現実と非現実、日常と非日常、ノンフィクションとフィクション。実話と創作───
並べてみると、現実と日常と実話との方に「ノン」がついてますね ^_^
現実と非現実、日常と非日常、ノンフィクションとフィクション。実話と創作。並べてみると、現実と日常と実話との方に「ノン」がついてますね^_^ / “もっとフィクションを! 僕たちには〝ウソ〟が必要なんだよ。 - Blue あなたとわたしの本” https://t.co/k2E29WLPN8
— 山猫🐾 (@keystoneforest) 2021年2月1日
去年の冬から始まったコロナ禍のこの1年は、まさに非日常の日々の連続でした。
ですが、非日常が続くとそれが日常になる、という妙な気分を、最近わたしは味わうようになってきています、、、なってきてませんか? 多分わたしだけじゃないと思うのです。
コロナ前の取材映像を使ったTV番組を観ているとき、どうして誰もマスクをしてないのか気になったりします、、、気になりませんか?
ゴミ捨てに家を出るときでさえ、マスクをしていないと居心地悪くなったりします、、、なりませんか?
仕事帰り、夜8時を過ぎてなお、お客さんの気配がする居酒屋を胡散臭い目で見たりします。10分過ぎただけでも、、、そう感じませんか?
日常ってどっちでしたっけ?
26年前の阪神淡路大震災のときのことです。
被災したわたしの家は、車が行き交う道路から細い路地を入ったところにありました。
路地裏に建っている家々が路地側に傾いていて、今にも崩れ落ちてきそうでした。
家に帰るときは、路地を足早に走り抜けました。
大通りに面した商業ビルが斜めに歪んで建っているように見えて、一瞬足元がふらつくことがありました。
戦場を思わせる焼け跡一帯に漂う焦げた臭いに、気分が塞ぐことがありました。
いつしかそれに慣れました。日常になりました。
何も恐れず、何も怖がらず、何も悲しまず。
そうやって平穏に過ごすことができたわたしたちは、実は世界で言うと、当たり前じゃない状況の方にいるのかもしれません。
飢餓を恐れ、暴力を怖がり、肉親の死を悲しむ。
それが世界の当たり前なのだとしたら?
現実と非現実、日常と非日常、実話と創作───
さて、「ノン」がつくのはどちらでしょう。
川の流れる水音は心地良いですよね。
木々の葉がこすれる音も気持ち良い。
波の音も焚火の爆ぜる音も、、、(^_^)
川の流れる水音は心地良いですよね。木々の葉がこすれる音も気持ち良い。波の音も焚火の爆ぜる音も、、、(^_^) / 他4件のコメント https://t.co/btcu6R40GD “川の流れる音 - ururundoの雑記帳” (6 users) https://t.co/1bwwOQUSN3
— 山猫🐾 (@keystoneforest) 2021年1月31日
地球の日常はなんでしょう。地球の非日常ってなんでしょう。
重力の作用に従って川は流れます。ときに、水かさが増して川からあふれることもあるでしょう。
太陽の陽を浴びて熱せられた空気が膨らんで、そして、風が吹き始めます。
風を受けて葉は揺れます。大木をなぎ倒すこともあるでしょう。
風を受けて海が波立ちます。水面に浮かぶモノを海の底に引きずり込むこともあるでしょう。
熱せられた枯れ枝は火を帯びます。枝に含まれる水分が破裂して音を発します。山々を焼き尽くすこともあるでしょう。
大いなる自然の中で、ヒトが繁栄するときもあるでしょう。ウイルスが繁殖するときもあるでしょう。
地殻の移動に従って、地盤はいつも動いています。
動くうちに揺れることはしばしばあります。
ときに大きく揺れることもあるでしょう。
現実と非現実、日常と非日常、実話と創作───
さて、「ノン」がつくのはどちらでしょう。
今日の記事は 智(とも) (id:btomotomo) さん ururundo (id:URURUNDO)さん の記事に書かせていただいたブックマークコメントをもとにしました。
いつも、ありがとうございます。
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