森の奥へ

街の喧騒に惹かれて森を出た山猫はいつの間にかずいぶんと歳をとった。いつかもう一度故郷の森の奥へ帰りたいと鳴くようになる。でも、街の暮らしはなかなか捨てられるものじゃない。仕方ないから部屋の壁紙だけ森の色に染めてみた。

不快な存在 (創作短編小説)2/6

連載2回目です。前回分はこちら👇です。

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「秋山さん、お伺いしましょう。ゆっくりと最初からお話しください」
 とりあえず話を聞くしかないだろう。片岡は覚悟を決めた。「長い話になりますが」と前置きすると、秋山は感情を抑えた口調で静かに話し始めた。

 

 


「私はつい先月まで床屋をやっておりました。家内と二人で何とか切り盛りしている程度のほんの小さな店でした。三カ月ほど前のことです。仕事の後片付けの途中で、家内が顔を剃って欲しいと言いまして、剃ってやっていますと、変な臭いがすると言うのです。あちらこちらをくんくん嗅いでみましたが床屋特有の臭いがするばかりで、私には特に変な臭いはしませんでした。臭うのは私の手だと家内は言います。剃刀をあてる時に左手で家内の顔を押えておりましたので、その手が臭ったのだと思います。慌てて手を洗いました。人様の身体を触る仕事ですので、清潔さが一番です。特に、手はお客様に直に触れる部分ですからずいぶんと気にしておりまして、以前から自分でも神経質過ぎると思うくらい丁寧に洗っておりました。ところが、洗ってすぐに臭ってみましたが特に気になるような臭いはいたしませんでした。それでもその日からは以前より念入りに手を洗うようにいたしました。今まで気付かなかったことを一度知ってしまうと、気になって仕方がないって言うことがありますでしょう。その日以来、臭いを気にしてばかりおりました……」
 時折左手が痛むのか、秋山は顔をしかめ、ぐっと何かをこらえるように右手を左肩にあてる。そのたびに中断するので、秋山の話はいつ終わるのか読めなかった。時折相づちを打つだけで辛抱強くその話を聞けたのは、片岡だからこそ出来たことなのかもしれなかった。



「変な臭いがする」と妻に指摘されてから数日後、今度は仕事中に秋山自身が異様な臭いに気付いた。初めは客が臭っているのかと疑ったが、どうやらそうではないらしい。先日の妻の言葉を思い出した秋山は、臭っているのは自分の手なのかも知れないと不安になった。そう思い始めると、手のひらがじりじりとしてたまらない。秋山は蒸しタオルを取りに行くふりをして、店の奥で手を洗った。ところが今度は客の髭を剃っている最中に臭ってきた。ちょうど左手で客の顔を押えている時だったので、途中で止めるわけにはいかない。仕方なくそのまま続ける。秋山は客が表情をわずかに歪めるのを見た。きっと手の臭いに気づかれたのだと思った。
 その臭いを「異様な臭い」、「吐き気を催す臭い」だと秋山は表現した。
 手が臭うというただそれだけのことが、これほど自分を苦しめるとは秋山は思いもしていなかった。臭うのはどうやら左手だけらしいが、それ以後秋山は日に何十回、さらには何百回と手を洗うようになった。朝起きて一番に手を洗い、食事の前に洗い、食後に洗い、お茶を一服しては洗う。そのうち指先の皮がふやけてきて、最後には皺にまみれた皮膚の谷間の筋が切れて血が滲んできた。洗っては、臭いを嗅ぎ、しばらくすると気になってまた洗った。臭うかどうかと言うことよりも、その時の秋山には手を洗うことが、まるで煙草を吸うことのように習慣性を持つようになってきていたのだった。休みの日ならそれでも構わなかったが、仕事のある日はそうはいかない。数分ごとに手を洗うのだから。秋山は次第に仕事にも他のどんなことにも集中出来なくなっていった。
 少しずつ客の数は減っていく。秋山は自分の手が臭うことがきっと噂になっているのに違いないと思った。日ごとに臭いは強くなる。朝起きた途端にむっと吐き気を催すような臭いが鼻をつき、一日の大半を過ごす店の中には始終その臭いが充満していた。澱んだ空気は重く沈殿しているようで、いくら換気しても変わりはなかった。



 秋山の話を聞いているうちに、診察室の空気も重くなったように片岡には思えてきた。少し息苦しくなった気もする。どろどろとした話の展開に片岡は口をはさむことが出来ないでいた。話題にされているその左手は、秋山の話す間ずっとふらふらと気味の悪い動きを続けている。片岡の目はその動きをぼんやりと追っているだけだった。

 

 

 






 

 

 

 

 

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山猫🐾@森の奥へ

似顔絵はバリピル宇宙さん (id:uchu5213)に描いていただきました。