森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

空知らぬ風 (創作短編小説)

※以前5回に分けて投稿した作品ですが、投稿後、作品を読んでくださったミチコオノ(id:fukaumimixschool)さんに咲を描いていただきました。その絵の掲載をミチコさんに快く承諾していただいたので、作品の読みやすさのためと、自分用の記録として、咲の絵を含めた記事として改めて1つにまとめました。そして、投稿した際にお寄せいただいた感想コメントと、この作品に触れて書いてくださったミチコさんの記事(のリンク)を末尾に掲載させていただいています。感想を読ませていただくことはとても励みになりますし勉強になります。ブックマーク、コメントをくださった方々、そしてミチコさん、ありがとうございました。

 

 

 

 

空知らぬ風

 

 

 

男たちがまだ頭に髷を乗せていた頃の、ある年の初秋のことだった。

畑仕事の後、夕餉の支度に、裏庭の井戸まで水を汲みに出た妻の咲が、なかなか戻ってこない。

正吉が探しに出てみると、咲は井戸の陰で釣瓶を抱いたまましゃがみこんでいた。

口を押さえ、ひどく咳をして喘いでいる。

正吉はその身体を抱え上げようとして咲の手をとった。

ぬるりとした感触があった。

それが赤く見えたのは、夕日のせいばかりではなかった。

 

じきに稲刈りがはじまった。

刈り入れから稲こき、籾摺りとつづく年中で最も忙しい時期を、すっかり綿が薄くなった布団の中で、いや、その布団に隠れるようにして咲は過ごした。

以来ずっと寝付いたままだった。

夜中もかまわずひどい咳が襲ったが、正吉や姑を起こさぬよう、歯を食いしばり頭まで布団を被って、咲はそれをこらえた。

 

働き者だった咲が寝込んだことに、最初のうち、姑である正吉の母親のフジも、無理を頼んで手伝ってもらっていた親戚もみな寛大だった。

けれど病が長引くにつれ、嫁である咲を見る目は次第に厳しくなっていった。

なかでもフジは、「この歳になると、少し寝たくらいでは、なかなか疲れが抜けなくてねぇ」などと、わざとらしく声に出してみては、意味ありげなため息をついたものだ。

 

正吉は、フジにそれ以上嫌味を言わせたくなかった。

咲の分も働き、またその合間を縫って、咲の看病にも懸命につとめた。

 

秋の終わり、正吉はつてを頼って、評判の医者に町から来てもらった。

礼に渡せるものなど何もなかった。

冬の間、三月ほど力仕事をして、それに代えるつもりだった。

駕籠に揺られてやってきたその医者は咲をろくに診てくれもせず、小半時もしないうちに帰り支度をはじめた。

せっかく煎れた茶に口もつけていない。

「春まで保つまい」

医者は玄関口で立ち止まり、思い出したようにぼそりと告げた。

見立ては、やはり肺病だった。

しかもかなりひどいらしい。

まさか、そのせいで早々に逃げ出そうとしたのではないか、そんなことを思わせるほど、医者の態度は素っ気なかった。

「何か薬はございませんか」

戸口を出て行く医者の背中に、深々と頭を下げた後、正吉はようやく一言、そう声をかけた。

「お前様は、小判というものをご覧になったことがおありか」

答える代わりに、医者は振り向きもせず言った。

正吉はそれ以上もう何も訊く気になれなかった。

 

畑仕事から戻ったフジは、その夜、咲に聞こえるのもかまわず、吐き捨てるように言った。

「帰しておしまい。お前にまでうつったらどうするつもりだい。それに、これ以上あんな嫁に食わしてやる米など、家にはないよ」

正吉はとっさにフジを突き飛ばしてしまいそうな衝動に駆られた。

そんな思いが沸き立ったのは初めてのことだ。

けれど、正吉はなんとかその思いを抑えつけた。

固く握りしめた拳の震えが止まらなかった。

正吉は暗い目でフジをじっと睨みつけた。

「だけど、仕方ないじゃないか」

そう言ってフジはぷいと外へ出て行った。

戻ってきたのは夜がすっかり更けてからだった。

月明かりに見えたフジは腫れぼったい目をしていた。

 

次の日から、自分をいじめるように、さらに正吉は働いた。

フジはもう何も言わなかった。

けれど、それ以降決して咲の傍には寄りつこうとしなくなった。

 

f:id:keystoneforest:20171127215021j:plain

 

 

年が改まった。医者に診てもらってからすでに三月目に入っていた。

あと少し働けば、借りも返してしまえる。

けれど、咲の容態は芳しくない。血を吐く頻度が日に日に増してきていた。

 

