森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

追憶 (創作短編小説)

 
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「親父は? 何時くらいに帰ってくるの?」

 居間のコタツにもぐりこんで、おかきを頬張りながら僕は母に尋ねた。

「お父さん? お父さんはね、今夜は夜勤。祐くんが帰ってくるから誰かに代わってもらったらって、言ったんだけど。照れくさいんじゃないの? だって、いつだったか祐くん、お父さんと二人で墓参りに行ったことあったでしょう。あの時、何も話すことがなくって、お互いに車の中でぶすっと黙り込んだままだったって、後でお父さんぼやいてたよ」

「祐くん祐くんって、もう大学生なんだから。祐樹でいいんだけど」

 母はいくつになっても僕のことを幼い頃と同じ言い方で呼ぶ。

 僕がそう返すと母はくすくす笑い出した。一体何がおかしいんだか。

「ちょっと待っててね。今探してるんだけど。どこにしまったかなぁ」

 母は相変わらずの貧乏性で、落ち着いて話をする暇もない。僕が帰省してくるなり、服の汚れを目ざとく見つけて、洗濯するしないで、一悶着あった。明日までに絶対に乾くからと言うので服を脱げば、今度は着替えがない。だからさっきから僕はコタツにもぐりこんでいる。

「あったあった。でも、ちょっと小さい?」

 母がようやく見つけてきたパジャマは僕が中学生の頃に着ていたものだった。小さいに決まってる。よくこんなものを大事にとっておくものだ。

 大学に入って街で下宿生活を始めてから、今回はこれで三度目の帰省だった。二年で三回だから、我ながら薄情なものだと思う。それに、今回はアルバイトの合間を縫って帰ってきたから、明後日にはもう街に戻らないといけない。実際、田舎にいたってすることは別にないし、退屈なだけだった。

 帰ってきて最初のうちは日頃下宿生の身では食べられないほどのご馳走をいろいろ作って世話を焼いてくれる母も、ごろごろしてばかりいる僕にすぐに文句を言うようになるし、食事にしたって母のレパートリーが無限にある訳ではない。

 故郷は遠きにありて思うもの、そばにいるとうるさくてたまらない。

 夜、僕は母と枕を並べて床についた。

 大学生にもなって母に甘えたくなった訳ではない。平屋建ての小さな家だが、わざわざ自分の部屋に一人で寝ることもなかった。一晩くらい母といろんな話をしたかった。

 僕には兄弟はいない。だから、父が夜勤の夜は、母はこの家で一人で寝ているんだ。今さらながらそのことを少し申し訳なく思った。

 雪の季節は過ぎてしまっていたが、まだまだ夜が更けるとずいぶんと冷え込む。暖房をつけていないと家の中でも吐く息が白く凍る。

 母は寒がりだった。身動きが取りづらくなるほど布団を重ねて、その中で大きな電気アンカを抱え込むようにして寝ている。嫌がる僕にも無理矢理布団やら毛布やらを被せて、ようやく安心したようだ。

 街の生活に慣れると、田舎の静けさはかえって気になって仕方がない。柱時計の音がやたらと大きく聞こえる。しばらく目を閉じたままじっと動きを止めて眠りに就こうと努力した。

 もう眠ったと思っていた母がふいにつぶやくように話しかけてきた。

「あっちはまだ寒い? ちゃんと腹巻きして寝てるでしょうね」

 僕は相槌を打つだけで、母が話すのに任せた。

 腹巻きなんか、下宿生活を始めたその日に、タンスの奥にしまい込んだまま一度も使ったことなどなかった。

「お母さんね、ずっと前のことだけど、祐くんがまだほんの小さな赤ん坊だった頃にね、こんな夢を見たことがあるんだよ……」

 母がぽつりぽつりと話し始めた。

「お母さんの隣に祐くんが寝ていてね、もうお母さんの倍くらい大きくなっているのに、すぐに祐くんだと分かって。そうそう、ちょうどこんな感じで夢の中の祐くんも髪を長く伸ばしていて……、明日散髪に行きなさいよ……。とても寒い夜でね、ちゃんと腹巻きして寝てる? って訊いたら、あんなものどこかへしまっちゃった、格好悪くって、なんて怒鳴りつけるんだよ。不思議なことがあるんだねえ。本当に、あの時もこんな感じだった。なんだか懐かしいような、くすぐったいようなおかしな気持ち」

