森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

他者がいるからこそ自分は自分でいられる。 **ブックマーク・ツイートから** 山猫ノート25

 
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他者がいるからこそ自分は自分でいられる。

もしくは、他者がいるからこそ自分が自分であると分かる。

 

 

今回は、メイもんさんの記事・「陰陽のバランス」に刺激を受けて、頭に浮かんだあれこれを書きます。

 

 

 

他者がいるからこそ自分は自分でいられる。

もしくは、他者がいるからこそ自分が自分であると分かる。

ここでの他者はどんな人であってもかまわない。

自分とまったく意見が合わない人でいいし、何かにつけ趣味があう人であってもいい。

親であってもいいし、子供であってもいい。

でも、できれば自分には理解できない考え方をする人であれば一番いい。

どこかに違和感を覚えたり、何かに不快を感じたりする人であればいい。

自分はその人の一体どの部分が自分と合わないと感じているのか、その人をつぶさに観察することで、その人と自分とが違っている部分を探ることができ、結局はそれで未熟な自分を知ることができるように思う。

わたしはここで、その他者を一個人に特定しているわけではない。

観察する他者は何人いてもかまわない。

Aという他者と自分との関係性から知ることができる自分、Bという他者と自分との関係性から知ることができる自分、Cという他者と自分との関係性から知ることができる自分。

おそらくそこから知ることができるそれぞれの自分は、決して一つではないはず。

何人もの自分が集まってやっと一人の自分になっている。

何人もの他者がいることで自分は自分になることができる。

 

そんなふうに思います。

 

 

他者との対比の中で浮かび上がってきた自分は、果たしてその他者とどれくらい違った存在なのでしょう。

どちらかが正しくてどちらかが間違っている。

そんなこと誰にも決められません。

右があるから左があって、上があるから下がある。

ただそれだけのことなのかもしれません。

どちらか一方だけが存在することはできません。

右と左があって、上と下があって、他者がいて自分がいることで、他者と繋がることで、世界はかたち作られていくはずです。

その中で自分と他者とは対峙するものではないはずです。

他者がいるからこそ自分は自分でいることができます。

存在を否定したいほどの他者が身近にいるとすれば、それはお互いにとって大きなチャンスなのかもしれません。

自分と考えが合わない人を批判したり遠ざけたりすることより、その人との折り合いをつけようと自分を変えていくことの方が、得られることは遥かに多いはずです。

他者がいるからこそ自分は自分でいられるのだと思います。

そして、他者がいるからこそ自分は自分を変えられるのだと思います。

きっと。

 

 

  

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今日の記事は メイもんさん (id:meymon) の記事に書かせていただいたブックマークコメントを元にしました。

いつも、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

  
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山猫@森の奥へ
似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。