始めた。

顔はぶるぶると震えている。

ふいに後ろ足が動かなくなった。

爪が引っ掛かって抜けなくなったようだ。

子猫はじたばたと慌て始める。

激しく動いたせいで樹皮が剥がれる。

その破片と一緒にフーコは私の腕に落ちてきた。

そして腕の中でくるりと丸くなった。

 

よほど怖かったのだろう、身体中の筋肉を強張らせたまま震えている。

しばらくして子猫は私を見上げてニャアと甘い声で鳴いた。

少女が不思議そうに私を見つめている。

 

ママなの?


少女の呟く声が微かに聞こえた。

私は子猫を少女の腕に抱かせる。

 

ありがとう

 

行儀良くそう言った後すぐに少女の関心は子猫の方に奪われてしまった。

子猫に頬を寄せ、何か一心に囁きかけている。

私は服に被った木屑を払う。

顔を上げると少女の姿はなかった。

ふいに蝉の声が強くなった。

 

フーコを探したときの私の記憶も今とまったく同じだった。

あの日の私を思い返す。

フーコを探し出してくれたおばさんは母にとてもよく似ていた。

でも、お礼を言ってからどうしたのか、何も覚えてない。

それに、さっきの子猫はどうして私を見てフーッて唸らなかったのだろう。

 

過ぎ去ったこの街での記憶に想いをはせる。

この街でもう一度だけ私は母に似た女性に出会ったことがある。

十六歳の誕生日のことだった。

 

その日、私は初めて好きになった男性に別れを告げられた。

その朝、電話があった。

九時に待ち合わせていたが、まだかなり時間があったはずだ。

私は五時過ぎに起きてその日二人で食べるお弁当の仕度をしていた。

 

ごめん、今日だめになったんだ……


電話口での彼の口調は始めは軽快だった。

 

お仕事なの?

 

返事がなかった。


海へドライブに連れて行ってくれるって言ってたじゃない


私はすねたふりをして彼を困らせようとした。

ちょっと都合が悪くなっちゃって


彼の口調は次第にトーンが下がっていく。

 

どうしてもダメなの?


あのさ……

 

お弁当作ったんだ。

卵焼きが綺麗に巻けたの。

仕方ないから一人で食べようっと

 

もう会うの止めない、か?


お仕事なら仕方ない。我慢する


そうじゃなくて。俺……


彼の言葉は歯切れが悪くて、その上、声がものすごく小さくて、何を言っているのかさっぱり私には聞き取れなかった。

言っている言葉の意味も分からなかった。

その後、私が何を話したのか、彼が何を言ったのかよく覚えていない。

それから私は待ち合わせ場所に行った。

彼がきっとやってきてくれると信じて、日が暮れるまで何時間もそこに佇んでいたはずだ。

暑い日だった。

天気がとてもよくて、海はきっと冴え渡るほど青いはずだった。

ビルの窓やショウウインドゥに太陽がいくつも光っていた。

たくさんの太陽がじりじりと私に照り付けていた。

彼と似た人を何人も見かけた。

でも一人も彼じゃなかった。

 

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街にネオンが輝き始めた。

商店街の一軒一軒が色とりどりのデコレーションを際立たせ始める。

すぐ目の前にある靴屋のショウウインドゥにも灯りが点った。

一番上に飾ってある真っ白なハイヒールがライトアップされて浮かび上がる。

真珠のように優しく淡い光を放っている。

すらりと踵を持ち上げているヒールが描く滑らかな曲線が私の目を釘付けにした。

私は自分が履いているローファーに目を落とした。

踵の低さが私を余計に子供っぽくしているようだった。

おまけにこの季節に黒い色は重すぎて少しも合っていない。

暑苦しくて嫌になる。

靴の甲には横皺が何本も刻まれていた。

 

彼はこんな私が嫌いになったのに違いない。

 

不意に涙が零れた。

それはゆっくりと落ちていき、足元のアスファルトにぽつりと小さな染みを作った。

そして次から次へと染みは増えていった。

私は顔を上げられなくなってしまった。

 

彼とはその三ヵ月前に知り合った。

街角で声をかけてきたその男性は六歳年上の社会人だった。

はにかむようなその笑顔に私は惹かれた。

彼と話すことで一足飛びに大人の世界に飛び込んでいけるように思えた。

彼の持っている世界は私の知らないことが満ち溢れていた。

父以外の男性が運転する車の助手席に初めて座った。

そして初めてのキス……。

その夜、私は初めて門限を破った。

――初恋だった。

 

ショウウインドゥに飾ってあるそのハイヒールが私を大人の女性に変身させてくれるような気がした。

あの靴を履き、軽快な音をたてて街を歩けば、きっと誰もが私を振り返ってくれる。

もちろん彼も私の存在に気づいてくれる。

彼と一緒にいられたら、私はもっともっといろんな夢を見続けられる。

心が弾むような幸せを実感できる……。

 

私はショウウインドゥの前に座り込んで、ローファーを脱いだ。

素足に地面の熱がじわりと感じられた。

こんな靴なんかどこかへ捨ててしまおう。

私はローファーを手にしたまま、真っ白いハイヒールを見つめていた。

 

可愛いハイヒールね

 

背後から優しい声が聞こえた。

独り言にしては大きすぎる声だった。

でも、私に話しかけているはずはなかった。

ショウウインドゥの前を邪魔しているのだろう。

私はその女性に場所を譲ろうとした。

 

ねえ、この靴、私に似合うかしら?