村に、年が明けて初めての雪が舞った。

咲はもう三日ばかり高熱にうなされつづけ、意識が戻らないでいる。

頬はこけ落ち、窪んだ眼窩を縁取る翳りが痛々しかった。

眠りどおしだった咲は、その間、正吉が無理に口に流し込んだ粥を少しとっただけだ。

嫌な夢ばかり見るのか、喘ぐような息をしながら、幾度もうなされていた。

 

正吉さん……。

 

ひどく咳き込んだ後で、咲は意外なほど大きな声で正吉の名を口にした。

正吉は寝言かと思い、咲の額に乗せた手拭いを新しく絞ったものに取り替えようとした。

その時、不意に咲が目を開けた。

「正吉さん? そこにおいでですか」

咲の瞳はまっすぐに正吉の目をとらえた。

吸い込まれそうだ、と正吉は思った。

生気のない咲の顔で、そこだけが異様なほど深い輝きをたたえていた。

「ああ、いるよ。咲、私はここにいるよ」

「よかった……」

深く吐息をついて、咲はつづけた。

「咲は、夢を見ておりました。次の春の卯月八日の花祭りの夢です」

「おお、桜餅を食い過ぎた夢でも見たか」

正吉が混ぜっ返す。

「正吉さん、よしてください。いつまでも子供扱いしないで……」

「……次にその日が来れば、咲は二十二になります……」

「……正吉さんは、お祝いに両手に抱えきれないほどの野の花を集めてきてくださいました……」

「……卯の花、菜の花、仏の座。山吹、蒲公英、桜草……」

 

咲は指折り数えながら、遠い昔のことを思い出すような顔で言う。

「咲は、お花の山にうずもれてしまいそうでした。どこで摘んでこられたのか、お尋ねしても、正吉さんは何もおっしゃいません。静かに笑っておられるだけでした。咲は正吉さんのその笑顔が大好きでした。それからしばらく、二人でお花を見ていました。……けれど、不思議なことがありました。あんなにたくさんのお花が、少しも匂ってまいりません。それだけではありません。『正吉さん』とお呼びしても、声が届かないようです。何度お呼びしても、一向に気づいてもらえません。よく見れば、正吉さんのお口が動いていて、何かおっしゃっているようなのです。ですが今度は、一言も咲には聞こえてまいりません。咲の耳が聞こえなくなってしまったのかと、最初は思いました。でも、そうではないようです。それで……、分かりました。咲は音のしないところにいるのです。……溢れるほどのお花、ありがとうございました。夢の中で咲が申したかったのは、お花のお礼でした。咲にはもうそれだけで充分です。本当にありがとうございました。でも……、その次からは、咲のことなどお忘れください」

 

真剣な表情でそんなことを言うものだから、正吉は咲が何の話をしているのか、まるで意味が分からなくなってしまった。

意識が乱れはじめたのではないか、そんな思いが頭をよぎった。

 

それを打ち消すように、正吉は明るい声で咲に話しかけた。

「夢の中でしたことに礼など言うな。そんなことより、どうだい気分は? 顔色がずいぶんよくなったね。これだけ話せるようになれば、大丈夫、もう大丈夫だ。峠は越した」

「いつまでも……、難儀ばかりおかけします」

「ああ、難儀難儀。でも、まあいいさ。気にするな、咲。のどが渇いたろう、これをお飲みなさい」

正吉は言いながら、湯飲み茶碗を咲の前に差し出す。

 

一口飲むと、咲はとろけそうな笑顔になった。

白湯の上に薄紅色をした小さなものが浮かんでいる。

塩漬けにされていたそれは、湯に浸されて気持ちよさそうに五枚の花びらを広げていた。

「良い薫りがいたします」

咲は横になったまま、頭だけ正吉の方にもたげて、ゆっくりとそれを飲み干した。

 

その様子を見て、正吉は何度も大きくうなずいてみせた。

「うまいだろう? 咲の大好きな桜湯だ。草右衛門の家で作っていたのをもらってきた」

正吉は目を細めて、うれしそうに咲の表情を見つめている。

そのくせ、今にも咲が弱気なことを言い出すのではないかと不安だった。

その隙をつくりたくなくて、言葉を継いでいく。

 

「いつまでも家の中にいてばかりでは気が滅入る。ほら、見てごらん。外は雪だ」

正吉は着ていた綿入れを脱いで咲に羽織らせると、戸を少し引いた。

開いた隙間から冷気が流れ込んでくる。

 

地面にはすでに白いものがうっすらと積もっていた。

陽は雲に隠れて見えない。

閉め切った部屋にずっといた二人には、それでも眩しいほど外は明るく見えた。

肌を刺す冷えた空気の中を粉雪がひらりひらりと落ちてくる。

風はやんでいるようだ。

二人は肩と肩を寄せて、しばらく何も言わずにそれを眺めていた。

 

