入院生活十一日目です。
この病棟では消灯時刻は22時と決まっています。看護師さんが病室をまわって照明を消していかれます。起床時刻(点灯時刻というのかな?)は決まってないようです。だいたい朝6時頃からみなさん活動を始められていますが、いつの間にか部屋の照明がついています。わたしも目覚ましが鳴るわけでもないのに、その時刻が迫ってきたら目がぱっちり。今朝も6時少し前にベッドから起き出しました。
今朝はその時間帯からぼちぼちと退院の準備を始めました。と言っても、着替えと洗濯物を仕分けて、持ってきた本やスマホのケーブル、充電器などをまとめるくらいなので、すぐに済んでしまいました。退院は明日なのに、なんとも気がはやるのです。
今日も「起床→検温→朝食→主治医の先生の回診→検温→昼食→シャワー→主治医の先生の回診→夕食→検温→消灯→就寝」という一日でした。
静養するだけなら入院生活も快適です。ですから、もうあと数日過ごしたい気もしています。最低限の言葉を交わすだけで誰とも喋らず、ただ自分の体と向き合い、本を読んでブログを書いて、それだけで一日を過ごしたい。そんな気もしています。
けれど明日が退院の日です。今夜が病室のベッドで過ごす最後の夜です。縁起でもない話ですが、次に病院のベッドで夜を迎えるとき、それが最期のときかもしれない。そんな思いが不意に現れました。
今回病気になってわたしが思ったのは、この前立腺がんという病気で死ぬことはおそらくないだろう。けれど、向こう岸は思ったより近くにある、ということでした。あと十年くらいかもしれない。そうも思いました。決して弱気になったわけではありません。この際、残りの期限を切っておいた方が前向きになれる気がしたのです。その上で残りの時間をどう使うか、それを考えていこう。そう思いました。
自宅で最期を迎えたいと願われる方が全体の半数くらいいらっしゃるという統計があります。
60歳以上の人に、万一治る見込みがない病気になった場合、最期を迎えたい場所はどこかを聞いたところ、約半数(51.0%)の人が「自宅」と答えている。次いで、「病院・介護療養型医療施設」が31.4%となっている。(内閣府「令和元年版高齢社会白書」より)
わたしの自宅の寝室は和室で、そこに布団を敷いて寝ています。その布団とこの病室のベッドとの違いは一体何なんだろう。それは寝心地の違いなんかでは決してないでしょう。たとえば、住む場所かどうかという違いなんだろうか。そう考えてみました。「住む」という言葉には「家や場所を決めて、常にそこで生活する」(『大辞泉』より)という意味があるそうです。病室のベッドは「常に生活する」ところではない、非日常の場所にあたります。最期は日常のなかで迎えたい、そういうことでしょうか。
「目が覚める→庭いじりをする→朝食を食べる→犬と散歩する→昼食を食べる→昼寝をする→誰かとお喋りをする→夕食を食べる→お風呂に入る→寝る」こうしたパターンをただ繰り返していく。庭いじりがテレビを見るになったり、犬と散歩するが居眠りするになったりするかもしれません。どちらにしても、これらを繰り返して残り時間をすり減らしていく。これを日常というのかもしれません。ある日、この日常のイベントの繰り返しが突然どこかでプツリと止まる。そして静かに最期を迎える。そうすれば、点滴を繋げられたり酸素マスクを付けられたり、体を固定されたりせずに最期を迎えられる。そういう願いでしょうか。
非日常が好きなわたしは、最期はどの場所を選ぶかな? でも今はまだ考えないで、そのままにしておこうと思っています。
先週の入院の朝、実習に出かける長男Mを駅まで車で送りました。降車際にMは座っていた後部座席から腕を伸ばし、運転席のわたしの左肩をポンポンと2回叩きました。
「頑張ってね、また日曜日会いにいくわ」
そんな言葉、聞くとは思ってなかった。涙が湧いて、流れました。
次男Kは入院の前夜、荷造りをしているわたしの傍に来て「忘れ物ない?」と訊いてきます。そして続けて「準備するものは、、、虫除け、日焼け止め、うちわ」と独り言のように呟き、自分の部屋に戻っていきました。
そんな日常にわたしは明日帰っていきます。