森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

風を見た日 (創作短編小説) 1/4

 
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 ※今回の創作「風を見た日」は原稿用紙換算で30枚くらい、文字数は1万1千字ほどです。区切りが良いところで分けて、4回連載という形で掲載させていただきます。分割することで、読みづらくなることがあるかと思いますが、よろしくお願いします。

 

 

 

 

風を見た日(第1回)

 

 小鳥の囀りが聞こえる。話し声のように聞こえる。一羽が喋り、もう一羽が相づちを返す。

 布団にくるまったまま私は少しだけ笑ってみる。声を出して笑ってみる。

 でも、誰も一緒に笑ってくれない。

 雨戸の隙間から明かりが差し込んでくるのが見える。小鳥はその向こう側で鳴いている。窓の正面にある桜の枝の上で遊んでいるようだ。このところ毎朝、その囀りが目覚まし代わりになっている。

 目は覚めたが、身体中が重い。昨夜は咲子のことがいろいろと思い出されて、遅くまで寝付けなかった。何度も寝返りを打って、ようやく寝入ったと思えば、もう朝が来ていた。

 今日、四月十日は、妻、咲子の一周忌だった。

 

 枕元に置いている咲子の写真に目をやる。

 咲子はいつもと同じ表情で、こちら側をじいっと見つめている。

 私は目を閉じて耳を澄ます。小鳥たちは相変わらず賑やかに囀っている。

 やはり、咲子の声は聞こえてこない。

 私は写真立てを手に取り、ベッドの傍の旅行カバンにそれを詰め込みかけて、やめた。

 カバンには今夜から始まる新しい暮らしに必要なものを入れている。この写真はやはり、持っていくものではない。

 寝室を出てリビングの窓を開けた。

 途端に、勢いよく風が吹き込んでくる。まだ少し肌寒い空気が眠気の残る身体に心地いい。桜並木の若葉が右から左へと波打つように順々に揺れていった。東の空はすでにもう充分に明るい。

 引っ越していく私に、今日の空は優しすぎる。

 駆け抜ける風は花びらを散らせ、流れる川は落ち葉を運ぶ。東から昇った陽は、迷うことなく西へ沈んでいく。咲子を失っても、この三百六十五日、世界は少しも変わることなく動いてきた。結局のところ、何一つ変わらなかった。

 たとえば、私自身がそうだった。涙は乾き、眠れぬ夜はいつか遠い記憶になってしまった。

 この街に越してきたのは、ちょうど今日と同じように穏やかな春の一日だった。

 バルコニーからお花見ができるね。

 咲子はこの部屋を一目で気に入った。バルコニーのすぐ正面に見える桜の枝先には、まだ小さな固い蕾がいくつも顔をのぞかせていた。桜は彼女が一番好きな花だった。

 南向きに建つ、このマンションの向かいに桜の並ぶ一角があり、そのもう一つ先には公園のクスノキがあった。クスノキの足元に整えられた花壇は、春の花々に植え替えられたばかりだった。運び込まれた真新しい家具は、部屋の色にまだ少しも馴染んでいなかった。

 ここに引っ越してきたその日がつい先日のことのように思える。

 窓から見える桜の木々は、勢いよく萌え始めた緑を陽春の中に精一杯広げている。

 いや、一本だけ違った。

 他の桜から置いてけぼりを食ってしまったように、花も葉もつけない木があった。まだ冬の眠りから覚めていないのか、それとも害虫にやられて枯れてしまったのか、その桜は裸のままの枝を寂しく震わせて立っていた。

 咲子が逝った去年は春の到来が遅く、四月を迎えてもいっこうに桜が咲く気配はなかった。

 ようやく蕾がふくらみ始めたのは、学生たちの新しい一年が明けようとする頃だった。しばらくして桜は駆け足で咲きそろい、そして、飾りたてたような満開の花が不意の風に散らされたあの日、それを病室の窓から眩しそうに眺めながら、咲子は息を引き取った。彼女の命を奪ったのは癌だった。