「散っていくように見えます」

ぽつりと咲が言った。

正吉はその言葉に不吉なものを覚えて、とっさに何も返せなかった。

「咲が生まれたのは、卯月八日の花祭りの日の朝でした。父は咲が生まれてくるのを待ちながら、庭の桜を見ていたそうです。するとそちらの方で、きらりと光るものが見え、それと重なるように咲の産声が聞こえてきたのだそうです」

 

卯月八日、旧暦の四月八日は釈迦の生まれた日とされ、灌仏会(かんぶつえ)という、仏像に甘茶を灌ぐ法会が催される。

民間の行事としては、この日を花祭りとか、花の日とか称し、庶民は野や山、磯辺に出かけ、皆で飲食を共にした。

 

「光は、咲きはじめた蕾の内側から差してきたと、父は譲りませんでした。けれど、母はついにその話を本気にしないままでした」

「ああ、そうだった。だからお前は『咲』と名付けられた」

正吉の言葉に咲は頷いて、後をつづける。

「その日は、穏やかに風が流れる暖かな日で、一つ目の蕾が開いたのにつづいて、星が瞬くようにあちらこちらで光が見えた。そして、次々にどの枝の花も咲きはじめ、見る間に桜の木々が満開になってしまった……。そんな戯れ言のようなことを父は申しておりました」

「咲、もうあまりしゃべるな。身体に毒だ」

それは、正吉も何度か聞かされた話だった。

少し自慢気に話す義父の顔が目に浮かぶ。

けれど、その義父も義母もすでに亡く、確かめる術はない。

咲はどうしてこんな話を今さらながら私にするのだ?

正吉はその先を聞くのがためらわれた。

 

二人が一緒になってから、まだ数年しか経っていなかった。

赤子もまだない。

夫婦の契りを交わしたのは、咲が生まれた日と同じ花祭りの日だった。

二人で野に出かけ、満開の桜の花の下で、白い米の握り飯をいくつも食べた。

あの日も本当にいい天気だった。

たったそれだけのことが、今日までで一番の贅沢だった……。

 

振り返れば、二人で共にできたことよりも、できなかったことばかりが浮かんでくる。

「でも、花はいつか散ります。咲は……、もう長くはないのでしょう?」

咲の声が低くなった。

正吉の方を見ずに言う。

「そんなことがあるものか。じきに治る。気弱を言うな」

「いえ、咲は少しも怖くはありません。けれど、正吉さんの笑顔が見られなくなってしまうことだけが、悔しくて……。ですから……」

咲は咳き込みながら、それでも途切れ途切れに言葉をつづけようとする。

 

正吉は咲の肩を優しく抱きしめて言う。

「いつだって笑顔くらい見せてあげる。お前を一人になどするものか。いつまでも一緒だ。だから、さあ、もうお休み」

咲はまだ何か言いたそうな表情をしていた。

でも結局、それきりで言葉を切ってしまった。

 

その先を、咲は何とつづけようとしていたのか、正吉にはついに訊き返す機会は巡ってこなかった。

雪はその日から何日も降りつづけ、村は雪に閉ざされた。

咲の容態は悪くなる一方だった。

咳がおさまらず、充分に眠ることすらできなくなった。

咲は彼岸との境をさまよいながら、また夢を見た。

 

――春の日射しが降り注いでいる、花祭りの日。

蝶や蜂は蜜を集めるのに忙しい。

抜けるような青い空には、綿雲が二つ、三つ、のんびりと浮かんでいる。

彼らに誘われて、咲の身体が弾みだす。

少しも重さを感じない。

咲はしだいに高く昇っていく。

雲に手が届きそう。

咲は思いっきり手を伸ばす。

あと少し、というところで雲は不意に先へ流れる。

もう一度手を伸ばす。

また雲は逃げる。

すぐそこにあるのに届かない。

髪留めが緩んで、咲の長い黒髪がはらりと解ける。

髪も雲の後を追いかける。

下方から桜の花びらがふわり舞い上がってくる。

風が、咲の隣にいた。

すべては風の仕業だった。姿は見えないけれど、ずっと前から風はそこに吹いていた。

咲は風に身を任せる。

すると、咲はまたさらに高く昇っていった。

そして身体中の痛みが薄らいでいく。

風になりたい……。

咲は思った。

眼下には咲の暮らした村が見える。

正吉が花盛りの野にござを敷いて座っている。

もうずいぶん小さくなってしまったけれど、正吉の顔は一目で見分けることができる。

正吉が笑った。

その笑顔に触れると、咲の身体に温かいものが満ち溢れる。

けれど笑い声が聞こえない。

咲の耳には何も響いてこない。

そして正吉は、咲の知らない誰かに向かって、笑いかけている。

正吉を囲んで笑いの輪が広がっていく。

みんな笑っている。

なんて楽しそう……。

ねえ、正吉さん。何がそんなに楽しいの?

