森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

伝言が多すぎる……。そして、Jアラートという伝言。 (創作短編小説)

 
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時計の針は2時を指していた。

寝る前に読み始めた小説が意外に面白く、毛布にくるまったまま、まだ読んでいた。
1時までと決めていたのに、気がつくともうこんな時間になっている。
明日の勤めに差し障りがあることは承知の上で、つい夜更かしをしてしまった。

未練たらしく、パラパラとページを繰ってみる。
まだまだ区切りはつきそうにない。

 

吐く息が白く凍って見える。
エアコンの暖房のタイマーはもうとっくに切れてしまっていた。
翌朝は遅くても6時には起きなければいけない。

僕は枕元の栞を探した。
俯せの姿勢を続けていたせいで、首の裏側が強ばっている。
スタンドの灯りを消して目を閉じる。
途端にきのうの出来事が頭の中に浮かび上がってきた。

こんな夜はどうにも寝つきがよくない。
すっかり目が冴えてしまっていた。

 

河島課長の顔が瞼の裏のスクリーンに映し出される。
その表情には、しかめっ面の中に無理に作った笑いが浮かんでいた。
明るく装ってはいたが、その口から吐き出される言葉は僕への嫌味ばかりだった。
僕が作成した書類の不備が指摘されているのだが、その矛先が向けられているのは、同じ課の純子先輩だった。
課長の席に呼びつけられた先輩は適当に相槌を打ちながら何度も頭を下げ、時折いらいらとした視線を僕の方に投げつけてくる。

澤田くん……。
だから言ったでしょう……。
ちゃんとしてくれないと、
叱られるのはこの私なんだから……。

僕は先輩の目をちらりと窺い、胸元で小さく手を合わせる。

ごめん、純子先輩……。
徹夜でデータチェックをしたし……。自信あったんだけど……。
今度また奢りますから……。

先輩の刺のある口調と課長のねっとりした嫌味とが不協和音になって、僕をざわざわとした不愉快な気分の底に突き落としてくれる。

 

ああ、もう会社なんか行きたくない。
このまま徹夜してサボってしまいたい。

襲ってくる睡魔に身を委ねながらそう考えていた。

 

気配を感じて目を開けた。

部屋全体がぼんやりと明るい。
低く鈍
く時計の秒針が動く音が聞こえている。
布団から首だけ出してあたりに目を走らせる。

足元の方に何かある。
白い光の帯だ。
光の帯は縦に細長く伸びている。
しばらしてそれは上から4分の1くらいの所で二つに切れた。
それぞれが渦を巻きながら揺れている。

目が慣れてきた。

それは次第にはっきりとした形に変化していった。
少し光が弱くなる。
二つの切れ端は頭と胴体の輪郭を作っていく。

人の姿だった。

じっと目を凝らしてみる。
例のやつに違いない。

「だれ……」
身体を起こし、確かめるより先に僕は声をかけていた。

それはゆっくりとこちらに向き直ると二、三度左右に揺れた。

後輩の武村だった。

もの悲しげな表情で僕を見つめている。

 

「何かあったのかい。武村」
こういう場合はこちらから声をかけてやる方がうまくいくことが多い。

「澤田先輩……、どうしたんです、こんな所で。そんな格好で寒くないですか」
武村は登山服を着ていた。
全身雪まみれだ。
右半身がボロボロに破れ、所々黒い染みのようなものがこびりついているのが見える。
髪の毛や眉毛の先は真っ白に凍りついて、尖った針のようだ。

「武村こそ、どうしたんだよ」

「山に入って以来、体調もいいし、天候も最高。楽勝だと思ってたんですけど……」

「しくじったんだ……。こういう時にこそ、どこかに不運が潜んでいるものなんだよね」
武村はがっかりしたように大きくうなだれた。
ようやく自分の状況を把握したらしい。
この場にそぐわない存在は、パジャマ姿の男なんかじゃなく、雪山で遭難している自分の方なんだということを。

「先輩、一つだけお願いがあるんですけど。実は俺、結婚しようと思ってて……。大学の同級で、2年前から付き合っていた娘なんですけど、俺が山に登ること、ずっとあいつは嫌がってて……。今度が最後のつもりだったんです。もう二度と山はやらないって、それをプロポーズの決めゼリフにしようって考えてたんですよ。山よりお前を選ぶって……、かっこいいと思いませんか。あいつにそのことだけ、お前のこと本当に好きだったって、それだけ伝えて欲しいんです……」
言い終わると、武村を包んでいたほのかな光が消え、その姿は元の闇に溶けていった。

冷気が頬を撫でた。
それは確かに山の風だった。

 

