森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

じと目ってどんな目? 良心がないから嘘をつく、果たしてわたしは良心を持っているのか。

 
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じと目ってどんな目?

夕食中、次男Kに訊くと、

目を細くして、まぶたが線で、上目遣いみたいになってるやつ、、、

と言いかけ、茶碗を置いて椅子から立ち上がり、紙とペンを取って戻ってきた。

さらさらっとKが描いてくれたのが、どんぶり鉢を真横から見たような絵だった。

描く方が正解だった。

なるほど、絵にすればすぐに分かる。

上目遣いがきつくなればなるほど、こいつとは絶対に目を合わせたくないな、という思いにさせられる鬱陶しい目つきだった。

これがじと目か。 

疑り深く探る目を細め、心もち首をかしげて上目遣いで睨むように世の中を見ている。

 

じとめのてつこさんに会ったのは下に紹介する記事を読んだのが最初だった。

でも、実際にお会いしたわけではないので、本当のてつこさんがどんな方なのかは分からないまま、以下書き進めます。

 

 

「読書の秋」という「今週のお題」で書かれた記事のようで、アメリカの臨床心理学者マーサ・スタウトの「良心をもたない人たち」という本にちなんで「りょうしん」について書かれた内容だった。

「てつこは一人で生きていく。その心は…私にりょうしんはありません。」

これがその記事のタイトル。

言っていることとやっていることの辻褄が合わないのだ。
それでも彼女は悪びれない。
社会の善悪とかマナーとか相手の立場とかは関係ない。
あくまでも彼女自身が基準。

そこがすごく怖い。
話ができない。会話にならない。だから怖い。
てつことてつ母に共通する価値観が一切無い。だから分かり合えない。
そこがただの嘘つきやメンヘラとは違う。
心を病んでいても「こんなことしたら他の人の迷惑になるかな」「見られたら恥ずかしいな」「こんなことバレるよな」って多少は思うもの。
そういった他者の目・社会の目がてつ母には無かった。

(「てつこはじと目でなにを見る?」2017.10.2より)

圧倒されたのは、この部分。

良心がないから嘘をつく。

家族の前でも、あるいは家族に対しても? 平気で嘘をついて悪びれない。

他者の目と社会の目とを持たず、すべてにおいて自分を基準として考え行動する。

そんな厄介な人が、同じ家で暮らし大半の時間を一緒に過ごした自分の母親であった、という告白と恐怖とが語られていた。

娘であるてつこさんは、そのことを思い悩みながら十代を過ごされた。

その生い立ちこそが、じと目の由来に違いない。

でも、実際の彼女のお母様がどんな方か、わたしはまったく情報を持っていないので、「てつ母」という人のことを一方的に批判する立場にはない。

それについては読んだ人が判断するしかない。

わたしが思ったのはわたし自身のことだ。

てつこさんの記事を読んでわたしは、「果たして私は良心を持っているのか」と軽い気持ちでコメントした。

このときの感情はほんの少しの間、心の表面に浮かんできただけで、すぐに見えなくなった。

今回この記事を書こうとしてそれがまた姿を現してきたようだ。

 

果たしてわたしは良心を持っているのか。

 

一切の良心を持たない人たちは、欧米の統計によると25人に1人いるらしい。
かなりの確率なのでわたしのすぐ隣にいてもおかしくないし、ひょっとしてわたし自身がその1人かもしれない、ということだ。
良心を持たない人たちのことをサイコパスという。

サイコパスについて、Wikipediaでは犯罪心理学者のロバート・D・ヘアの定義を紹介して、こう説明している。

以下、Wikipediaから。

・良心が異常に欠如している
・他者に冷淡で共感しない
・慢性的に平然と嘘をつく
・行動に対する責任が全く取れない
・罪悪感が皆無
・自尊心が過大で自己中心的
・口が達者で表面は魅力的

 

てつこさんのtwetterにはこう書いてある。

 

てつこさんに了解をもらって、今回の記事を書き始めたとき、てつこさんの記事のどこにわたしが惹かれ、何がわたしの心に引っかかったのか、ようやく思い当たった。

てつこさんの問題ではなくて、これはわたし自身の問題だったということに。

わたしは自分には良心が欠けていると思うことが以前からたびたびあった。

Wikipediaのサイコパスの定義に当てはまることがいくつもあるし。

 

型紙で作った飛行機を家の前の路地で飛ばして遊んでいた。

飛行機は気持ちが良いほどよく飛んだ。

それは高く舞い上がり、向かいの家の屋根に乗ってしまった。

わたしは道端の小石を拾って屋根に投げた。

小石が転がり落ちるときに飛行機を引っ掛けて落ちてくるのを狙ったのだ。

2個3個小石を投げた。

飛行機は一度小石と一緒に瓦屋根の上を滑り落ちてきた。

でも、まだもう少し。

さらにいくつか小石を投げた。

十何回目かに投げた小石は屋根まで届かず、その家の窓ガラスを直撃した。

向かいの家は日頃から家族ぐるみで親しくしている家だった。

わたしは何もなかったかのようにその場を離れた。

次の日、向かいの家のおばさんに訊かれたが、わたしは「何も知らない」と、とぼけた。

平気で嘘をついた。

問い質されたということは、わたしは疑われていたのだと今なら分かる。

素直に謝ればきっと許してもらえたろう。

なのにわたしは堂々としらを切った。

小学校低学年の頃のことだ。

 

以来、何度も嘘をつき、人を裏切った。

 

平気で嘘がつけるわたし。

平気で人を裏切ることができるわたし。

平気で人を見捨てることができるわたし。

わたしの心の奥を覗き込めば、そこには良心を持たないわたしがうじゃうじゃといる。

 

ブログに記事を書くと、わたしをプラス評価してくださるコメントをいただくことがある。

でも、そうじゃない、そうじゃない。

それはわたしじゃない。

 

そして、わたしの母親のことだ。

記憶がまだらになりつつあるわたし自身の母親と、わたしはこの先どう折り合いを付けていこうか考えているところだけれど、おそらくわたしはこの母親を見捨てる、きっと見捨てる、と将来のわたしがとる行動を今のわたしは予測している。

怖れているのではなく予測している、ただ予測している。

負の感情を抱く自分がいると分かったとき、わたしはこのわたしから離れる。

そして、わたしは他の誰かに悪意の実行を任せ、その様子を止めずに見ている。

その、他の誰かというのは、紛れもなくわたし自身なのだ。

 

果たしてわたしは良心を持っているのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

てつこさんのブログはこちらです。

jitomenotetsuko.hatenablog.com

 

ちなみにじと目は、猫ならこんな目かな? 

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ごめんなさい、てつこさん。

てつこさんをイメージしたわけじゃないです。

こんな画像しか手に入らなくて(^^;

 

快く記事の引用をお許しくださったじとめのてつこさん

ありがとうございました(^_^)

 

 

 

 

 

  
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