咲も笑ってみる。

でも、その声は正吉には届かない――

 

「正吉さん……」

本当は忘れないで欲しい。

せめて花祭りの日一日だけでも、咲のことを想っていて欲しい。

咲の意識は、最期にほんの一瞬だけ正吉の傍に舞い戻ってくる。

苦しい息の下で咲は思いの丈を言葉にした、つもりだった。

けれど、正吉は少しも気づかない。

  

f:id:keystoneforest:20171127221626p:plain

 

 

咲が死んでから、正吉はまるで意気地がない。

万年床から朝遅くに起きてきて、フジが作って置いていった飯を口に入れ、汁で流し込む。

それから空模様を窺い、晴れの日なら、田へ出て遮二無二土を耕して、日が暮れると家に帰ってすぐに寝た。

雨の日なら、一日囲炉裏の傍に腰を下ろし、藁を綯い草鞋を編んで、出来が気に入らないと炉で燃やし、飽きずに炎を見つづける。

そして、眠くなれば何も食わずに床についた。

 

誰とも話す気になれず、一言も口をきかずに過ごす日が大半だった。

腹など少しも減らなかった。

ただ、作ってあるものを捨てることができずに、仕方なく腹に入れているだけだった。

耳元でいつも咲の話し声が聞こえていた。

それがよりはっきりと聞こえるほど、正吉の気は紛れた。

 

……溢れるほどのお花、ありがとうございました……

……咲にはもうそれだけで充分です……

降り積もる雪を二人で眺めたあの日、咲が話してくれた言葉、それを何度も何度も繰り返し正吉は辿った。

咲の顔をありありと思い浮かべることができたとき、知らず一人笑いをすることがあるらしい。

そんな時、フジはあからさまに気味悪がった。

 

……正吉さんの笑顔が見られなくなってしまうことだけが、悔しくて……。ですから……

あの後、咲は何とつづけようとしていたのだろう。

今となれば知りようのない答えを求めて、正吉は暗闇の中を手探りで歩を進める。

いや、進んでいるかどうかさえよく分からない。

ひょっとして、袋小路に行き着くのかも知れない。

足下に深い穴が穿ってあるかも知れない。

けれど、かまいやしなかった。

正吉にはこの先、どうやって日々を過ごしていけばよいのか、まるで分からなかった。

 

――いつか、その手が何かに触れることがあるだろう。

「咲か? 咲、会いたい。顔を見せておくれ」

正吉が声をかける。

すると、暗闇の中に小さく明かりが灯り、女らしき人影がぼんやりと浮かび上がる。

正吉はゆっくりとそちらに近づいていく。

明かりの中に女の顔が判然と現れる。

その顔には絵に描いたように美しく化粧が施されている。

紛れもない、咲の死顔だった。

一瞬ひるんだ隙にその姿は歪んで、暗闇に沈んでしまう。

咲を失った時、正吉は一緒についていこうとして、できなかった。

衰弱の果てに死んだ咲の亡骸は人形のように軽く、死に化粧された顔に、まるで見覚えはなかった。

そして、白粉の強い匂いが死臭を一層きわだたせていた。

正吉は自分の身体もそうなると思うと怖くてたまらなくなった。

「でも、一人はもう嫌だ。連れていっておくれ」

正吉は叫びながら、暗闇に消えた咲の後を死に物狂いで追いかける――

そんな夢を見ることもあった。

 

やがて正吉は思い当たった。

……卯の花、菜の花、仏の座。山吹、蒲公英、桜草……

咲は指折り数えながら、唄うように並べ上げた。

だからその唄が耳に残って、正吉ははっきりとその花の名を覚えていた。

布団の中で、正吉も小さく口ずさんでみる。

隣の部屋で寝ていたフジは、深夜、唐突に聞こえてきた唄声が、紛れもなく正吉の声であると分かって、ついに来るべきものが来たかと、覚悟を決めた。

「卯の花、菜の花、仏の座。山吹、蒲公英、桜草……」

正吉は何度も繰り返し唄う。

卯月に咲くから卯の花という。

空木(うつぎ)の異名だ。

空木は、茎の髄が空洞になっている虚ろ木からきている。

花の中で、一番に卯の花を挙げたのは、今の腑抜けのようになった私を知っていたからだろうか。

「正吉さん、しっかりしてくださいな」

正吉は、その時こそ、耳元ではっきりと咲の声が聞こえたような気がした。

正吉はそっと自分の頭を叩いてみる。

大丈夫、中はまだしっかり詰まっている。

ひょっとして、咲が夢に見た通り、花祭りの日、咲は私に会いに来てくれるのではないか。

 

