「死」について、猫も考えていますよね。きっと、絶対。いえ、考えてなくても、感じているはずですよね。ずっと傍で暮らしていた猫の匂いやモフモフや足音や鳴き声や寄り添ったときの身体の温かさを。それらを感じられなくなったときの寂しさを。
花は陽の当たるところ水のあるところに素直に咲いている。そしてまた、陽の当たるところ水のあるところを奪い合って咲いている。辛いとか怖いとか疲れたとか、なにも言わずに咲いている。花も「死」について考えているんでしょうか。
わたしたちは「死」を知っています。老いも知っています。鏡は残酷です。なんの遠慮も忖度もなく老いた自分をそのまま見せてくれます。でも… 鏡が残酷なのではなくて、以前の自分と今の自分とを比べてしまう自分が残酷さを感じさせている、きっとそうだと思います。
老いることには何の問題もない、と思います。それを問題とするのは社会であったり、医療であったりするのでしょうか。花が咲くように、そして散るように、そうやって老いていくことはできないものでしょうか。
トップスピードで走るときは前方だけが視界に飛び込んでくるんでしょうね。いつか、スピードが落ちてきたとき、ゆっくりと周りや後ろを振り返る余裕も出てくるのでしょうか。
歳をとるんじゃなくて歳を重ねるとか加えるとか、日本語には良い表現がありますよね。でも、それに見合った歳のとり方をしているのかとわが身を振り返れば、疑問符だらけで。重ねたり加えたりするのが面倒で、やっぱり、ただ歳をとっているだけです。
いつか自分が犠牲にしてきたもの、失ってしまったものの大きさに気付くときが来るんでしょうか。それに気付くことができれば、本当の意味の人生が始まるんでしょうか。気付けないので、分からないんです。
勝ちが成功で負けが失敗だなんて決まってるわけじゃないですよね。負けるが勝ちって言いますし、負けたことでそののちの成功への道が開ける場合もありますし。勝敗が決した時点から次の勝負が始まっている、そう思えば、勝ちも負けも物事の終わりを意味しないと言うことですよね。とりわけ、生きることはゲームじゃないから、勝つとか負けるとか全然関係ないですよね。
こころはきっとわたしの身体の外にある、そう思います。わたしが生まれてくる前それがどこにあったのかは分かりません。わたしが死んだ後それがどこに行くのかも分かりません。でも、きっと無から生まれて無に戻るんじゃない、そう思います。
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