他者がいるからこそ自分は自分でいられる。
もしくは、他者がいるからこそ自分が自分であると分かる。
今回は、メイもんさんの記事・「陰陽のバランス」に刺激を受けて、頭に浮かんだあれこれを書きます。
「お互いがお互いを成り立たせている」、、、相手がいないと自分の存在も成立しない。相手がいるからこそ自分は自分でいられる。自然界はそんなバランスで成り立っているのですね。 / “陰陽のバランス ( ポエム ) - うたと からだと…” https://t.co/KzpWjpH55U
— 山猫🐾 (@keystoneforest) 2018年9月8日
他者がいるからこそ自分は自分でいられる。
もしくは、他者がいるからこそ自分が自分であると分かる。
ここでの他者はどんな人であってもかまわない。
自分とまったく意見が合わない人でいいし、何かにつけ趣味があう人であってもいい。
親であってもいいし、子供であってもいい。
でも、できれば自分には理解できない考え方をする人であれば一番いい。
どこかに違和感を覚えたり、何かに不快を感じたりする人であればいい。
自分はその人の一体どの部分が自分と合わないと感じているのか、その人をつぶさに観察することで、その人と自分とが違っている部分を探ることができ、結局はそれで未熟な自分を知ることができるように思う。
わたしはここで、その他者を一個人に特定しているわけではない。
観察する他者は何人いてもかまわない。
Aという他者と自分との関係性から知ることができる自分、Bという他者と自分との関係性から知ることができる自分、Cという他者と自分との関係性から知ることができる自分。
おそらくそこから知ることができるそれぞれの自分は、決して一つではないはず。
何人もの自分が集まってやっと一人の自分になっている。
何人もの他者がいることで自分は自分になることができる。
そんなふうに思います。
他者との対比の中で浮かび上がってきた自分は、果たしてその他者とどれくらい違った存在なのでしょう。
どちらかが正しくてどちらかが間違っている。
そんなこと誰にも決められません。
右があるから左があって、上があるから下がある。
ただそれだけのことなのかもしれません。
どちらか一方だけが存在することはできません。
右と左があって、上と下があって、他者がいて自分がいることで、他者と繋がることで、世界はかたち作られていくはずです。
その中で自分と他者とは対峙するものではないはずです。
他者がいるからこそ自分は自分でいることができます。
存在を否定したいほどの他者が身近にいるとすれば、それはお互いにとって大きなチャンスなのかもしれません。
自分と考えが合わない人を批判したり遠ざけたりすることより、その人との折り合いをつけようと自分を変えていくことの方が、得られることは遥かに多いはずです。
他者がいるからこそ自分は自分でいられるのだと思います。
そして、他者がいるからこそ自分は自分を変えられるのだと思います。
きっと。
今日の記事は メイもんさん (id:meymon) の記事に書かせていただいたブックマークコメントを元にしました。
いつも、ありがとうございます。