
26年前、わたしは神戸市兵庫区で震度7の揺れを経験しました。その記憶を日記とパソコン通信のログとで振り返っています。あの日から18日目です。解体撤去申請の受付業務を担当する。
2月3日(金)
6時半起床。7時50分区役所到着。8時45分より区役所4階で、倒壊家屋の解体撤去申請の受付業務。申請者の数は前より少しずつ減ってきた様子。
定時に昼食をとり、午後の一人目の応対が済んで次を待っていると、別の作業を頼まれた。申請書のコピーをとれとのこと。それから午後の時間帯はその作業で埋まる。これまでに受け付けた約1500人分の申請書のコピーをとった。その間、Y根氏(※本庁からの応援職員)は、解体の順番を早めて欲しいと言ってきた人と口論になる。
午後5時頃、受け付けは終了するが、その後もコピーと仕分け作業が続く。6時45分、ようやくすべてが終わり、公会堂(※兵庫区役所地階)に降りて夕食をとる。
今日は泊まりの予定だったので、ゆっくり仕事をしていたのだが、食事が終われば帰ってよいとのこと。応援職員の代表のI谷課長は、本庁からの職員は泊まらなくていいと言ってくれる。
応援職員は本庁からだけでなく、市役所のいろんな部署から入れ替わりやってくる。彼はグリーンスタジアムから。
震災が一段落したら、まずは球場から、全国に「ありがとう」を伝えなければ、と熱く語っていた。
周囲への気配りもよくできる人で、僕にもいろいろと声をかけてくれる。19時半区役所を出る。
お土産に賞味期限切れのパンをいくつかもらったので、今日付けの広報を持って、東山小学校に寄る。期限切れの食品はすべて処分してしまうのだ。帰っても誰にも咎められない。
1年2組の教室にS水さん(※遠縁のおばさん)が避難している。おっちゃん、おばちゃんとしばらく、地震のこと、僕の仕事の内容などについて話す。
帰宅して、蛇口をひねってみると、わずかだが水が出ていた。さっそく、トイレの水槽、風呂の浴槽に水をため、久しぶりの洗濯にとりかかる。
母と、大阪、中三河の親戚に電話をする。母は明日帰宅すると言っていたが、やめになった。
10時過ぎ、A田先生(※前任校の同僚、飲み友達、西宮在住)から電話。自宅と工場が被災し、小学校に避難していると聞いていたのだが、ようやく自宅に戻ることができたらしい。しばらく近況を報告しあい、今度飲みに行けるのはいつになるのだろうかと、二人でしみじみ話し合った。
※オリックスは「がんばろうKOBE」を合言葉にこのシーズンを戦った。シーズン序盤は5割前後の勝率で首位を西武に譲っていたが、6月に西武から首位の座を奪うと一気に2位以下を突き放しオリックスになってからは初、阪急時代から通算して11年ぶり11度目の優勝を飾った。日本シリーズでは初優勝で選手が燃え尽きたのか、野村克也監督率いるヤクルトに1勝4敗で敗れ日本一は逃した。野手陣では、前年にシーズン200本安打を達成して大ブレークしたイチローがこのシーズンも活躍しシーズンMVPに選出された。(Wikipediaより)
ガンバロウ!!KOBE(1995.3.4 神戸グリーンスタジアム)
※下のリンクは震災当日の記録です。