森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

震災通信(阪神淡路大震災体験記)後記 1/5

 
 
f:id:keystoneforest:20170801214436p:plain

 

 

 

 わたしは阪神淡路大震災の翌春、大阪文学学校という文章教室に通い始めることにしました。そこには、文章について学ぶというより、小説について語り合える仲間たちと、時間と空間とを共有できる面白さがありました。もちろん、お酒を飲みながらそれを味わうこともできました、、、(^_^)
 その教室に2年通い、知り合った仲間たちと小説同人誌を作るようになりました。1997年4月から2008年8月までの間に、3つの同人誌・28冊の発行に関わりました。小学生の頃から書くことが大好きでしたが、それが生活の一部になったのは、震災がきっかけでした。
今回、ブログに連載した『震災通信』は、2004年11月10日発行の同人誌に掲載した作品です。
 ですので、以下は、2004年11月の視点で書いた文章です。そのまま再掲していますので、時系列的に読みづらい部分もあるかと思いますが、どうぞご容赦くださいますように。

 

 

 

 震災からやがて十年が過ぎる。私は今の職場(※南蛮美術館)で十一年目を迎えた。学校現場(※わたしの本職は学校教員です。美術館に異動する前は、学校現場に十年間勤めました)で過ごした年数をこれで上回ってしまったことになる。
 地震直後に私の中に沸き起こった高揚感は、あの後の二カ月ほどの入院生活から戻って以降、再び私を強く衝き動かすことはなかった。区役所で一緒に働いた市の職員の人たちとは、その後会うことはなかったし、教師時代の友人たちと飲む機会も、このところめっきりと減ってきている。震災以降、市の財政事情は悪化する一方で、広報誌の刊行も中断が取り沙汰されていた。仕事の面では、私は年々曖昧な存在になってきている。
 あの入院以来、市の職員定期健診に加えて、毎年肺の精密検査を受けてきた。受診カードの「胸部X線」欄には、今年も「右下野胸膜肥厚」と書かれている。結核は戦後しばらくまでは、日本人の死因の第一位を占める疾患だった。それが今なら、薬で比較的容易く治せる時代になっている。だから、あの時の私の入院生活は、一昔前ならもっと身近にあったかもしれない死の気配など一切感じさせないままで過ぎていった。それどころか、退屈という幸せを、充分すぎるほどに味わい尽くせた二カ月だった。
 入院中に一度だけ、その退屈が打ち破られたことがあった。平成七年三月二十日、東京で地下鉄サリン事件が起きた日だった。テレビから伝えられる映像に私は釘付けになった。
 千葉の友人I淵
(※高校時代からの親友)が転勤すると言っていた八重洲支店と、事件が起こった霞ヶ関駅とはすぐ傍だ。結核病棟の公衆電話から、私は彼に安否を訊ねる電話をかけた。幸いにも、彼がすでに出勤した後に事件が起こっており、危うく難を逃れたとのことだった。
 どこにでも死は潜んでいる。病室のベッドで、私は取り留めもないことをあれこれ思った。

 今年
(※この文章を書いたのは2004年でした)の精密検査で診てくれた年配の医者は、三枚のレントゲン写真を見比べながら、今回でもう終わりにしましょう、と判断を下した。今年のものと昨年、一昨年の写真が並べてある。誰が見ても、右肺下の癒着部分に全く変化がないのが分かる。
 もうこなくていいということですか、と私が重ねて訊ねたのに対して、医者はうなずきながら、おそらくこれ以上変わらないよ、と言った。そして、これくらいの人は百人診れば必ず数人はいる。いちいち追跡して検査してたらキリないよ、とやんわりと言い添えた。今はそんな時代になっている。
 いったん萎んだ胸膜がなかなか元に戻ってくれなくて、他の人と比べれば少しいびつな形をしたままだが、これが私の肺の形、ということだ。
 震災の後しばらく大事に抱え歩いていた貴重品を詰めたカバンには、日記や小説を書き留めたノート類も入れていた。私はそれを病室にも持ち込んだ。決して虚勢を張って言うのではなく、命は別として、家が多少傷んだことなど大して気にはならなかった。
 このカバンの中のものが失われなかっただけで私には充分だ。自分にとって一番大切なものはここにある。ベッドの上でそれらを読み返しながら、そうした思いは確信めいたものになっていった。
 日記は主に中学高校の頃に付けていたものだ。ノートには、学生の頃一人暮らしの下宿で、暇に飽かせていろんな言葉を書き付けた。ページを開けば当時の自分がすぐ隣に降りてくるような気がする。
 喋ることで思いを伝えるのがあまり得意でない私は、文章を書く時だけは饒舌になれた。就職したのを機に諦めてしまっていた、書くことで得られる愉しさをもう一度味わってみようと思った。
 三十代半ばから四十代半ばに至るこの十年のうちに、私はいくつかの大切な出会いを経験した。それは多くが、書く、という行為が引き合わせてくれたものだ。
 震災の翌年に通い始めた大阪にある文章教室で、一人の女性と同じクラスになった。その出会いのおかげで、私は彼女とつながる多くの人たちとも知り合うことができた。そして、息子たちと出会うことができた。
 私の最初のメール友達である因幡さんは、今、仕事の傍ら、人の手で育てられたコウノトリを野生に返す活動に取り組まれている。私が今回震災の記録をまとめるに当たって、因幡さんからいただいたメールを使わせてください、と相談したことに対して、先日こんなメールをもらった。
「自分の好きなことを見つけて、それをやっていくということがとても大切だと思いますが、多くの人は見つけられなかったり、仕事や家庭やで忘れてしまったり、、、
僕ももう少しで一生棒に振ってしまうところでしたよ。ちょっと大げさですが。」

f:id:keystoneforest:20210307210404j:plain

 因幡さんが見つけられた大切なものがその活動だった。取りまとめをされているボランティアグループのホームページには、学生時代と少しも変わらない、その人の温かい笑顔があった。

 

 

 

 ※下のリンクは震災当日の記録です。 

www.keystoneforest.net

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
よければtwitterものぞいてみてくださいね。山猫 (@keystoneforest) | Twitter
 

f:id:keystoneforest:20180211232422j:plain

イラスト/バリピル宇宙さん (id:uchu5213)