わたしの自宅は六甲山の傾斜地にあります。
自宅がある場所の標高は約170mです。
標高が100m高くなると気温は0.6℃下がるそうなので、わたしの自宅近辺は神戸の臨海部に比べて1度ほど気温が低くなります。
これからの冬の時季の通勤は、日の出前のまだ辺りが薄暗いころに家を出て、山を下って麓の駅に向かうことになります。
始発バスがまだ動いていない時間帯なので、毎朝歩かないといけないのです。
駅までの高低差は120mほどですが、駅まで十数分はかかります。
歩いて下ると冬場でも身体が温まり、家を出たときと駅に着いたときの体感温度の差はもっと大きく感じられます。
食べ物が少なくなる冬を前にしたこの時季、イノシシたちは食べ物探しに余念がありません。
春に生まれたウリ坊たちも身体が大きくなり、食欲は旺盛です。
つい先日もイノシシ親子に遭遇しました。
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イノシシのことで思い出したことがあります。
イノシシのウリ坊と子ザルの話です。
六甲山にはサルも棲んでいます。
滅多に見かけることはありませんが、一度だけわたしたちの街に迷い込んできたことがありました。
わたしの奥さんが当時のことをメモしていましたので、それを借りてお話します。
以下は奥さんの視点で書いています。
文中の「私」は奥さんのことです。
* * * * *
今から10年ほど前、こどもたちがまだ小学生だったころのことです。
母子のサルが山の上の小学校の近くに現れたという噂がたちました。
ここは神戸の山の中腹にある住宅地で、イノシシたちがいつもうろうろしていますし、タヌキにアライグマ、時には見たこともない彩りの渡り鳥が家の前の電線に停まっていることもありましたので、サルが現れたと聞いてもさほど気に留めてはいませんでした。
それよりも、道を歩いていて突然イノシシと出くわすことをいつも心配していました。
成長したイノシシともなれば小学生のこどもなんて簡単に踏み倒されてしまいそうなほど大きいですし、実際に隣町で大型犬や人が襲われたこともありました。
ですから、こどもたちに注意するときは人さらいはもちろんのこと、イノシシに気をつけて早く帰ってらっしゃいと言うことが多かったのです。
ところが、しだいに母子サルの噂が現実味をおび始めました。
庭で育てている野菜が奪われたとか、空いていた窓から部屋に侵入しお供え物のお団子を取っていったとか。
母ザルはどこかへ行ってしまい子ザルだけが残されたという話まで伝わってきましたが、私たちはまだ実際にサルを見かけたことはありませんでした。
そうこうするうちに年が変わり、夏がやってきました。
夏休みに入ってまもない朝のことです。
ラジオ体操から帰ってきた上の息子が門のあたりで突然「タオルー!」というような奇声をあげました。
そして慌てふためいて家に飛び込んできたのです。
「タオルがいるの?」
びっくりして私が訊くと
「ちがうちがう、サルサルサル! サルが目の前に飛んできたー!」
これが私たちとサルとの最初の出会いでした。
それからサルは頻繁に現れるようになりました。
幼な子ではなくすっかり成長したサルでした。
いつも一匹だけでした。
噂どおり、母ザルとははぐれてしまったようです。
イノシシなら家の中にいる限り心配ありませんが、サルは開けた窓から入ってくるのですから常に警戒しなければなりません。
ある日のこと、下の息子と私がリビングで過ごしていますと、突然庭にサルの姿が見えました。
野菜を育てていたので盗られては困ると息子が立ち上がり、網戸越しに「こらー、あっちいけー」と叫びました。
くるりとこちらを振り返ったサルは息子を睨みつけるやいなや、網戸に飛びかかってきたのです。
二度三度、サルは大きくジャンプして飛びかかります。
私は慌ててガラス戸を閉めましたが、遅ければ網戸を破いて襲われていたでしょう。
本当に恐ろしい瞬間でした。
それからガラス戸は普段から閉めておくようになりました。
何日かして、庭でほどよく実ってきたスイカが無残に割られているのを見つけました。
黒い縞がある緑色の皮だけが転がっていました。
赤い実はすっかり食べられていました。