私は両手に抱えきれないほどの野の花で咲を迎える。

野の花にうずめられた咲は、うれしそうに歓声をあげる。

私はそれを黙ったまま意地悪く見つめてやる。

きっと咲はその日、私の傍に戻ってきてくれる。

正吉は確信した。

 

そうなると、正吉の時間は堰を切ったように勢いよく流れはじめる。

祭りの日まであと数日あったが、この時期、村では田植えの準備に忙しい。

正吉は仕事を終えてから野山に入り、暗くて見えなくなるまで花の咲いている場所を探してまわった。

卯の花は草右衛門の家の生け垣に、菜の花は大川の河原に、仏の座は裏の畑のあぜ道に咲いていた。

残りの花も、村中で一番勢いよく咲いている場所を正吉は夢中になって探しだした。

 

そして、卯月八日の朝がきた。

雨戸の隙間から明かりが差し込んでくる。

万年床に寝ている正吉の耳に、小鳥の囀りが聞こえてきた。

しばらく自堕落な生活を送っていた正吉には、このところ毎朝、その囀りが目覚まし代わりになっていた。

小鳥は庭のすぐ正面に見える桜の枝で遊んでいる。

近頃それが話し声のように聞こえはじめた。

一羽が喋り、もう一羽が相づちを返す。

そして二羽がそろって一緒に囀りだす。

「賑やかでいいなぁ」

正吉は口に出して言う。

思いっきり話がしたい。

正吉は強くそう思った。

 

前夜は咲のことがひときわたくさん思い出されて、遅くまで寝付けなかった。

何度も寝返りを打って、ようやく寝入ったと思えば、もう朝が来ていた。

けれど少しも眠気は感じなかった。

雨戸を開ける。

途端に心地よい風が吹き込んでくる。

眩しくて目を開けていられない。

東の空はまだ白みはじめたばかりだった。

庭の桜が満開になっていた。

前日は一つも花をつけていなかったのに。

正吉はその勢いのよさをうらやましく思った。

桜の枝も手折っていこうか、正吉は少し考えたが、可哀想でやめにした。

 

花は咲の墓へ持っていく。

村を見下ろす見晴らしのよい山の中腹に咲の墓を建てた。

墓と言っても、河原から運んできた石を一つ据えているだけだったが。

その石の下に、咲が眠っている。

そこで二人は夫婦の契りを交わした。

その場所がこの世で咲に一番近いところだと正吉は信じた。

……お花の山にうずもれてしまいそうでした……

咲の言葉を思い返しながら、正吉は摘んできた花を墓石の周りに供えていった。

やがて石はすっかり花に隠れてしまう。

 

正吉は懐に入れて持ってきた湯飲み茶碗を取り出して、花の前に置いた。

そして、腰に下げていた竹筒を外して、筒の中身を注いでいく。

それはまだ少しだけ温かかった。

正吉は桜の花びらを数片そこに浮かべる。

「どうだ、咲。今朝、庭で咲いていた桜の花だ。いい匂いがするだろう?」

語りかけた後、正吉は静かに目を閉じる。

すぐ傍に咲がいる。

正吉は身体中を耳にして、咲の気配を感じようとした。

しかし、しばらく待ってみたが、何も変わらない。

……咲は正吉さんのその笑顔が大好きでした……

咲の声が聞こえた気がした。

いや、ただの風の音かも知れない。

でも、まあいいさ。

正吉はその言葉通りにしてみることにした。

「そうかそうか、怖い顔をしていてはいけないか」

言いながら、正吉は笑顔を作ろうとする。

けれど、うまく笑えない。

口元が変に引きつるばかりだ。

ははは、と口に出して言ってみる。

でも、どう言い換えてみても、

笑い声には遠かった。

咲の笑顔を思い浮かべてみる。

ふざけて二人で笑い転げた思い出を辿ってみる。

でも笑えなかった。

こんなに簡単なことが、どうしてできぬのだ?

何度も繰り返すうち、正吉の目に熱いものがこみ上げてきた。

 

そして、日暮れまでそこで待ってみたが、結局咲に会うことはできなかった。

正吉はまた万年床に舞い戻る。

 

f:id:keystoneforest:20171127223328j:plain

 

 

万年床とは言うが、人は万年も寝つづけてはいられない。

それでも、正吉はそれからの数年をぐずぐずと過ごした。

卯月八日が巡ってくるたびに、咲が顔を見せてくれるような気がして、もう一年、さらに一年、と待ってみた。

でもついに、夢の中でしか咲は姿を現してくれなかった。

結局のところ、会えると信じたのは、ただ咲の死を認めたくないだけのことだった。

……咲のことなどお忘れください……

咲は確かにそう言った。

あの言葉は、生涯ずっと自分のことを想いつづけてくれなくてもかまいません、という私への心遣いだ。

それなら、これだけ待てば充分だろう。

正吉はそう折り合いをつけた。

ある日気づいてみれば、咲の声が消えていた。

それで思い切った。

それ以来、咲の墓に参るのもやめた。

 

