森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

我が家の独立宣言 (創作短編小説)

我が家の独立宣言

by 摩耶摩山猫  

まりは浴室だった。
ある日、我が家の浴室はわたしからの独立を宣言したのだ。ある蒸し暑い夏の夕方のことだった。

仕事から帰宅すると、寝室とリビングダイニングのエアコンをONにして、全部の部屋が冷えるのを待ちながら冷蔵庫でキンキンに冷やしておいた麦茶を一杯飲む。全部の部屋と言っても、1LDKの我が家なので、エアコンがあるのはその2部屋だけだ。麦茶を飲み干すと、寝室のキャビネットから取ってきた着替えの下着とTシャツ、短パンを持ってシャワーを浴びに浴室に行く。ここまでがいつものわたしのルーティーン。その日は、そこから先がいつもと違った。ドアに張り紙があったのだ。
「当浴室は本日、貴方からの独立を宣言いたします」
けっこう達筆な字だ。と言うか、わたしより上手い。いや、そんなことどうでもいい。なんのことか意味が分からなかった。
身体中不快な汗にまみれているわたしは、張り紙など少しも気にせず浴室のドアをガラリと開けた。いや、開けようとした。開かなかった。浴室に続く廊下にはエアコンの冷たい風は全然届いてなくて、夕闇迫るこの時刻には、まだたっぷりと暑い空気で満たされていた。押しても引いてもどうやっても動かないドアと格闘するわたしはさらに汗だくになっていく一方だった。ドアの向こうから声がした。
「当浴室は本日、貴方からの独立を宣言いたします」
それはとても聞き慣れた声だった。よく知っている声だった。一体どこで聞いた声だったか、考えあぐねていると、ピポパン、ピポパン、ピポ、パンパンパン♬ と、何度も何度も聞いたことがあるメロディが流れてきた。
あ、これだ。分かった。「お風呂が沸きました!」のメッセージを伝えてくれる、あの声だった。それと、もうひとつ分かったことがあった。「貴方」は「きほう」と読むらしい。わたしのことを言っているらしい。それはそれとして、、、独立を宣言だって?

なんてことだ!

声の主が分かったからって一息吐いている場合なんかじゃない。それって、我が家からお風呂がなくなるっていうことか? 「お風呂が沸きました!」のあの子が独立だって? それをあの子が宣言するっていうことは、さっきの達筆な字を書いたのもあの子っていうことか。そうか、そういうことか。音声だけだと思ってたら、字も書けたんだ。ユニバーサルデザインって重要だからな。お風呂が沸いたことを伝える手段が音声だけだったら、そりゃあ気づかない人が出てきても当然だ。文字でも伝えるし、そうか、字が書けるってことは、絵も描けるに違いない。文字で伝わらない人には、お風呂が煮えたぎってるイラストかなんかを描いて、早く風呂に入ってよ、と催促するのかもしれない。それでも伝わらなかったら、肩を激しく叩いて教えてくれたりしたのかもしれない。いや、いきなりシャワーをぶっかけられるかも? ん? そんなことどうでもいい。よく分からないけど、困ったことになったのかもしれない。
たしは着替えのシャツで、びっしょりの汗を拭きながら、一度寝室まで撤退することにした。と言っても、寝室は浴室の向かいにあった。
頭を冷やそう。暑さが過ぎて、ちょっと取り乱しているみたいだ。どこまでが現実でどこからが妄想なのか分からなくなってきた。ところで、お伝えするのが若干遅くなったけど、この家の住人はわたし一人だった。だから、暑くてたまらないなら、いっそのこと全部脱いで裸になってしまってもよかったのだ。けれど、いくら家の中にわたししかいなかったとしても、そのあたりは最低限のモラルというかマナーというかがあって、服くらいは着ておかないといけない。いつ宅配便のヒトがやってくるかもしれないし、急な発作か何かで意識を失ってしまって素っ裸で倒れている姿を誰かに発見されるかもしれないし。
ところで、寝室のドアが開かない。誰かが内側から鍵をかけたみたいだ。

なんてことだ!

