森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

ベイカー茉秋の柔道

柔道男子90キロ級は日本柔道の空白地帯とも言われ、これまで金メダルを獲っていない階級だ。リオデジャネイロオリンピックのこの階級でベイカー茉秋選手は初出場にして見事に金メダルを獲得した。

ところがベイカーの決勝戦での戦いぶりを、柔道でなくJUDOだと非難する声がある。

果たして、柔道とJUDOとはどこが違うのか。そして、JUDOが非難されるのはなぜなのだろう。

ベイカーの金メダルには「指導」のポイントが大きく関わっている。

国際柔道連盟試合審判規定(2014−2016)において「指導」は次のように扱われている。

・1つの試合において、3つの「指導」があり、4つ目の「指導」は「反則負け」となる。(すなわち、3回の警告後、失格処分となる。)
・「指導」は相手の選手にポイントを与えない。技によるスコアのみがポイントとしてスコアボードに表示される。
・試合の最後にスコアが同等の場合、「指導」が少ない選手が勝者となる。

すなわち、攻めのポイントを挙げてさえいれば、「指導」は3回までとられてもかまわないのだ。

ベイカー茉秋対バーラム・リパルテリアニ(ジョージア)の決勝戦は、ベイカーが開始2分17秒で大内刈りを仕掛け、有効をとった。その後、両者に攻めによるポイントは入らず、ベイカーが極端な防御姿勢をとったとされて指導を2回とられた。

結果は、ベイカー有効1、指導2に対して、リパルテリアニにはポイントなし。ベイカーがルールに則り、リパルテリアニを下したのである。

ところが、終盤守りに徹したベイカーの姿勢が、柔道ではなくJUDOだと非難されている。

 

今大会ではもうひとつ、「指導」のポイント数が勝敗を分けた決勝戦があった。

柔道男子100キロ超級決勝戦がそれだ。

原沢久喜選手とテディ・リネール選手(フランス)との対戦だった。試合時間の5分を戦い切って両者に攻めのポイントはなく、原沢に指導2,リネールに指導1が入っただけだった。

結果はリネールの勝利。

ルールの規定通りである。が、観客からはブーイングが沸き起こった。

オリンピックでの柔道最重量級の決勝戦が、攻めのポイントではなく、反則のポイント数で勝敗を決したのだ。面白みのない試合を観せられた観客の気持ちは分からないではない。

だが、これもルールに則ったものである。

それでも、モヤモヤしたものが残るのはなぜか。それは、反則のポイントである「指導」についてのジャッジの出し方が問題視されるからだ。

100キロ超級決勝戦では、体格にまさるリネールは終始組み手争いを続けるだけで、攻める姿勢を一切見せなかった(ように見えた)。にも関わらず、「指導」は原沢に入った(ように見えた)のだ。

攻めのポイントは、比較的明確に判定できるが、消極的である、との判定はあまりに主観に左右されすぎる(いや、実際には、攻めに対するジャッジにも、オリンピックの決勝戦において大誤審が下された過去があったが)。

審判が常に公平で正確なジャッジを下しさえすれば、こうしたモヤモヤは起こらないはずだ。

ジャッジは果たして公平だったか。

公平か不公平か、これを見極めるのも主観だとすれば、これ以上は試合を観た人の判断に任せるしかない。ただ、モヤモヤしたものは確実に残っている。

ところで、ベイカーの決勝戦だった。

この対戦において審判が不公平だったという批判は一切見あたらない。ベイカーは計算づくで「指導」をとられたのである。

実際に、ベイカーは決勝戦までの4試合はすべて1本勝ちで戦ってきている。これが彼の本領だろう。しかし、決勝戦で先にポイントをとったことで、冷静にその先を読んで戦い方を変えたのだ。守りに徹したというより、勝ちにこだわった、というべきであろう。1本勝ちより金メダルを狙ったのだ。

「オリンピックチャンピオンになることだけを考えて、この4年間ずっと戦い続けてきたので、一戦一戦全力で臨みました。夢が叶って良かったです。本当は決勝も一本勝ちしたかったのですが、簡単にはいきませんでした。でも、結果として優勝できたので、すごいうれしいです」

ベイカー自身が一番それを分かっている。

彼の戦い方を非難するのはあまりにも狭量だ。

ベイカー茉秋の柔道がこれからの新しい日本柔道を切り開くかもしれないのに。

 

 

 

 

 

 

 

  
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