武村は大学の山岳部の後輩だった。
二年下だから今年あたりが卒業の年になる。

「まだまだ、これからじゃないか……」
僕は心の中で静かに武村に別れを告げた。

 

目覚ましのアラーム音が生真面目に鳴り響いた。
僕はいつの間にか眠っていたようだ。
アラームは、少なくとも僕を会社へ駆り立てるだけの刺激は与えてくれた。

今朝は寄り道する用がある。
あまりぐずぐずしてはいられない。
電車の中で斜め読みした朝刊の片隅にS大パーティーの遭難記事が載っていた。
武村の名前もその中にあった。
悪天候のために救助隊が出動できないままでいると言い訳している。
でも僕には、クレバスの底に吹き溜った万年雪に埋もれているあいつの姿が見えた。
その顔はこの世への未練に歪んだ表情のままで凍りついているのだろう。

すでに僕は、武村が生還することはないと決めつけていた。

僕はいわゆる霊感というものが強いらしく、しばしば昨夜のようなことが起こる。
初めて自分に潜む不思議な能力の存在に気づいたのは、父親を亡くした時だった。
僕がまだ小学生の頃だ。

授業中に突然、大声で泣き始めたのだそうだ。
その前後の記憶は曖昧にしか残っていない。
何か強烈な明るさに包まれる思いをしたことだけは覚えている。

それから一時間くらいして、父親が心臓の発作で倒れたとの知らせが届いた。
僕が急に泣き始めたのは、父親の死の数時間前、ということになる。
誰にでも一度か二度は経験のあることかも知れない。
でも僕の場合は少し違う。
血の繋がりのある者だけでなく、ちょっとした知り合いでさえ、その死出の旅立ちの際には僕の所に立ち寄っていく。
そして何かしら伝言を残していくのだ。
叶えてあげられることもあるし、希望に添えないこともよくある。
ご指示の通りに動いても、感謝されることは当然ながらない。

周囲からはかえって気味悪く思われることの方が多い。

せっかくの最期の願い事なのだから何とかしてあげたいと思うのは人情だが、人間というもの、そんなにいつも立派なことばかり考えている訳ではない。

「死」は多くの場合、何の前触れもなく訪れる。

その時とっさに気の利いた言葉を口にするのはなかなか難しいようだ。武村のような場合は稀にしかなかった。

高校時代の恩師が最期に望んだのは、不倫相手だった教え子からもらった手紙の束を焼き捨てて欲しいということだったが、恩師の奥さんはすでに全てを知っていた。角の煙草屋のおばさんが僕に託した願いは、部屋が散らかったままで見苦しいから身内がやってくる前に家の中を少し片づけてもらえないだろうか、ということだった。

おばさんは子育てを終えて一人暮らしをしていた。
大掃除はすぐに済んだが、おばさんの死を知らせる先を周りの者は誰も知らなかった。

 

僕を訪ねてくるのは知り合いだけではない。

テレビドラマを観ていた。
ずいぶん以前の番組の再放送だったが、出演している女優の表情が妙に気になった。
何となく存在が曖昧に感じられる。
その福々しい体形も含めて、理想のお母さんとして必ず名前を挙げられる女優だった。
不意に画面が柔らかい光に包まれる。
夫と喧嘩して実家に帰ってきた結婚して間もない娘に、夫婦の愛情の機微を切々と諭していた母親役の女優がその光の中で素の表情に戻る。
彼女はテレビ画面の向こうから真っすぐに僕の方を見ると、こうつぶやいた。

「お腹すいたわ。次のドラマで女弁護士役をやるから、イメージチェンジしようって思って、これで3週間も豆腐ばっかり食べ続けてダイエットに励んできたのに……。こんなことになるなら毎日お腹一杯食べておくんだったわ。お願い、渋谷の……っていう店の焼き鳥、メニューの右端から左端まで全部食べてきてちょうだい。それだけ食べられれば、もう思い残すことなんか一つもないわ……」

画面が落ち着いた色調に戻る。
彼女は再び母親役の顔になって、さっきのお説教の続きを始めた。

ドラマに続いて放送されたニュースで、その女優の訃報が伝えられた。

 

芸能人やスポーツ選手、政治家に小説家……、毎日のように夢の中やテレビの中、街角ですれ違う人の表情の中にそれらは現れてくる。
僕のことなんか全く知らないはずの人でさえ、どこからかはるばると僕を訪ねてくる。

前世の因果か何かのせいで、僕は三途の川のほとりに立たされて、死者たちの伝言板役を言い付けられているのだろうか。
仕事の行き帰りや休日を使って僕はせっせと託された願い事を果たしていった。