「かあさん、それは……」

 それはきっと既視感っていう奴だろうと説明しかけたけれど、やめた。そんなこと言ったって分かってもらえやしないだろう。

 僕が言葉を切ると、母はそれきり黙ってしまった。今度こそ眠ってしまったようだ。

 僕は赤ん坊の頃の自分の姿を思い浮かべてみた。もちろんこんなに髪を伸ばしたりしていなかっただろうし、母のことを「かあさん」なんて呼びもしなかっただろう。やっぱり「ママ」って、舌っ足らずな声で呼んでいたのだろうか。

「お母さん、もう寝たの」

 なぜかしら、「お母さん」って呼んでみたくなった。

 返事はなかった。大きなあくびがでた。

 

 朝、目が覚めると、母の寝床はもうきちんと部屋の隅に片づけてあった。枕元には新聞が置いてある。母は台所で朝食の準備をしているようだ。お味噌汁のいい匂いが漂ってくる。

 僕はゆっくりと布団から抜け出した。とたんに朝の冷気が身を刺した。

「起きたの? 布団たたんで、早く顔洗いなさいよ。あ、お母さんのも一緒に押し入れにしまっておいてね」

 母の前では僕はいつまでも子供のままだった。

 父は地元のバス会社に勤めていて、週に一、二度深夜のハイウェーバス発着の手伝いをするために夜勤をしていた。朝の六時には仕事が終わるから、朝食までには戻ってこられる。

 朝食の食卓にはビールが用意してあるが、これは一日の仕事を終えた父のためのものだった。

 母には内緒だが、僕は下宿では滅多に朝食をとらない。お金がかかるし、第一準備するのが邪魔くさかった。僕は食卓の上にところ狭しと並べられた料理を見ただけで、もうお腹が一杯になってしまっていた。

 母がなんだかうれしそうな声で台所から話しかけてきた。

「お母さんね、夕べも夢を見たよ。祐くんが朝ご飯食べてるでしょう。すると二階から赤ん坊の泣き声が聞こえてくるのよ。心配になった祐くんが二階へ上がっていくでしょう。すると祐くんと可愛い娘さんが一緒に降りてきて。あれは多分お嫁さんだろうね。赤ん坊を抱いててね。赤ちゃんがミルク吐いちゃったって、泣きそうな顔で祐くんを見てるのよ。ミルクを飲ませ過ぎただけなのに、大騒ぎでね。ほら、ちょうどこんな朝だった………     」

 母の声が途切れた。

 台所の方を振り返ると、母の姿はなかった。

 流し台の向こうの窓から朝陽が差してくる。

 懐かしいような、心の安まるような気分になった。

「かあさん、かあさん、味噌汁の鍋が沸いてるよ」

 母の返事はない。

「ねえ、お母さん?」

 ゴミを出しにでも行ったのだろうか。

 

 二階から赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。

 

  

 

(了)

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以下、蛇足です。作品の内容とは一切関係ないことです。

著作権に関することですので、断っておく必要があるかと思って、付け足します。

この短編はかつてわたしが同名のタイトルで商業誌に発表した作品を手直ししたものです。今では書店で入手することはできませんが、商業誌ですので、ひょっとして万が一、どこかで目にされた方がいらっしゃらないとは限りません。発表したときのペンネームは山猫とは別の名前です。この作品をわたしが書いたと証明するものをここで明らかにすることはできませんが、誰か別の人の作品を盗用したものではありません。著作権を争うような作品ではないとは思いますが、断っておく必要があると思って、一応念のために。

ここ数回、故郷について思うことを記事に書いてきて、それでこの作品のことを思い出しました。 過去と現在と未来とは、思いを介して常に繋がっているもののような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

  
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山猫@森の奥へ
似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。