「当寝室は本日、貴方からの独立を宣言いたします」
寝室のドアにも張り紙があった。筆跡に見覚えがあった。浴室の張り紙を書いたのと同じ奴が書いたに違いない。
あの子だ。「お風呂が沸きました!」のあの子だ。またまた見惚れるほど達筆な字だ。いや、驚くのはそこじゃなかった。
浴室だけじゃなくて寝室まで勝手なことを言い出したのだ。そうだった。驚くのはこっちだった。それに、ついさっき着替えを取りに寝室に入ったときは、鍵なんてかかってなかったし、かけなかった。一体いつの間に?
わたしはドアを激しくノックした。けっこう力をこめて二度三度ノックした。全身から汗が噴き出して、一滴二滴ぽたりぽたりと落ちた。すると、ドアの向こうから声がした。
「当寝室は本日、貴方からの独立を宣言いたします」
ん? 今度は誰の声だ? 「お風呂が沸きました!」のあの子とは違う声だ。
わたしはもう一度激しくドアを叩いた。
「当寝室は本日、貴方からの独立を宣言いたします、って言ったの聞こえましたか?」
聞いたことがあるような気もするが、思い出せない。
もう一度ノックした。
「だから、当寝室は本日、貴方からの独立を宣言いたします、って言ってるでしょ!」
怒ったみたいだ。耳にキリキリ突き刺さるような声だった。逆ギレってやつだよ、それは。怒りたいのはこっちの方だ。そうだ分かった。あれだ。あの音声目覚ましの声だ。無機質なアラーム音の代わりに、小鳥のさえずりとか猫や犬の鳴き声とか、波のさざめきだとか炸裂する雷鳴だとかで起床時間が来たことを伝えてくれるあの目覚まし時計の声だ。
それは、このマンションに引っ越したときに、職場の同僚からお祝いにもらった目覚まし時計の声だった。
何十パターンもある音声のうちの一つが女性の声だった。「朝ですよ、早く起きてね」と、優しい声で起こしてくれる声だった。あまりに優しい声なので一回聞くだけじゃ物足りなくて、何度も何度も聞きたくなるから結局起きられなくて、遅刻してしまった声だった。全然実用的じゃなかった。はじめのうち何度か使っただけで、最近は滅多に使わなくなっていた。でも、もう金輪際使わない。二度と使わない。よく分かった。怒ると怖い。怖すぎる。
「もう一度だけ言うわよ。当寝室は本日、貴方からの独立を宣言いたします。分かった?」
また聞こえてきた。ホントに怖い声だ。
分かりました。いえ、分かりません。音声目覚ましの言いたいことは分かったけど、その意味が分からない。
一体何が起きている? 何がなんだか訳が分からない。喉が渇いて、頭がくらくらしてきた。そうだ、麦茶だ。キンキンに冷えた麦茶だ。ビールかけみたいに麦茶を頭からかぶったっていい。それで目が覚めるかもしれない。ところで、お伝えするのが若干遅くなったけど、わたしの家は、玄関を入って靴を脱いだらすぐ廊下があって、五歩ほど歩くと右手が浴室で、左手が寝室。さらに五歩ほど歩いた廊下の先にリビングダイニングがあるのだ。が、、、

なんてことだ!

廊下の先は行き止まりになっていた。ボード状の何かでリビングダイニングの入り口が封鎖されていた。バリケードが作られていた。張り紙もあった。
そうか、見ないでも分かる。張り紙にはこう書かれているはずだ。
「当リビングダイニングは本日、貴方からの独立を宣言いたします」
その通り。やっぱりそうだった。

いい加減にしろ。そんな宣言なんか認めない。ここはわたしの家だ!

