森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

高台へ屋上へ走れ春怒涛 ~旅行に行きたい!⑦ 〜旅行二日目その2(気仙沼・津波伝承館)

旅行二日目8月23日です。
今回の記事は旅行二日目その2、気仙沼・津波伝承館編です。
この日の移動はレンタカーを使っています。16時までに大船渡・盛でレンタカーを返却しないといけないので、駆け足で回っています。厳美渓(一関市)を出たのが10時半。気仙沼目指してひた走ります。

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(ドライブサポーター NAVITIMEより)

 

私的な旅行の記録としてまとめていますので、引用や個人写真が多くて読みづらくなっている点は、どうぞご了承くださいますように。
下の赤字の部分が今回の行程になります。

一ノ関①⇒(車)⇒気仙沼⇒(車)⇒津波伝承館⇒(車)⇒碁石海岸⇒(車)⇒大船渡・盛⇒(JR大船渡線)⇒大船渡温泉(泊)

 

なお、今回の記事は、東日本大震災に関する内容を中心に扱っています。写真や資料も何点か紹介しています。巨大津波の現実も知らぬまま拙い俳句も詠みました。東日本大震災は、被災された方々に今なお深い傷となって残っている大災害だと思います。その方々のお気持ちを軽んじる内容にならないように書きましたが、もし配慮不足なところがありましたら、どうぞご指摘くださいますようお願いいたします。

 

 

気仙沼・海の市

気仙沼ではリアス・アーク美術館に立ち寄る予定でした。東日本大震災の記憶と津波の災害史を中心とした展示を行っている、ということです。
ところが、カーナビを駆使して予定通り12時前に辿り着いたリアス・アーク美術館はなんと休館日。この日は火曜日でしたが、毎週月・火が休館日だったようです、、、
気仙沼の地場産品を用いた創作料理のレストランも併設していて、そこで昼食もとるつもりだったのに、急遽予定変更です。
次に向かったのは、気仙沼・海の市。シャークミュージアムと氷の水族館を併設しています。昼食場所を探して車を走らせていて見つけました。
駐車場に車を停めて海の市に向かうと、いきなりこんな表示がありました。
「津波浸水深ここまで」と書かれています。自販機の倍以上の高さです。

 

回り道して時間を大幅にロスしてしまい、昼食を始めたのが12時45分。海鮮丼がとっても美味しそうでしたが、今夜の宿の夕食が漁師めしなので、ラーメンを食べることにしました。というか、ラーメン大好きなんです。
ラーメンが来るのを待ちながら、東日本大震災に関する展示を行っている施設を探します。

 

シャークミュージアムと氷の水族館もかなり気になりましたが、先を急ぐためにパス。そのまま車に向かえばよかったのに、なぜか「おかえりモネ展」には立ち寄りました、、、

シャークミュージアムと氷の水族館はパンフレットだけいただいてきました。

「おかえりモネ展」でわたしたちを迎えてくれたのは、傘イルカくんとコサメちゃんでした。

 

 

気仙沼市 東日本大震災以降・伝承館

ラーメンを待つ時間にスマホで検索して見つけたのが、気仙沼・津波伝承館でした。その夜の目的地、大船渡とは逆方向になりますが、急げばなんとかなる。そう思い、車を走らせました。約30分後、伝承館に着いたのは13時50分でした。レンタカー返却時間まであと2時間とちょっとです、、、

この施設の正式名称は、気仙沼市 東日本大震災遺構・伝承館です。
震災当時でここで被災した気仙沼向洋高校の旧校舎が震災遺構として保存されています。
2011年3月11日は気仙沼向洋高校の3学期終業式でした。
式は午前中に終わりましたが、三陸沖を震源とする地震が発生した14時46分、約170人ほどの生徒たちがまだ学校に残っていたそうです。

伝承館では「震災時及び直後の映像(13分間の記録映像)」の視聴と「地震・津波の脅威と爪痕」の展示見学のあと震災遺構(校舎)を見学する流れになっています。ですが、映像を視聴したあと校舎を見ていくと、ちょっと時間が厳しそうです。係の方に事情を話すと、時間がない場合などは映像シアターを通らず、震災遺構に行くこともできます。とのことでした。