誰かに命じられた訳ではなかったが、放っておくのは精神衛生上よくなかった。

でも、僕にだって自分の生活がある。
他人の世話ばかり焼いている暇はない。
全てに応えることは不可能だった。
僕の心の中には濃い澱のように、果たせなかった約束がその数だけ積もり続けている。
一方的に頼まれただけだし、例えそれを破ったところで誰一人僕を責めるものはない。
でもそれはいつまで経っても僕にまとわりついて離れない。

みんな勝手な伝言ばかり残していく。
僕は膨大な数の注文を捌ききれないでいた。
いつの日か、仕舞いきれなくなった伝言が心の中で飽和してしまうだろう。

今朝いつもより1時間も早く家を出たのは、託された願い事を出社前に一つ片づけるためだった。
勤めの帰りにはなかなか時間がとれないので、早朝を選んで出かけることが多かった。

 

数日前のことだ。
満員の電車で吊り革にぶら下がって揺られていた高校生の顔が、一瞬だけ中年男の表情に変わった。
そして立ったまま器用に居眠りを続けてこうつぶやいたのだ。

「公衆電話のボックスにびっしりと貼り付けてあるメッセージがあるだろ。テレクラとか風俗とかの宣伝のやつ。電話しながら何の気なく眺めてただけなのにさ。電話が終わってボックスから出たら、後ろで待ってた小学生くらいの女の子がさ。ヤラシイおっさんって吐き捨てるように言いやがるのさ。俺の娘っくらいのやつにさ。まるで汚らしいものでも見るように嫌な顔をされて、変態扱いされたんだ。確かに長電話してた俺も悪いけど、テレクラなんか見てないよ。あの貼り紙のせいだ。あんなものくそっくらえだ……」
その声は電車が急停止する衝撃で遮られた。前方の踏切で人身事故があったのだ。
死んだ男とは面識はなかったが、テレクラの中年男に違いないと僕の霊感が教えていた。
今朝はその男の伝言を果たす予定にしていた。

事故があった踏切近くの駅で途中下車して、踏切の側にある電話ボックスを探した。
全面にチラシを貼り付けられたボックスがいくつもあった。
それを全部剥がしてしまうつもりだった。
チラシがあまりにも多すぎて電話ボックスは刺を背負ったハリネズミのようだ。
一枚一枚のテレクラのチラシには却って何の意味もないように思えてくる。
バリバリと剥がしていく僕に、駅へ急ぐ人の群れは全く無関心だった。

案外時間がかかってしまい、今朝もまた遅刻してしまった。姿勢を低くしてデスクに向かっていると、一番聞きたくなかった課長の声が僕の名前を呼んだ。

「澤田くん、ちょっと来てくれないか」
河島課長の声が響いて、一瞬課内が静かになった。

僕は課長の後について小会議室に入っていった。

「きのうのプレゼン用の資料のことだが……。澤田くん、君は一体あの資料で何を訴えたかったのかね」
僕が席に着く隙を与えないかのように、課長が口火を切った。
それは僕への問いかけではなく、これから始まる説教の単なるきっかけにしか過ぎないように聞こえた。

「確かに君の資料で示されていたデータは正確で、その処理方法も納得出来るものだった。でもな、客が求めているのはそんな教科書みたいなもんじゃない。それらの情報を結びつけて意味のある文脈を見つけ出すことだ……」
課長の話は長々と続く。

たちまちそれらの言葉は耳の辺りで空回りし始める。
一体何を急に言いだすんだ。
いつまでたっても話の意味は僕の頭に届いてはこなかった。

澤田……。
この程度の仕事しか出来ないんじゃ、危なっかしくて何も任せられないよ……。
丁寧に説明したって君には難しすぎる……。
こんな男を部下に持って俺も大変だよ……。
課長の本音が聞こえるような気がする。

僕は課長のネクタイの結び目をぼんやりと眺めながら空返事を繰り返していた。

 

雪に埋もれた武村の遺体が発見された。
5人いたS大パーティーのメンバーのうち、残りの4人は凍死寸前のところをすでに救助されていた。
その奇跡の生還劇が大々的に報じられる中、武村一人だけが静かに下山することになった。

数日後、夕飯を食べながら観ていたテレビのニュースがそう知らせた。
遺体の確認をした武村の両親は、彼の最期は安らかな寝顔のような表情でしたと、テレビに向かって語りかけていた。