それからさらに十年ほどが過ぎた。

夢の中にさえ咲が現れることはなくなった。

正吉は隣村からフジの遠縁にあたる女を後添いにもらっていた。

名を小夜といった。

二人の間には、子がすでに三人あった。

上が男で、下の二人が女だ。

末娘はまだその年の初めに生まれたばかりだった。

フジと縁つづきだから、ということだけが理由ではないだろうが、小夜はフジととても馬が合った。

愛想がいいのが取り柄で、村のつきあいもそつなくやってくれていた。

小夜が来てくれてから、正吉の家には笑い声が絶えなかった。

 

春、花祭りの日。

正吉は家族皆を連れて野に出かけることにした。

小夜は初め、まだ首の座らない末娘と家に残ると言っていたが、上の子二人にせがまれて一緒に出かけることになった。

フジと小夜は誘い合い、早朝から起き出して、三段の重箱一杯に食べ物を詰め込んだ。

とりたててご馳走などない。

日頃食べているものを、ただ箱にきれいに並べて詰めただけだった。

けれど、それでさえ、贅沢な気分になれる。

道すがら、重箱を交替で持たされた上の二人は、端から上機嫌だった。

ちょうど妹の方が風呂敷包みの重箱を下げている。

底が地面につきそうだ。

「ほら、見つけた。あそこに黄色いお花。今度はお兄ちゃんの番!」

「だめじゃだめじゃ。そんな小さいんじゃ、代わってやらぬ」

「そんなのひどい」

妹がべそをかきはじめる。

黄色い花を見つけるごとに、重箱を持つ番を代わる約束らしい。

嘘泣き、嘘泣き。

と囃しながら兄の方は先へ逃げていく。

その足音に驚いた小鳥の群れが草むらから一斉に飛び立った。

その先には真っ青な空が広がっている。

 

この年の卯月八日もまた晴れた。

毎年、この日は晴ればかりだ。

万年床で寝ていた数年で、正吉はそのことに気がついた。

それまでの記憶を振り返ってみても、それから後の数年も、正吉が覚えている限り、卯月八日は必ず晴れた。

最初のうちはただの偶然だと気にしなかった。

けれど、あの光を見て納得がいった。

その光に正吉が初めて気づいたのは、咲が死んだ翌年の花祭りの日の午後だった。

正吉は庭の桜をぼんやり眺めていて、そのうちうたた寝になった。

 

昼までは咲の墓の前にいた。

そこでずっと待っていた。

けれど咲は来なかった。

それで、他にすることもなく、山を下り家に帰って縁側に寝っ転がることにした。

やはり天気はよかった。

そして、咲の夢を見た。咲は野で花を摘んでいた。

正吉に気づくと、大きく手を振りながら、正吉の名を何度も何度も呼んでくれた。

 

やっと会えた。やっぱり会えた。ああ、よかった。

 

と思った途端に目が覚めた。

その時、光を見たのだ。

何かが桜の枝先できらりと光った。

つづいて、あちらでもこちらでも次々に煌めきが走った。

それを合図のように、一斉に桜の花が咲いた。

すべてがほんの一瞬のことだった。

正吉はまだ夢を見ているのかと、何度も目をこすった。

次にその光を見たのは、またその翌年の花祭りの日のことだった。

今度光ったのは、正吉の家の桜だけではなかった。

まだ咲ききらない山の桜が、正吉が目をやると、きらりと瞬いてたちまち満開になった。

正吉は、咲が生まれた時のことを思い出した。

その日がとても穏やかで、暖かな日だったということも。

 

……それで、分かった。

 

一年のうちでこの日だけ、正吉の声は桜に届く。

花を見たいと願えば、桜はそれを叶えてくれる。

卯月八日には、いつもこの思い出が繰り返される。

晴れ上がった空の下で、桜の花は光とともに咲きはじめる。

人がその思い出を忘れても、野や山はいつまでも覚えている。

 