以下、写真と案内掲示板の説明文を紹介していきます。なお、写真は見学の順路通りにはなっていません。

避難者が撮影した津波襲来時の中庭
津波は南校舎を正面から襲い、中庭にも侵入しました。どんどん水かさが増し、あっという間に中庭は見えなくなりました。
ここから見える中庭の「ヒバの木」は、卒業生が植樹したもので、津波に飲み込まれたにも関わらず、今もなお生きて成長を続けています。
この後、写真中央に見えている渡り廊下も飲み込まれ、最終的には南校舎4階の高さまで到達しました。
(津波伝承館・案内掲示板より)

上記は、南校舎屋上の案内掲示板にあった説明文です。正面に見えるのが南校舎と同じ4階建ての北校舎。掲示板の写真では、すでに3階まで津波が迫ってきています。当然、写真の手前、南校舎も屋上のすぐ足元まで津波が迫ってきているはずです。

 

伝承館屋上から南側を望んでいます。気仙沼向洋高校のグラウンド跡だそうです。海岸線はすぐその先にあります。津波は真っすぐに、この南校舎向かって突き進んできたのでしょうか。遮るものは何もありません。

 

南校舎1階「破壊された校舎」

 

南校舎2階は立入禁止エリアになっていました。

 

南校舎3階「津波で流されてきた車」

案内掲示板説明文からです。

津波により運ばれてきた車
震災前、この場所は「電気磁気室」として使用されていた教室でした。
目の前の被災車両は、被災当時、気仙沼市内にある(株)オートショップ加藤が所有していました。同社に鈑金塗装を依頼した南三陸町の方に、代車として貸し出されていたものでしたが、津波によって、地上からの高さ約8メートルのこの場所まで流れ着きました。
震災の爪痕が消えていくなか、今もなお、津波の威力とその恐ろしさを伝えています。
(津波伝承館・案内掲示板より)

(津波伝承館・案内掲示板より)


南校舎4階「津波到達点」

4階教室の床上25cmのところまで津波が来ました。

 

南校舎屋上「避難の行方」

上の写真は、南校舎屋上の案内掲示板。

屋上に避難した教職員と工事関係者
地震が発生した時、学校に残っていた170名ほどの生徒は全員避難所へ向かい無事でした。教職員20名は、重要書類などを保護するため、この南校舎に残り、北校舎の大規模改修工事を行っていた工事関係者25名とともに、最終的にこの場所に避難しました。
津波は幸いにも手前の冷凍工場などにぶつかることで勢いが抑えられ、到達したのは、4階の床から25センチのところまででした。その後、津波がぶつかった冷凍工場が校舎に向かって流されて来ましたが、校舎正面への直撃を免れた(4階西側のベランダに激突)ことも不幸中の幸いでした。
この机は、「少しでも高いところへ」と考えて行動した証を再現したものです。校舎へ避難した方々は翌朝、流れ着いたボートを引き寄せ、全員無事に脱出することができました。
(津波伝承館・案内掲示板より)

すぐ足元まで迫る津波。そして、そこに冷凍工場の建物が流されてきたのです。かろうじて建物の直撃は避けられましたが、どこまで津波の水位が上がるのか予想もできません。津波が押し寄せる轟音が絶え間なく轟きます。屋上に避難した人たちは、さらに高いところへ避難しようとしたのでしょう。
「少しでも高いところへ」
逃げるところはもう塔屋の上しかありません。教室から持ってきた机を踏み台にしてそこへ上がろうとしたのです。

 

総合実習棟前「折り重なった車」

 

南校舎西側「壊れた壁」

津波に流されてきた冷凍工場の建物がぶつかったのは、南校舎4階の西の端ギリギリのところです。流れてきた位置がもう少し東にずれていたら、屋上にいた人たちはどうなっていただろう、と思わずにはいられません。

冷凍工場の激突跡
津波で流されてきた冷凍工場が、南校舎4階のベランダに激突しました。壁面は破損し、激突した方向に折れ曲がっています。
屋上には教職員をはじめ50名近くの方々が避難していたことから、正面衝突を免れたのは不幸中の幸いでした。