僕は手にしていた割り箸をブラウン管に向かって投げつけた。
無性に腹がたった。

その死を知るだけでなく、それを食い止める能力をなぜ与えられなかったのだろう。

武村の伝言を思い出した。

「山よりお前を選ぶ」って言ってたっけ。
今さらそんなことを伝えても何にもならないんじゃないか。

伝言を実行しようとするといつもそんな考えが脳裏をよぎる。
僕のやっていることは果たして何かの意味を持つことなのだろうか……。

でも、あいつの彼女って一体誰のことなんだ。
肝心なことを聞き逃していた。

結局、今回もやっかいな頼みを引き受けることになってしまったようだ。
事情が許せば次の休日にでも救出されたメンバーの入院先を見舞って、それとなくそのことを聞き出そう。
とりあえずは大学に連絡を入れて病院をつきとめなければいけない。

そこまで考えが行き着いた時、テレビの横に置いてある電話がぼんやりとした光を放った。
電話機全体をオブラートで包みこむような柔らかな光だった。

そして呼出音が微かに鳴った。
一度だけ響くとすぐに止んでしまった。しばらくしてまた一度だけ鳴った。
そしてもう一度、今度はけたたましく鳴り始めた。

小枝子からだ。
小枝子からの電話は受話器をとる前に判るように、こんな合図を決めていた。

僕は充分に間をおいてから受話器をとった。
小枝子は相手が留守でも5分くらいは平気でそのままベルを鳴らし続ける。

その間に澤田くんが帰ってくるかも知れないものね、彼女はそう考えているらしかった。

「もしもし……」
小枝子の甘えるような穏やかな声を予想して受話器をとった。

しばらく待ったが、向こうからは何も聞こえてこない。
間違い電話だろうかと切りかけた時、ようやく微かに声が届いた。

混線しているのか、雑音に紛れて聞き取りにくい。

「……。チロにさ……、餌やるの忘れたから……」
それっきり何も聞こえなくなった。
でも確かに小枝子の声だった。

チロは小枝子が飼っている犬のことだ。
小枝子とは僕たちが高校1年の時に知り合った。
高校の卒業前にはもう彼女しか見えない、という境地にまで至っていたが、今は着かず離れずという長距離恋愛を続けている。

僕は大学進学を機にこちらに出てきて就職後もそのまま居ついてしまったし、彼女は地元で就職した後、陶芸の趣味が高じて今では土ひねりに没頭するようになっていた。

そして小枝子は、両親と僕との猛反対を押し切り、去年から実家を離れて窯元で修業し始めた。
このところ互いの仕事が忙しいことを口実に随分長く会っていない。
というより、これ以上付き合いが続けばもうただの恋人という関係では済ませられない時期にまで来ていると思っていた。
決して小枝子のことが嫌いになった訳じゃなくて、結婚してやっていける自信が僕にはまだなかったのだ。
小枝子はどう思っているのだろうか。
その質問をする勇気もまた、今の僕にはなかった。

 

―――胸騒ぎがした。

僕は受話器を置き、折り返し小枝子に電話をかけた。
呼出音が鳴り続けるだけで、応答はなかった。
振り払っても振り払っても、頭の中には小枝子が一人、布団の中でもがき苦しんでいる姿が浮かんでくる。
側でチロが心配そうにおろおろしている様子も見える。
小枝子は生まれつき心臓が弱かった。
想像通りなら、もう恐らく手遅れになってしまっている。
とにかく今から車をとばしてみよう。
高速を使って急げば2時間ほどで着くだろう。

 

市街地を抜け、高速道に入ると、幅広い道路に走っている車はまばらだった。
小枝子の思い出が次から次へと浮かんでくる。
今回もまた、僕の霊感は正確に働いているに違いない。
余計な考えを頭から追い払いたくてラジオのスイッチをいれる。

未練心を切々と歌う演歌が流れてきた。
結婚するまでにやっておきたいことがまだまだたくさんあるんだ、そう言っていた小枝子の声が聞こえてくる。
一人でやるより、僕と一緒に二人でやってみようよって言ってみればよかった……。
鼻の奥がつんと痛くなる。
涙が滲んできた。