 去年の年明け早々、咲子は腹部の異状を訴えた。付き添って訪れた病院で、医師は私一人を呼び、余命は数ヶ月だと告げた。

 翌日からすぐに入院となった。

 入院準備のために帰宅した夜、私は咲子に医師の言葉をそのまま伝えた。その日の昼間はあまりに突然すぎて、彼女にうまく事情を説明できなかったからだ。

 病名と、医師が想定した余命と、癌細胞の浸潤がすでに手術では手の及ばない状態にいたっていることと、病院では抗癌剤の投与が主な療法となることと。

 私の言葉を咲子は一つ一つ頷きながら聴いていた。私は訊いてきたすべてを、咲子の顔から決して目をそらさずに伝えるつもりだった。

 しかし、入院しないという選択肢もある、と言った後に、でも、治癒の可能性はゼロじゃないんだ、と言い添えようとして、一瞬、視線を落としてしまった。

 ありがとう。隠さずにちゃんと教えてくれて、ありがとう。

 しばらく何か考え込んでいる様子だった咲子はそう言って、入院することを選んだ。

 ありがとう、という言葉。あの時から一体何度、それを聞いただろう。医師や看護婦たちにはもちろん、見舞いに来てくれた友人たちや、毎日顔を合わせていた私に対しても、機会があるたびに咲子はその言葉を口にした。

 入院生活が始まると、もともと細身だった咲子が、見る間にその身体を軽くしていった。やがて髪が抜け落ちるようになった。

 それを白布に包んで私に見せ、

 ほら、こんなに。

 と、咲子は小さく笑った。

 栗色の長い髪が幾筋も丁寧にそこに束ねられてあった。私はそれをもう一度包み直し、カバンにしまった。

 去年の三月二十八日、咲子は病室で二十九歳の誕生日を迎えた。桜の蕾が春の陽に向かって、まさに膨らもうとする瞬間に彼女は生を受けた。だから咲子と名付けられたと聞いている。

 そしてその桜が散り始めた日、緩やかに舞う花びらに誘われるようにして咲子は息を引き取った。

 結婚してまだ日が浅かった私たちに子供はなかった。膨大な時間をかけて咲子に受け継がれてきた彼女の遺伝子は、ここで途絶えた。

 咲子が言い残した言葉が一つある。

 最期の誕生日の朝、彼女はこう言った。

 明さん、ねえ、笑わないで聞いてね。

 その声はいつもと変わらず優しかったが、表情に笑みはなかった。

 三十歳の誕生日に、……ええ、来年の私の誕生日のことよ。 

 夢で見たの。

 明さんが買ってきてくれたバースデーケーキを食べきれずに私は困ってるの。ふんわりと盛られた真っ白な生クリームの上にサクランボが乗っていて、瑞々しくて、見てると涙がでてきちゃった。

 食べるのを手伝ってって頼んでも、明さんは何も言わずに笑っているだけ。私の口元を意地悪そうにじいっと眺めてる。いくら食べても少しもケーキは減らなくて、胸がいっぱいなの。 

 それでね、私、わかった。

 きっとそのケーキを私は食べることができないんだって。目の前にあるケーキにも、明さんにも、たぶん私は触れることはできないんだって。

 彼女の声が少し震えた。

 あのね、それだけでいいよ。

 三十一回目からはもうそんなことしなくていいからね……。

 

 最後の方は咲子の声がかすれてよく聞き取れなかった。

 とっさのことで、私はそれを訊き返せずにいた。でも、確かに彼女の唇はそう動いた。

 彼女はそれ以来その話に触れなかったので、ついに私は訊き返すきっかけを失ってしまった。咲子を亡くしてから何度もその言葉を思い返した。あれ以上訊ねなかったことを悔やみもした。でも今は、訊いたところで仕方がないことだったと自分を納得させている。

 

 

(風を見た日2/4 へ続きます)

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第2回目です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  
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山猫@森の奥へ
似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。