(津波伝承館・案内掲示板より)

上の写真、衝突の痕跡を示すコンクリート片の残骸は実物を再現したもの。下の写真は教室側から撮ったものです。

 

屋内運動場の跡。
屋根が流されてしまったままです。

 

北校舎1階「震災前の面影」(写真パネル展示)
北校舎は1階のみ公開されています。ここに教室があり机があり生徒たちがいて、そこで普段の高校生活が送られていたのです。

被災して校舎が使えなくなった気仙沼向洋高校の生徒たちは、近隣の高校に分散して新年度をスタートします。新入生たちはそれぞれの場所で高校生活を始めることになったのでしょう。気仙沼向洋高校の仮校舎は2011年11月気仙沼向洋高校第二グラウンドに完成し、ようやくそこで3学年全員がそろうことになりました。

 

2011年3月11日の生徒たちと職員の方々の避難経路です。

校舎屋上に避難した方々も含めて、震災当時気仙沼向洋高校にいた生徒・教職員の方々は全員無事でした。

 

 

学び舎が遺構となりて夏の海

 

屋上に避難の子らの寒さ今も

 

 

伝承館の震災遺構を駆け足で見終えたのは14時半頃でした。
次の目的地は碁石海岸。大船渡に向かう途中にあります。それにしても、レンタカー返却まであと1時間半。少し急がないと(交通ルールを守りつつ、、、)。
ところが、カーナビに目的地をセットして車をスタートさせた途端
、いきなり迷ってしまいました。
一関でレンタカーを借りるときの営業所の方との会話を思い出しました。復興が急ピッチで進んでいるため、カーナビ情報の更新が対応しきれず、
三陸方面では実際の道路事情が反映されていないかもしれない、とのことでした。どうやら、ここから先がそういうことらしいです。このあとはスマホのカーナビアプリを併用しながら車を走らせることにしました。
道中目についたのは、海際に設置された巨大な堤防(防潮堤、防波堤)でした。海辺に近づくほど海が見えません。
岩手・宮城・福島3県の防潮堤の総延長は395kmになるとのこと。高さは最大で15.5m、ビル4階分の高さに匹敵します。

岩手・宮城・福島3県の防潮堤資料です。産経新聞2017.11.20の記事から引用しました。

 

 

風追ひて大堤防越ゆ海猫の群れ

大堤防、巨大防潮堤は海辺の景色を一変させてしまったようです。けれど、海猫たちは軽々と防潮堤を越えていきます。戸惑っているのはニンゲンたちだけなのかもしれません。

 

迫り来る怒涛を想ふ青岬

津波伝承館の次に訪れた碁石海岸で、雄大に広がる太平洋を眺めたときに脳裏に浮かんできたのは、あの日の大津波が海の向こうから迫ってくる様でした。

 

以下、防潮堤の写真です。

 

 

今回は5句詠みました。

高台へ屋上へ走れ春怒涛

学び舎が遺構となりて夏の海

屋上に避難の子らの寒さ今も

気仙沼・津波伝承館にて

風追ひて大堤防越ゆ海猫の群れ

巨大防潮堤にて

迫り来る怒涛を想ふ青岬

碁石海岸にて

 

 

最後に、国土交通省 東北地方整備局 2018年2月発行『インフラツアー ポイントガイド 復興版 ~復興の「現在(いま)」を訪ねる旅に出かけよう』から、東日本大震災の地震と津波の規模を紹介します。

 

わたしは阪神淡路大震災で被災した一人です。震度7が襲った神戸市兵庫区に当時住んでいました。もうすぐ、あれから28年が経ちます。わたしが今住んでいる家の最寄り駅までの通勤路には、あの地震で被災し取り壊された家屋の跡地が更地のまま、まだ残っています。復興には本当に長い時間がかかりますね。時には、前を見続けるのが辛いこともあるかもしれません。それでも、どうぞ一歩ずつ一歩ずつ、歩いていきましょう。

 

今年一年ご訪問いただきありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。どうぞ良いお年をお迎えください。

 

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2022年12月31日22時10分投稿します。なんとか年内に間に合いました。


 

 

 

 

 

 

 

 

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山猫🐾@森の奥へ

似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。