道路には他に車の影が見えない。
アクセルを一杯まで踏み込む。
遥か先にある黒々とした山の稜線が緩やかに流れていく。

バックミラーに目をやると、後ろの座席がぼんやりと明るい。
武村が現れた時と同じだった。

こぶしで涙を拭いて目を凝らす。

小枝子だろうか。

他の人の顔が浮かんでくれればいいのに。

小枝子だと思ったのは早合点だったのかも知れない……。

バックミラーの中で、光はやがて人の形を作る。
かすかな期待は裏切られた。

紛れもなくそこに映っているのは小枝子の顔だった。
小枝子はにっこりと僕に向かって微笑んだ。

涙のせいでその表情がぐにゃりと潰れる。
滲む視界の中にもう一つ光が灯った。
そこに現れたのは、純子先輩だった。

……しばらくして、二人の間にまた一つ光が現れる。

ふわふわした暖かい光はいくつにも分かれ、次々に表情を作っていく。

さらにそれらは別の人の顔と入れ替わっていく。
狭い車内はたちまち何人もの顔で満員になった。

母さんに姉さん、大学以来の親友の松山、会社の同僚の芳岡……、見知った顔が現れては消えていく。
みんな口々に何かしゃべってくる。

でも、後部座席の彼らからは誰が運転しているのかよく見えないのだろうか。
こちらから呼びかけても、話は要領を得なかった。

伝言が僕の耳に刺をたてる。
虫の羽音のように煩わしい。
一人一人の話を聞き取ることなどとても出来なくて、言葉は少しも意味をなさない。
多すぎる伝言は落書きと同じだった。

 

混沌の中に河島課長が現れた。
その声だけははっきりと僕の耳に届いた。
それは僕へのメッセージだった。

「部下に澤田という男がいる。見どころがあると思っていろいろやらせてみたんだが、どうも私の真意がよく伝わらなかったようだ。このところやる気を失いかけているように見える。急にこんなことになってしまい、最後まで付き合うことが出来なくて、申し訳なく思っている……、そう伝えてもらえないだろうか」
ミラーの中の課長と目があった。
目元がほんの少しだけ緩んだように見えた。

やがてその表情も、吐き出した煙草の煙のように渦を巻いて歪んで消えていった。

見どころがあるって、最後まで付き合うことが出来ないって、どういう意味だ、何が起こっているんだ……。

頭の中は大恐慌に陥っていた。

その次にバックミラーの四角い枠の中に、はっきりと像を結んだのは僕自身だった。

―――どういうことなんだ。
僕は我が目を疑った。
これは一体何なんだ。
そこに座っているこいつ。
こいつは……。

それは確かに「僕」だった。
バックミラー越しじゃなく、振り返って直接確かめてみたい衝動に駆られる。

 

「あの……、こっちばかり見ていないで、前をちゃんと見て運転したらどうかな」

「僕」が僕に話しかけてきた。
すぐ右に中央分離帯が迫っていた。

後ろにばかり気をとられていたせいで、車は危うくそこに激突するところだった。

「僕」が僕を助けてくれた……。

「……もうしばらく君と話をしていたいからね。せっかくの機会なんだから」

僕の訝しげな表情に応えるように「僕」はそう言い訳した。

僕は何も言えずにそのまま車を走らせている。

 

「いろんなことがあったね。ちょっと短かったけど、でも結構楽しかったね……」

もうすぐ僕は死ぬのか。
だから「僕」が現れたのか。
でも何が原因で僕は死ぬんだ……。

いろんな想いが沸き起こってきた。
仕事のこと、友人たちのこと、そして小枝子のこと。

 

「すぐに判るよ。あせらなくてもいい。小枝子の所には必ず間に合うから。まだ時間はある。小枝子と何を話すか、きちんと考えをまとめておくんだね。もうすぐ着くよ。ねえ、外を見てごらんよ。本当にきれいだ……」

 

「僕」は窓の外に目をやった。いつの間にか後部座席に座っているのは「僕」だけになっている。

 

走る車がほとんどない道路を明々と照らす外灯が後ろへ後ろへと飛び去っていく。
それら一つ一つが人の表情に見えてきた。

何十、何百という顔が外灯の灯りの中にその姿を現してくる。
ミラーに映る外灯はやがて人の形に変化して、全力で走って追いかけてくる。
僕の背中を追いかけて、口々に何か叫んでくる。

対向車のヘッドライトが視界に入った。
その光も顔に変わる。
泣いたり、笑ったり、いろんな表情をしたヘッドライトが中央分離帯を跨いでこっちにやってくる。

右から左から飛んでくるきらきらした光線が僕の目に突き刺さる。

鮮やかなほどはっきり見える星明かりも、それらを結ぶと人の表情が浮かび上がる。

夜空一面に星の数だけの顔が飛び回っている。

 

明るかった。
白い光が夜空を包んで、眩しいくらいに輝いていた。
無数の光の粒があたり一面にまき散らされていく。

 

その美しさに僕はうっとりと目を閉じた。

 

臨時ニュースが入りました。
ホワイトハウスの発表によりますと、先ほど、……国の核ミサイルが誤作動のために発射された模様です……

 

そうか、みんな一緒に行くんだ。

僕は車のアクセルを思いっきり踏み込んだ。

 

小枝子のアパートはもうすぐだ。

 

 

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