森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

位置について。用意、ドン。

私は走っている。
生まれたときから走っている。おそらく、生まれてくる前も走っていたはずだ。死んだあともまだ走っている気がする。
私は走っている。
眠くてたまらないときも走っている。眠らずに走っている。眠りながら走っている。走りながら眠っているのかもしれない。目が覚めても走っている。目が覚めなくても走っている。

私は走っている。

食べながら走っている。吐きながら走っている。食べて吐く、吐いて食べる。食べて吐く、吐いて食べる。このリズムで。

私は走っている。

笑いながら走っている。笑いを堪えて走っている。笑いは堪えた方が良いから走っている。誰かを喜ばせる笑いと傷つける笑いがある。どっちか分からないから、笑い過ぎない方が無難。それに、笑い過ぎると空っぽになってしまう。笑ったそばから自分の中身が抜け出てしまう。笑い続けるだけの奴らを何人も見てきた気がする。中身が抜けてしまわないよう、笑いを堪えて、私は走っている。

私は走っている。

泣きながら走っている。泣かずに走ってもいる。涙は堪えない方が良いと思いながら走っている。涙を堪えると、いろんなことが思い出される。次々と思い出される。思い出したくないから、涙を流しながら走っている。それでも、思い出されるときがある。思い出した方が良いときもある。そんなときは、もっともっとたくさん泣く。涙が海いっぱいに溜まるまで。

私は走っている。

どこへ向かって走っているのか、早くそこにたどりついた方が良いのか、遅くても良いのか、遅すぎると良くないのか。何も分からずに走っている。誰もその答えを教えてくれない。その先に行って帰ってきたヒトなど、どこにもいない。だから誰にも分からない。たぶん分からない方が良いような気がする。分かったらきっと走れなくなる。だから、また走っている。

私は走っている。

ずっとずっと走っている。休みたいと思うこともある。でも、走り続けた方が楽だと思うから走っている。走ることしか考えないで良いから走っている。走ることのほか、何もしてこなかったから、休むことが怖い。だから走っている。

私は走っている。

走っているのは私だけじゃない。ほら、一緒に走っているヒトがいる。前にも後ろにも走っている。右にも左にも走っている。みんな一緒に走っている。ちょっと疲れてきたから、誰かが休めば一緒に休もうと考えながら走っている。誰か早く休んでくれよと願いながら走っている。でも、誰も休まない。誰も休まないから走るしかない。右を走っているヒトも左を走っているヒトも、お互いに誰が先にいつ休むのか、横目で伺いながら走っている。最初に休むヒトになりたくはない。走り続けるしかない。だから、、、

私は走っている。

辺りが暗くなってきた。それまで明るかったかどうか、さあ、よく覚えていない。でも、今はすっかりと暗い。それは分かる。はっきりと暗い。暗くて前が見えない。だんだん暗くなってきて、右のヒトも左のヒトもよく見えなくなってきた。でも、右からも左からも、走っている息遣いが聞こえてくる。前は見えない。そこにはもう誰も走っていない気がする。前方から別の気配が迫ってくる。何かにぶつかりそうで怖い。ぶつかりそうな何かを遮ろうとして、両手を前に伸ばして走る。両手を前に伸ばすと走りにくい。体がふらつく。フラフラしながら走っている。

私は走っている。

あとどれだけ走ればいいのか誰も教えてはくれない。もし教えてもらっても、走ることをやめないのかもしれない。前を走っていたヒトの息遣いはすっかり聞こえてこなくなった。右や左を走っていたヒトの息遣いも、時々聞こえなくなる。そのうち、私の息遣いしか聞こえなくなってくる。
私は走っている。
たった一人で走っている。ひょっとしたら、ずっと前からそうだったのかもしれない。そうかやっぱり、はじめから一人で走っていたのだった。そう思う方が気が軽くなる。

私は走っている。

重く弱く、ゆっくりと走っている。息が苦しい。息が苦しい。

私はまだ走っている。

息が苦しい。息が苦しい。どうしようもなく苦しい。

いつしか、

私は走るのをやめた。私は私の息遣いが聞こえなくなったのに気づく。私は私を離れてゆく。どんどん離れてゆく。息苦しさが消えてゆく。最初から少しも息は苦しくなかったような感じだ。なんの問題もない。だから、また息をする。

こかで声がする。声は軽やか。息を吸って吐いて。そして、、、

 

位置について。用意、ドン。

 

 





 

 

 

 

 

 

 

 

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山猫🐾@森の奥へ

似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。