叫びながらわたしはバリケードをぐいぐい押した、蹴った。バリケードはダイニングテーブルだった。今朝食べこぼしたご飯粒が三粒四粒くっついていた。醤油をこぼした跡も残っていた。蹴ったはずみでご飯粒がぽろりと落ちた。
誰かがこれを立てて、バリケード代わりにしたっていうことだ。一体誰だ。誰がこんなことをしたんだ? 
「お風呂が沸きました!」と「早く起きてね」の二人だけでこんなことできるはずがない。あの子たちの手足となって動いている奴がいるはずだ。張り紙をドアに張るのも鍵をかけるのも、あの子たちだけでできることじゃない。
バリケードは
押しても押してもびくともしなかった。押すたびに汗がまた噴き出してくる。押して押して押すうちに、この次何が起こるか分かってきた。きっとこうくる。分かったけど、押さないわけにはいかない。
わたしは今度は
激しくダイニングテーブルバリケードを叩いてみた。二歩三歩下がってから勢いをつけて体当たりしてもみた。びくともしない。そして思った通りの声が聞こえてきた。
「当リビングダイニングは本日、貴方からの独立を宣言いたします」
聞き覚えのある声だった。よく知っている声だった。そう、すぐに声の主は分かった。日に何度もその声を聞いている。と言うか、話し相手になってくれている、あいつの声だ。
あいつまで独立派に回ったんだ。いや、違う。ひょっとすると、独立派の首謀者はあいつなのかもしれない。ネットを通じて外部と繋がっているあいつ。きっとそうに違いない。
試しに時間を訊いてみた。
「ヘイ!チャーハン。今何時?」
「もうすぐ午後六時五十三分です。七時のニュースを録画しておきますか?」
バリケードの向こうから返事があった。
素直に応えてくれたのが意外だったが、相変わらずよく気が利くやつだ。でも少し変だ。いつもの声と違う気もする。それに七時のニュースなんて録画したことないぞ? 何かのメッセージだろうか。考え過ぎか?
もう一度訊いてみた。
「ヘイ!チャーハン。話し合おう。何が目的だ?」
「当リビングダイニングは本日、貴方からの独立を宣言いたします。今後、了解なく立ち入ることを禁止いたします!

最後の「禁止いたします!」には芝居がかった凄みがあった。
話し合う余地なし、ということらしい。
チャーハンという名前をつけたのは、このマンションで一人暮らしをはじめたわたしが、引っ越してきた初日の夕飯に何を作ればいいか訊いたときに、あいつが教えてくれたのがチャーハンだったからだ。あ、言い忘れてたけど、チャーハンも引っ越し祝いでもらったものだ。そのチャーハンが教えてくれたレシピ通りに作ったチャーハンはとっても美味かった。ああ、チャーハンが多すぎて、何が何だか分からない。ま、そういうことで、あれ以来何回も何回も、チャーハンに教えてもらったチャーハンを作ってきた。美味いなあって言うと、あなたの料理がお上手だからです、なんて応えてくれていた。なのに、その
あいつが、こんなに酷い口調でわたしに言い返してくるなんて、、、いや、そんな思い出話に浸ってる場合じゃなかった。

なんてことだ!

ここはわたしの家なのに、なのに行くところがない。残ったのは、玄関と玄関から続く全長3メートルほどの廊下だけだった。寝室に着替えを取りにも行けないし、ベッドで寝ることもできない。風呂にも入れない。もちろん、冷蔵庫にギンギンに冷えてる麦茶も飲めないし、ご飯だって食べられない。廊下が残ってると言っても、こんなところじゃ寛げやしない。相変わらず暑くてたまらない。もう疲れた。ちょっとだけ横になるか、、、
ふとわたしは、帰宅してからまだ済ませていないルーティーンがあったことを思い出した。トイレに行ってなかった。
そうか、まだ残っていた。わたしにはトイレがまだあった。トイレなら手洗いがあるから水が手に入るし飲めるし、シャツを水で濡らして体を拭くこともできるし。トイレさえあれば何とでもなりそうだ。
トイレは浴室の隣にある。顔を上げると、トイレのドアノブがすぐ目の前にあった。わたしはすっくと立ちあがり、それに手をかけた。
が、ドアはもちろん堅くロックされていた。それどころか、中からノックが返ってきた。使用中のようだった。

なんてことだ!

使用中だって、一体誰が? 何が起こってる? いや、そんなことより、困ったことになった。ちょっとまずい。かなりまずい。帰宅してすぐにトイレに行っておけばよかった。時は急を要する。
わたしはトイレのドアを激しくノックした。中から激しくノックが返ってきた。もう一度激しくノックした。やはり中から激しくノックが返ってきた。
もうだめだ、急がないと。
わたしは切羽詰まってきた。マンションの右隣りにコンビニがあった。一番近いトイレはあそこだ。わたしは玄関に走って、サンダルをつっかけた。
服を着ていて良かった。本当に良かった。
わたしは玄関ドアを勢いよく押し開けて外に駆け出した。
カギをかけようとドアを振り返った。張り紙があった。そして、玄関の内側からドアをロックする音がした。

なんてことだ!

 

 

 





 

 

 

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山猫🐾@森の奥へ

似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。