八月もあと一日。夏休みが終わります。
新型コロナの影響で新学期の始まりがイレギュラーになっている地域もあると思いますが、神戸では九月一日から新学期がスタートします。
さて、夏休み最後の一日、気になるのは夏休みの宿題です。
わたしのこの夏の目標は、少なくとも小説を一つ書くということでしたが、、、あれこれあって、結局書けませんでした。
その代わりということでもありませんが、たぶん、生まれて初めて俳句を詠みました。
文章を書くのは好きですが、詩は苦手です。
もちろん俳句を詠もうなんて思ったことありませんでした。
夏休みの国語の宿題で、読書感想文を原稿用紙三枚書くのと、俳句を三句詠むのと、どちらでもいいと言われたら、迷わず読書感想文を選んできました。
今回の入院で、病室に何冊か本を持って行きました。
そのうちの一冊が『詩と出会う 詩と生きる』(若松英輔)でした。
詩について勉強したかったわけじゃなくて、若松英輔さんの本が読みかったので選んだのでした。
この本は、NHKカルチャーラジオ(文学の世界)のテキストになっています。
その本のなかに“ 俳句という「詩」──正岡子規が求めた言葉 ”という章があり、子規が考える俳句の在り方に偶然触れました。
子規についてはまったく知らないわけではありませんでしたが、俳句がどういうものか、なんて一度も考えたことはありませんでした。
ですが、というか、だからこそ、というか、俳句という「詩」はとても新鮮味がありました。子規が考える「俳句」について、上記の本から引用します。
(前略)
かつて俳句は「俳諧」といいました。人々は集って、それぞれの俳句を交わらせて一つの場を作ることに喜びを感じていました。しかし、子規以降の俳句は、その姿を個による求道といってよいものへと変貌させていきます。それは詩情に裏打ちされた言葉によって世界の本質を見極め、そのことによって己れの深みを知る一つの道になっていったのです。
その道程で子規が重要視したのは、「写実」あるいは「写生」という考え方でした。
(中略)
彼(正岡子規)が強く否(こば)んだのは、人が言葉を、人間の心情を表現するだけの道具にすることだったのではないでしょうか。
彼ら(子規とその一門の人々)にとって言葉は、何ものかによって人間に与えられたこの世──大きな意味における自然──を解き明かす鍵だったのです。人は言葉でもってこの世界の随所にある存在の秘密を解き明かさなくてはならないにも拘わらず、自分の心ばかり掘り下げている。託されたのは「自分」という小さな場所ではなく、「世界」というべき場所ではないのか、というのが子規の実感だったように思います。
(後略)『詩と出会う 詩と生きる』若松英輔
俳句で重要なことは「写実」だというのです。しかも、自分の心を掘り下げるのは意味がないともいうのです。びっくりでした。
ただ目の前にある風景や物事を写し取ればいい、というのなら、これは簡単。
そう思うや否や、早速、夏休みの宿題にとりかかりました。
以下、夏を三句、秋を三句詠んでみました。
俳句になっているのかいないのか、良いのか悪いのか、まったく分りません。分からないから臆せず発表できます。
ご感想をコメントしていただければ、とってもうれしいです。
《 夏 》
夏の暮れ幕開いたまま音が消え
蝉しぐれ野の風遠く星ひとつ
屋根瓦入道雲に突き刺さる
《 秋 》
秋の波揺れるは海かわたくしか
月ふたつ上弦の月海の月
ペン先の鋭きを見る野分かな