正吉が家族と野に出かけたこの日も、やはりそれは変わらなかった。 

春の日射しが降り注いでいる。

蝶や蜂は蜜を集めるのに忙しい。

抜けるような青い空には、綿雲が二つ、三つ、のんびりと浮かんでいる。

正吉は花盛りの野に、ござを敷いて座った。

小夜もフジも一緒に座った。

末娘はねんねこに包まって寝息をたてている。

陽が当たらないよう、フジが陰を作ってやっている。

子供たちは落ち着いて座ってなどいない。

先ほどの喧嘩をまだつづけている。

はしゃぎながら走り回っている。

「何だか、こんな日が前にもあったような気がする」

「そうでしたか?」

正吉の言葉に小夜はそう応え、少し怪訝な顔をする。

家族みんなが揃って野に出るのはこれが初めてだ。

「正吉がまだ幼かった頃、一度、お前の父ちゃんや弟たちと一緒に遊びにきたなぁ」
フジが懐かしそうに言う。

「あの頃は食うものなどろくになかったから、一つの芋をみんなで取り合いっこしたもんだ。覚えてないか? 正吉」

フジはあきれ顔になった。

 

そうか、そうだったかも知れない。

子供の頃のくらし向きは本当に惨めなものだった。

いつも腹を空かせていた。

くたくたになるまで働かされた。

父にもひどく叩かれた。

けれど、今は違う。

辛い昔のことなど、わざわざ思い出すこともない。

そんなことはすっかり忘れた。

そこから逃げ出すために、一心に働いてきた。

正吉は大きなあくびを一つする。

咲を失った痛みも同じことだ。

みんなどこかへ捨て去ってしまった……。

 

そう、この日遊びに来た野の傍らに、咲の墓を作ったことさえ忘れかけていた。

いや、忘れたつもりになっていた。

正吉は上の二人の子に声をかける。

二人はとうとう取っ組み合いの喧嘩をはじめた。

 

「いいか、向こうにあるあの桜の木、よく見ておいで」

正吉の指さす先に山桜があった。

枝先にいくつかほころびかけた蕾がついていた。

フジと小夜もそちらに目をやる。

「そら!」

 

正吉の声とともに山桜の木は光に包まれ、そして見る間に満開の花を咲かせた。

 

「すごいすごい」

みんな大喜びだ。

フジまでが手を叩いて浮かれている。

「ねえ、どうやったの? あの光は何? どうして咲いたの? もう一回見せて」

子供らが正吉にまとわりついてくる。

小夜が正吉の手を取る。

子供らの手、小夜の手、それらの先から温かいものが伝わってくる。

それは、正吉の心を熱く満たした。

「小夜、見ていてごらん」

正吉は、今度は遠くの山に顔を向ける。

すると、その山のそこかしこから光が溢れ、山は花で一杯になった。

やがて野も山も、近くも遠くも、すっかり薄紅色に染まってしまう。 

小夜はとろけそうな笑顔になった。

  

f:id:keystoneforest:20171129231558j:plain

 

 

 不意に、風が通り過ぎた。

 

風は皆が座っているござの端を煽るほど強く吹いた。

重箱がひっくり返され、食べ物がぶちまけられた。

風はその次に、黒雲を連れてきた。

雲は陽を遮り、野山はたちまち薄闇に沈んでいく。

正吉の耳に何かが届いた。

人の声のようだ。

聞き覚えのある声だ、と思った途端、正吉はその声の主に思い当たった。

 

――本当は忘れないで欲しかった。

花祭りの日一日だけでも、咲のことを想っていて欲しかった――

 

その声は悲鳴となり、やがて風のうなり声に変わっていった。

風に急かされた花びらが宙を舞う。

桜がどうして咲くのか、この不思議な力の持つ意味を正吉はずっと前から知っていた。

けれど、考えないようにしていた。

そうしなければ、そして、咲と暮らした日のことを忘れてしまわなければ、別の女に心を移すことなどできなかった。

この日、正吉はこの不思議な力を、その別の女の笑顔を見るために使ってしまった。

風が轟々と叫びつづける。

次から次へと立ち現れる雲が厚く空を覆っていく。

 

正吉さん……。

 

咲の深いため息が空を渡る。

そして、それは山を這い、森を抜け、野を駆け巡る。

咲いたばかりの桜の花を一気に散らせ、散った花びらを巻き込んで、さらに走りつづける。やがて、正吉を見つけると、その頭上で大きく渦を巻きはじめた。

辺りはもう何も見えない暗がりである。

小夜もフジも子供たちもどこかへ消えてしまった。

いや、ひょっとして初めから誰もいなかったのかも知れない。

 

正吉は空を仰ぎ見る。

きらりと光ったものがあった。

その光った場所から、花びらが落ちてきた。

その隣でまた光が見えた。

また、花びらが散ってくる。

きらりひらり、きらりひらり、あちらこちらで瞬きはじめ、それにつづいて花びらが舞い降りてくる。

ああ、まるで雪のようだ。

正吉はいつか同じ光景を咲と二人で眺めたことを思い出す。

唐突に、心に浮かんだものがあった。

 

桜の花が、きらりと光る。光った拍子に……、赤子が生まれてくる。

 