息子が理科の自由研究のために育てていたのです。
他にもキュウリやトマトなど、サルが取るよりも先に収穫しなければと気をつけるようになりました。
家族の中で、サルの存在を疎む気持ちがしだいにふくらんでいきました。
夏休みが終わるとにぎやかだった蝉の声も静まって、家のまわりの雑木林から涼しげな虫の音が聞こえてくるようになりました。
そんな中、イノシシがいつになく頻繁に鳴き声をあげる日が続きました。
しばらくして近所の人から聞いた話によると、近くの雑木林でイノシシのこどものウリ坊が一匹、高いフェンス下の崖と溝との隙間に落ち込んでしまい、出られなくなっていたそうです。
数日後に近所の住人が助け出したそうですが、その間、あのサルが時折食べ物を持ってきてウリ坊に与えていたというのです。
最初は耳を疑いましたが、そういえば少し前からイノシシの親子が六、七頭で連なって移動しているときに、あのサルがウリ坊たちの末尾について追いかけていく姿を目にしたこともありましたので、もしかするとサルはイノシシ親子と行動を共にしていたのかもしれません。
イノシシが受け入れていたかどうかはわかりませんが。
この一件以来、私の中でサルを疎む気持ちがゆるみ始めたのは確かでした。
すっかり秋も深まってきたころのことです。
家は傾斜地に建っていて、広い道路を挟んだ向かいの家々の屋根が私の家のリビングからはちょうど目の高さに見えます。
ぼんやりとお茶を飲みながら外を眺めていますと、向かいの家のベランダにあのサルがいるのを見つけました。
何か実のようなものを次々と食べています。
お向かいさんがプランターで育てていたものでしょう。
食べ終わると、サルは壁沿いに雨水を流す樋を伝ってするするっと移動していきます。
サルは縦横無尽に家々を駆け回っていきました。
ある時、突然カラスのけたたましい鳴き声とサルの甲高い声が聞こえてきましたので外を見ると、電柱のてっぺんに登ったサルを2羽のカラスが攻撃しているところでした。
サルの方も下に降りればいいものを意地にでもなっているのか、飛びかかってくるカラスを手で振り払うようにして防衛しています。
きっと怪我を負ったことでしょう。
私はハラハラしながらただ見ていることしかできませんでした。
しつこいカラスの攻撃はしばらく続き、やがてサルも諦めたのか電柱を降りてゆきました。
カラスは相手が人間でも敵意を見せた人の顔を覚えていて、あとから攻撃することがあるそうです。
これまでもカラスとサルの叫ぶような声を何度も耳にしていたので、サルはふだんからいじめられていたのかもしれません。
ある日の夕方には、向かいの家の三角屋根のてっぺんに腰かけているサルを見つけました。
山を背に南を向いて、遥か彼方の海をぼんやりと眺めているかのようです。
リビングの椅子に座る私とちょうど目の高さが同じでした。
私はサルの横顔を見ていました。
傾きかけた光がサルの身体全体に不思議な陰影をつくっています。
ふいに甘い感傷が胸に込みあげました。
サルはどうしてここにいるのでしょう。
どこからやって来たのでしょう。
お母さんとはどうしてはぐれてしまったのでしょう。
いつまでひとりぼっちなのでしょう。
私は決して知ることのできないこの子ザルの境遇を思い、もし手が届くなら、抱きしめてやりたいと思ったのです。
それから間もなくしてサルの姿を見かけなくなりました。
私は、自分がいつのまにかサルが現れるのを待っていることに気づきました。
やがて近所の人から、保健所の人がサルを捕獲していったと聞きました。
息子もそのことを耳にしたらしく、
「今ごろサルはどうしてるかな、また戻ってくるかな」
と訊いてきます。
「どうなんだろうね、動物園に連れていかれたのかな」
どこかで元気に暮らしているといいな……
私はそう願いました。
* * * * *
「タオルー!」と叫んで家に飛び帰ってきた上の息子は大学生になりました。
わたしはリビングから外を眺めています。
お向かいの家の屋根が正面に見えます。
あの時と同じ三角屋根がちょうど目の高さにあります。
何の変わりもないただの三角屋根です。
そこはずっと空席のままです。
あれからまだ一度も子ザルが現れたことはありません。