 

彼女は唐突に私に向かって訊ねてきた。

 

これを履けば、とっても素敵な女性になれそうな気がする

 

彼女は私の心を見透かしたように、そう言葉をつないだ。

 

ねえどう思う?

 

彼女は私をじっと見つめて言った。

 

……ちょっと、そんな所に座ってないで

ねえ、似合うと思うでしょう?


彼女は遠慮なくたたみかけてくる。

私は渋々、そうですねえ、と曖昧な返事を返した。

それから後はよく覚えていない。

いつのまにか私は笑っていた。

笑いながら泣いていた。

たくさん涙を流した。

彼女と話していたのはどれくらいの時間だったのだろう。

私の心はすっかり軽くなっていた。

 

彼女の肩につかまってローファーをもう一度履き直した。

振り向くと彼女の姿はなかった。

いくつくらいの人だったろうか。

少なくとも今の私よりはずっと落ち着いた雰囲気を持った女性だったように思う。

その女性も母に似た人だった。

 

二つの記憶が結びつく。

 

ひょっとして……、と私は思う。
さっき出会った少女は幼い日の私で、幼い頃に私のフーコを助けてくれたおばさんが今日の私だったとしたら?

もしそうだとすれば、十六歳の誕生日に私に声をかけてくれたあの女性は、未来の私なのかも知れない。

ライトアップされた噴水が赤から青へ鮮やかに色を変えていく。

もうすっかり日が落ちてしまっていた。

――今日は私の誕生日だった。

今日で三十歳になった。

子供の頃に思い描いていた三十歳という年齢はこんなにも頼りないものだったろうか。

 

この街で途中下車しなければ、私は山間部へ向かう電車に乗り換えていたかも知れない。

終着の駅からさらに車で登れば湖がある。

そこで私はじっと湖水を見つめる。

高原の湖は夜になればかなり冷えてくる。

もしかすると私は、湖の真ん中に向かって歩いていこうとしていたかも知れない。

奈緒子の写真を抱いてそのまま水の底に沈んでいこうとしたかも知れない。

そうなっても構わないと思っていた。

いえ、きっとそうしようと決めていた。

 

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十六歳の私は未来の私からどんな風に励まされたのだろう。

肝心のその言葉を少しも思い出せない。

あの後私はとても温かで優しい気持ちに浸っていた。

大人に近づこうと焦らなくても少しも構わないんだ。

そんな思いがすとんと心の芯に落ち着いた。

だから私はローファーを履き直したんだ。


あれから私はいくつも恋をした。

そしてやはりいくつもの別れを経験した。

でも、あれからの私はなくしたものを振り返ることをやめた。

それを教えてくれたのがあの女性の言葉だった。

今の私にはその言葉を形にする力はない。

こんなちっぽけな自分自身さえ救えない今の私では誰一人励ますことなどできない。

 

でもいつか、

十六歳の私に勇気を与えてくれたあの女性になれる。

自分を信じて一生懸命前に歩いていけば、今の私には見えない答えがきっと見えるようになる。

私は心の中でもう一度あの日のローファーを履き直した。

 

私は十六歳の誕生日に彼と一緒にドライブに行くはずだった海に向かった。

もう時刻はかなり遅い。

夜空に星が瞬き始めた。

人気はほとんどなかった。

鮮やかな波の音が却って夜の静けさを際立たせる。

砂浜には流木や花火の燃えかすや、海水浴客たちの捨てていったゴミがいくつも落ちていた。

私は仄かな月明かりを頼りにそれらを拾い始めた。

綺麗な海が見たかった。

両手一杯に集めたゴミに火を点ける。

頼りない炎はすぐ消えそうになる。

私は身体で風を遮る。

微かな炎に照らされてきらりと光るものがあった。

砂に半分埋もれていたガラス瓶だった。

くっついている砂をていねいに擦り落とす。

わたしは胸ポケットから写真を取り出して中に入れた。

奈緒子の写真だ。

キャップを強く閉める。

そして、そっとそれを海に浮かべた。

 

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あれから数年が経つ。

毎年私は誕生日にふるさとの街を訪ねるようになった。

どんな風に自分が変わったのか、変わろうとしているのかまだよく分からない。

 

あの夏の日の出来事を話しても夫は笑うばかりだ。

でも私は信じている。

いつか十六歳の私に会えることを。

そして、あの時の私を励ましてくれた女性のような優しさと強さを持つ私になれることを。

あの夏の日の出来事はただの偶然だったのかも知れない。

でも、

私は十六歳の少女との出会いを信じることで、明日へ向かって跳び続けるタイムマシーンに乗ることができる。

 

この夏、私はふるさとの街を夫に紹介しようと思っている。

 

 

※本作は小泉今日子の同名の曲( 作詞:田口俊)をオマージュしたものです。 

 

 

 

 

 

 

  
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山猫@森の奥へ
似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。