1月21日(土)
宏兄ちゃん(※従兄弟、父の長兄の長男、わたしは年上の従兄弟のことを「兄ちゃん」をつけて呼んでいます)が、下三河(※佐用郡南光町)から半日かけて原付バイクで見舞いに来てくれる。
「きんでん」(近畿電気工事株式会社)のロゴの入ったヘルメットを持っていたので、それをかぶっていると、ご苦労様、と声をかけられ、優先して道を通してくれたとのこと。家に来てもらうのは初めて。年賀状の住所を見て、地図だけを頼りに来てくれた。弟も片づけを手伝いに板宿から歩いて来てくれる(※西側から神戸市内方面へは、市営地下鉄西神中央駅~板宿駅の区間だけが運行していた。JR、山陽電鉄は神戸市内まではまだ動いていなかった)。
そうか、今日は土曜日だった。休みの日だ。
早速、家の片付け。屋根にブルールシートを張ってもらう(※屋根瓦がズレていたので、放置しておくと雨漏りが予想された。震災後は多くの木造家屋が屋根をブルーシートで覆っていた。屋根などの修理は、業者の方に頼んでも数週間から数か月単位で順番を待たないといけなかった)。
その後、宏兄ちゃんの奥さんの従姉妹の消息を探しにでかける。兵庫駅近くにあった自宅を訪ねたが、被災していて留守。避難先の兵庫中学校にも行ってみたが見つけられなかった。
実際に避難所に入るのは初めて。中学校の校舎の玄関ロビーでさえ避難の人で埋まっている。どの教室も避難者でびっしり。早く避難してきた人が先着順でいい場所を確保している、という感じ。
宏兄ちゃんは、頼まれて気軽に、隣家の屋根にもブルールシートを張る。
夜、前の日食べきれず残した豚肉でバーベキューをする。缶ビールを何本も開ける。宏兄ちゃんは辛党。見舞いに来てこんなご馳走にありつけるとは思ってもいなかった、と笑って話す(※今思うと、二人で呑んだのはこの夜が最初で最後かも。宏兄ちゃんは一昨年亡くなった)。
当時の避難所では、1家族ずつを区切ってプライバシーを保護することなど、最初は想定もしていなかったと思います。上記の神戸新聞の写真を見ても分かるように、体育館でも教室でも、表現悪いですが、他の家族の人たちと雑魚寝しているような状況だったでしょうか。