花びらの渦は今にも弾け飛んでしまいそうなほど、ますます層を厚くして激しく巻いている。

やがてついに、渦の目はひときわ大きく閃光を放つ。

その光の中から花びらの群れが連なって降りてくる。

それは、正吉を差して一目散に走り落ちる。

正吉の身体を、幾万片もの花びらが襲う。

払っても払っても、手に負えない。

花びらは正吉の目を閉ざし、鼻を覆い、口を塞ぐ。

息を吸い込もうと開けた口に、花びらがさらに襲いかかる。

すぐに口の中は花びらで一杯になる。

吐き出しても、飲み込んでも、きりがない。

 

花びらは正吉の身体にへばりつき、みるみる厚みを増していく。

それはやけに温かい。

正吉はそのまま身を任せる。

意識が少しずつ遠のいていく。

 

ああ、産声が聞こえる。

元気な泣き声だ。

 

正吉はもう身じろぎもしない。

  

f:id:keystoneforest:20180321162931j:plain

絵;ミチコオノ(id:fukaumimixschool)さん

 

 

 

 

 

※以下に、いただいた感想コメントを紹介させていただきます。

 

バリピル宇宙(id:uchu5213)さん;
「春までもつまい」ムキー!

toikimi(id:toikimi)さん;
雪と桜が交互に現われては消え、とても切ない気持ちになりました。祈りたくなるような…
きらめく光に包まれ、満開の花を咲かせる山桜。悲しくなるくらい美しい光景ですね。
悲しみが極まって、救いが生まれてくる感じがしました。桜の花が咲き、そして散るさまに、人ひとりの運命を大きく包みこむ存在を想像しました。

そすう(id:prime__number)さん;
なんと繊細な文章なんでしょう。心情が伝わります。
おもしろかったです!!救いがあって良かった。

soboku(id:soboku-kobe)さん;
咲のメッセージが神妙ですね。「終わり」を意識することで「今この瞬間」を精一杯生きていくことの大切さが見えてくると思いました・・・。
ファンタジックで切なくてきれいです。こんな情景が見れたらなあどんなに素敵でしょう・・・。

higanzakura109(id:higanzakura109)さん;
泣。

ジェ-ン(id:jane7)さん;
最後の笑顔で今までの辛い出来事は忘れたい。 桜のお話を冬に聞くと春が恋しくなります♪

スイミン(id:skyaya)さん;
正吉は、真実を理解したあとどうするのか、が書かれていないところが良かったです!

ふく39(id:fuku39)さん;
読ませて頂きました!悲しいお話かと思いましたが幻想的な雰囲気でした~こういう形式の長編は面白いですね~

カワセリリ。 (id:riri_kawase)さん;
引き込まれる語り口。何度も推敲されたのだろうと思われる無駄のない文章。とても続きが気になりました。
お花と愛情を丁寧に繋げているのが、とにかく上手いな、と思いました。読んでいてあきなかったし、無理やりにネタを突っ込むようなことをしないで、しっかりとした流れで読ましてくれたので、読んでいて気持ちが良かったです。素敵な時間をありがとうございました◎。

明読斎 (id:tanisuke1234)さん;
時代の空気を感じます。
風前の灯という言葉を思い出しました。咲さんの容体はどうなるのか。気がかりです。助かって欲しい。
咲さん・・・・。正吉さんはどうするのでしょうか。前を向いて欲しい気もします。でも咲のことを忘れて欲しくもない。複雑な心境です。
産声が聞こえて良かったです。花が見えるお話でした。桜の季節に読むとまた違った印象を受けそうです。楽しく読ませていただきました。

ナマけもの (id:flightsloth)さん;
物語の雰囲気を楽しみたかったので、縦書きにペーストして全編いっきに読ませてもらいました。恐ろしいほどにむせかえる匂いと舞い狂う桜の花びらを感じました。春先に読めたことを幸運におもいます。
移ろう季節。おもいとは無関係に過ぎ去る時間。なるほど、民話的雰囲気がすごい伝わってきたのは、ひとの生活や思考からすこし離れた視点で書かれた文体だったからでした。これはやっぱり縦書きで読んでよかったです。

ミチコさんの記事;

nagi1995.hatenadiary.com

 

山猫の記事;

ミチコさんが形にしてくださった咲はあまりに美しい女性でした。うれしくてアンサー記事を書きました。

www.keystoneforest.net

 

※コメントの紹介は順不同です。もし不都合があればお知らせください。よろしくお願いします。

  

 

 

 

 

  
よければtwitterものぞいてみてくださいね。山猫 (@keystoneforest) | Twitter
 

f:id:keystoneforest:20180211232422j:plain

山猫@森の奥へ
似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。