
ねえ、アーサー。話をしてもいい?
わたしは時々アーサーに声をかける。
たとえば、この前はこんなことをアーサーに話した。
人生をやり直せる過去行き一方通行の電車が走っているとして、その電車に乗れる片道切符を、もし手に入れることができたら、どうする? と。
わたしは、人生の半ばを過ぎる年齢にいたった頃から、自分がこれまで何をしてきたのか、この先何ができるのか、そんなことをしばしば考えるようになった。
特にこの「森の奥へ」を書き始めた頃からその思いが頻繁に頭に浮かんでくるようになった気がする。
いや、違う。
そもそもこのブログを書き始めたきっかけが、これまでの自分を振り返り、それをまとめて「森の奥」へ帰ろうという気持ちからだった。
アーサーはわたしの頭の中にいる。
どんな人なのか、いや、彼が人なのかどうかもわたしは知らない。
彼って書いたけど、彼女かもしれないし、性別を持たない植物なのかもしれないし。
いつから彼がわたしの頭の中にいるのか知らないし、彼がいると感じているのはわたしの幻想なのかもしれないし。
それで思い出したけど、アーサーって彼のことを呼ぶようになったのは、この記事を読んでからだった。
賢者の創作石(id:ArtStone)さんが書かれる記事からわたしはたくさんの刺激をもらった。
なかでもこの記事が一番印象強く残っている。
この記事の中の「ぼく」が誰で、「アーサー」がどんな人なのかは分からない。
わたしはあれこれ空想する。
これがSF小説なら、「ぼく」は宇宙からやってきた生命体で、「アーサー」は「ぼく」をこの星に運んできた機械生命体だ。
「ぼく」は「アーサー」の庇護の下、安全に不自由なく生きてきた。
ほかのみんなとそっくり同じように生かされてきた。
でも、「ぼく」はこの星の生命体たちの危険で不自由な生き様を見て、「アーサー」の庇護から離れてみたいと決めた。
声に出して何度でも言う。
ぼくにできることはいつだって、だれだってできる。
でもだれだってできるからって、きっとぼくの存在価値っていうものは変わらない。
だから生きていく。
わたしはこんなふうにコメントに書いた。
たしかにぼくは、みんなと同じように学校に行き、みんなと同じように働き、みんなと同じように歳をとってきた。
だからと言って、ぼくはぼくだ、ほかのみんなと同じじゃない。
と「ぼく」は叫んでいるように思えた。
これって、SFでもなんでもない。
親の庇護? 保護? から離れて一人暮らしを始めてみたいとたくらむ子供たちの思いそのものだ。
そして、遠い昔に親元を出たわたしがかつて思い描いていたはずの気持ちそのものだ。
だれだってできるからって、
きっとぼくの存在価値っていうものは変わらない。
アーサーに話しかけると、わたしは心を落ち着かせ、気持ちを整理し直すことができる、と感じる。
ねえ、アーサー。ぼくは思うんだ。
先週職場の若い人たちと呑むことがあったんだけどね。
彼らが将来について語る危なっかしさをちょっとうらやましく聞いていたんだ。
そして、かつて自分もこんなことに悩み、こんなことを嬉しいと感じていたということを思い出したんだ。
でも、、、若い頃に戻りたいとは思わない。
いろんなことがあったからこそ、今の自分があると思うから。
そうそう、アーサーが返事をしてくれたことは一度もないんだ。
でも、それでいいんだ。
答えを出すのはいつも自分だからね。
その答えが正しいか間違っているかは、先に進んでみないと分からない。
それが、生きていく、ということだと思う。